「日本人とヨーロッパ人の君主観はかなり違っている」(明治時代の海外旅行記:中島力造『欧米感想録』)


 こちらは明治時代の倫理学者だった中島力造が明治43年(1910年)に官命によって欧米各国の教育制度を視察した時の視察記・旅行記(『欧米感想録』)で、興味深かった記述や当時の社会の様子が窺える記述を取り上げた記事です。

 なお、引用箇所の一部には現代の基準だとあまり良くない表現がある場合もありますが、歴史的記述であることを尊重し一切手を加えていません。


<中島力造>

中島 力造(なかじま りきぞう、安政5年1月8日(1858年2月21日) - 大正7年(1918年)12月21日)は倫理学者。同志社英学校最初の学生のひとりで開校当初元良勇次郎、上野栄三郎とともに真っ先に駆けつけた。

日本に初めてT・H・グリーンの思想を導入。その普及に努め、功利主義から理想主義への倫理学の拡充を図り、倫理学の学としての独立性を確立した。personalityやpersonの訳語として「人格」を定着させたのも彼の功績である(もともと「人格」という語はカント哲学に基づく倫理学的用法によるものだった)。

中島力造


参考文献:中島力造 『欧米感想録』 1911年 東亜堂書房
関連記事
【宣伝】暇劇の同人誌(『幕末・明治期の西洋人が見た日本(絵画篇)』)が完成しました。
【宣伝】暇劇の同人誌第二弾(『幕末・明治期の西洋人が見た日本(入浴文化篇)』)が完成しました。

[PR] 暇は無味無臭の劇薬のYouTubeチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UC_yC7ccaessdpgHzsoPD7Yw

明治時代の海外旅行記で面白かったところのまとめ




●日本人とヨーロッパ人では君主に対する感じが異なっているという記述です。
歐羅巴各國では、如何に盛なる國であり、如何に富んで居る國であるといつても、皇室又は主權者に對する咸じが、日本とはまるで異つて居るのであります、

日本のやうに皇室が萬世一系でないためでもありませうが、兎に角皇帝陛下皇后陛下に對して、向ふの人が持つて居る咸じは、日本の人民が皇室に對する咸じとは非常に異つて居る、

唯だ主權者であるから服從して居るといふ風で服從して居る者が多い、國王又は皇帝に對する咸じが、餘程我々とは異つて居る、

中島力造 『欧米感想録』 1911年 東亜堂書房 p.35

【要約】
 日本人と西洋人では皇室/王室に対する感じが違っていて、西洋人は単に権力者だから従っているような感じがするという内容です。

【備考】
 当時の日本人による旅行記では西洋各国の君主や国民の君主に対する見方というものに触れられることが多く、その中でもイギリスの国王/女王の話題は多いのですが当時の日本人からすれば理解できなかったことが多いようで困惑交じりで書かれている印象を記述から受けます。

 特にクロムウェルが「反逆者」であるにもかかわらず銅像が英国議会であるウェストミンスター宮殿に設置されていたりすることについては憤りすら込められて書かれている事があり、例えば、1901年発刊の「欧米管見」や1916年発刊の「大英国の表裏」では以下のように言及しています。

 要約するとクロムウェルの銅像が英国議院に建てられている事を不忠ではないかと考え、日本人とイギリス人では随分と考えが違っているという感想を残しています。
議院の内外には所謂名君賢相の遺跡を表彰する爲め大なる紀念の肖像が林立して居る、其中にクロンウエルの像が著しく私の眼に留つた、

クロンウエルは謂(い)はば日本の足利尊氏に類する人、否