フランス人「日本の常用漢字を全部ホワイトボードに書いてみた!」

スレッド「ホワイトボードに日本の常用漢字を全部書いてみた」より。
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引用:Reddit


(海外の反応)


1No infomationスレ主 
ホワイトボードに日本の常用漢字を全部書いてみた


2No infomation万国アノニマスさん
マジかよ、こんなに多いとは知らなかった


3No infomation万国アノニマスさん 
ありがとう!勉強を続けるモチベーションが湧いてきたよ 

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「講義をサボるほど優秀だったりしてw」三重大、史上初の忍者学位を授与。

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日本の大学が史上初の忍者学位を授与
東京:三橋源一さんが2年間かけて自らの武術を磨き、封建的な武術組織の詳細なしきたりを身につけた後、日本に初めて忍者学の卒業生が誕生した。
45歳の三橋さんは、日本の中部地方にある三重大学で修士課程を修了した。この三重大学のある地域は、忍者の里とされてきた。

「忍者は午前中に農民として働き、午後から武術を学んでいたと書かれていました」

そのため三橋さんは、教室で忍者学に関する豊富な知識を学ぶことに加えて、野菜を栽培し、武術の研鑽にも取り組んだ。
詳細↓

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外国人による不幸自慢大会 またしても盛り上がりを見せてしまう

スレッド「誰よりも酷い一日を過ごした人達を集めてみた」より。
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引用:Boredpanda


(海外の反応)


1No infomation万国アノニマスさん 
レインボーケーキを焼こうとしたのにユニコーンのケツみたいになった


2No infomation万国アノニマスさん
チョコレートのアイシングで全部何とかなるぞ!


3No infomation万国アノニマスさん 
とはいえこれでも多分美味しいはずだ

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「日本と西洋の宗教上の違いが死因にも表われている」(明治時代の海外旅行記:松井茂『欧米警察見聞録』)


 こちらは明治時代の官僚だった松井茂が官命によって明治34年(1901年)から明治35年(1902年)にかけて欧米各国の警察制度を視察したときの視察記(『欧米警察見聞録』)で、興味深かった記述や当時の社会の様子が窺える記述を取り上げた記事です。

 なお、引用箇所の一部には現代の基準だとあまり良くない表現がある場合もありますが、歴史的記述であることを尊重し一切手を加えていません。


<松井茂>

松井 茂(まつい しげる、1866年11月4日(慶応2年9月27日) - 1945年(昭和20年)9月9日)は、日本の内務官僚、政治家。

1901年から翌年まで欧米各国を巡歴し警察及び消防を視察、救助はしご車の輸入や救急自動車の導入に尽力する等、日本に於ける警察と消防行政の基礎を築いた人物である。

松井茂


参考文献:松井茂 『欧米警察見聞録』 1909年 警察協会
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明治時代の海外旅行記で面白かったところのまとめ




●西洋ではキリスト教のため日本と違って情死が非常に少ないという記述です
西洋に於ては、概して宗教上よりして我邦の如くに二人一所に死することはない、故に我國の如き情死等の類は極めて稀なりとの事である。

松井茂 『欧米警察見聞録』 1909年 警察協会 p.47

【要約】
 西洋ではキリスト教のため日本のような情死(心中)は大変珍しいという内容です。

【備考】
 キリスト教が自殺を否定していることについては論点が多いのですが、詳しく踏み込んでしまうと泥沼にはまってしまうので、ここではアウグスティヌスが「神の国」で自殺について言及している箇所を引用する程度にとどめておきます。

 まず、アウグスティヌスは原則論としては自殺を否定しています。
ものの道理をよく考えてみると、ある人が、どんな苦難であろうと、また自分の関与しない罪を耐え忍ぶことができずに自分の身を殺したばあい、それを度量が大きいということさえも正しくないであろう。じっさい、自分の身体の苦しい隷属やあるいは大衆の愚かな意見を耐え忍ぶことができないのは、むしろ精神の虚弱と認められるのである。

アウグスティヌス 『神の国1』 1984年 岩波書店 p.71

 そしてアウグスティヌスはいかなる場合に自殺が許されるかを詳細に検討し、例外的に自殺が許される場合について次のように述べています。
まして創造主が命令するばあいにはどうであろう。それゆえ、自殺してはならないときかされている人も、その命令を軽んじてはならないものが命ずるばあいには自殺しなければならない。ただ必要なのは、この神の命令が不確実なものによって動かされてはいないかどうかを知ることである。

アウグスティヌス 『神の国1』 1984年 岩波書店 p.80

 細かい点を全て脇に置いておくと、キリスト教ではこのように人が自殺できる場合というのを極めて限定的なものにしています。


 一方で日本で情死が多いことについてですが、このことは当時の日本でも有名だったようで似たような記述をいくつも見つけることが出来ました。
余の寡聞なる未だ歐米各國に此類多きを耳にせす偶々之れあるも眞に稀有の事にして本邦の如く頻繁ならさるか如し

呉文聡 『統計実話』 1899年 丸善 p.59
近來の新聞紙上、頗る情死多し、
男女の情死は世界に於て殆ど我國の専有物たるが如し、つまらないものを専有物とせる哉、

大正名著文庫 『放言録』 1915年 至誠堂書店 p.109

 当時の日本での情死の多さは予想以上で、例えば1902年発刊の「教育叢書」では次のように、ほとんど毎日のように新聞で報道されていると言及されています。
試に各新聞を執り其第三面を一瞥せよ、殆ど連日若くは隔日に血腥(ちなまぐさ)き記事なきはなく、少くも一週間に兩三回の情死記事なきはなきに非ずや。

塚越芳太郎 『教育叢書』 1902年 民友社 p.108

 呉文聡は1899年発刊の「統計実話」の中で情死件数について具体的な数字を出していますが、明治28年1月から明治31年5月までに101件起きているとしています。しかもこれは2-3の新聞のみを参考にしたとの事なので実数としてはこれよりもずっと多いと思われます。
余か今調査し得たる事実は去る二十八年一月より昨三十一年五月に至る二三の小新聞より採集せしものにして情死の数は都合一百一回とす

呉文聡 『統計実話』 1899年 丸善 p.63

 この情死については当時の日本人も色々原因を推測していますが、仏教上の教義にその答えを求めているものが多い印象でした。
一 佛敎に輪廻應報の説あること
二 主從は一世夫婦は二世親子は一世と云ふ説行はれ夫婦は此世のみの縁にあらす來世も亦夫婦となるへきものなりとの説あること
三 浄瑠璃に情死又は情死に類似せる歌曲多くありて衆民日夜口之を歌ひ耳之を聞くこと
四 演劇に於ても同様なる狂言多きこと

呉文聡 『統計実話』 1899年 丸善 p.60
蓋し情死の我國に多かりしは、佛敎の影響その第一にありて、はかなき現世を悲観すると共に樂しき來世を願ひ、一蓮托生の信念に驅られ夫婦は二世の諺に迷ひ、これに世間の義理柵と情緒纏綿の離れ難きとを加へて死せるものといふべし、

今日の情死は未來夫婦の舊思想よりも、現在に於ける情死者の心理狀態と家庭の生活狀態と社會の境遇上とに最も重き原因ありて、

大正名著文庫 『放言録』 1915年 至誠堂書店 p.113

 勿論仏教とキリスト教の教義もこの情死に与えた影響は大きいと思いますが、それだけが原因であれば現代日本でも当時と変わらず連日のように情死が起きているはずなので、恋愛の自由度も大きく関わっていたのではないでしょうか。

 また、上記の記述で興味深かったのは「主從は一世夫婦は二世親子は一世」という諺です。私は恥ずかしながらこの諺を知らなかったのですが、上記の記述でどちらでも言及されているように当時は有名な諺だったようで他の情死に関する文献でも多く見かけました。

 日本の歴史では主従や親子関係の強さが取り上げられることが多く、それと比べると夫婦関係は軽い扱いをされているような印象ですが、この主従や親子関係が「一世」のもので、夫婦関係が「二世」に及ぶものであるとされている諺があるのは新しい視点であり興味深かったです。


 また、この情死に関して他に興味を引かれたのは1887年発刊の「滑稽独演説」での次のような記述でした。
昔し流行た謠に「情死しましよか髪切ましよか髪ハ生もの身はたから」と云ふ文句が御座ります

此奴は一番むかし風に立戻て髪を切て誓を立た方が極手輕でよい様に思ハれます

痩々亭骨皮道人 『滑稽独演説』 1887年 共隆社 p.126


昔しならば髪を切る處なれども當時ハ髪を切るのも餘り値打がありませんからソコハ臨機應變で何とか新發明の氣證を作り死でも命のある様な工夫をして貰いたいと申すので御座います

痩々亭骨皮道人 『滑稽独演説』 1887年 共隆社 p.131

 この記述では髪を切って誓約を立てることを古風なやり方として紹介していますが、これは現代とは違っているような気がして面白い内容でした。

 現代で「髪を切る」ということに特別な意味が含まれている時は、例えば願掛けで髪を伸ばして願いが成就した時に髪を切ったり、(主に)女性が失恋した時に心を一新させるために髪を切ったりという場合の方が多いと思うので、時代の変化をここから感じました。




キャプチャ

お客の男に迫られて、娼妓も死ぬ氣になつて情死するやうな場合は、斷じて無いと云つて宜い、男から發意した場合のは十中の八九まで無理心中である、大抵の情死は皆娼妓から申込むのである、夫れも惚れ合つた男との眞の情死は、夢にも見る事が出來ぬと云つて宜い、

情死でも爲ようとする娼妓だもの、美人ではない、お客が少ない、借金がある、新造に馬鹿にされる、遣手に叱られる、内所の御機嫌を損ねる、そこで生きて居ても詰らぬと考へる、自殺しやうと覺悟する、然も一人で死ぬのは淋しい、道連が欲しくなる、誰彼の差別はない、男でありさへすれば一所に死なうとする、

吉原に於ける娼妓の情死はこれが眞實である、淺薄な見解だが、事實は案外平凡なものだ、

大道和一 『情死の研究』 1911年 同文館 pp.95-96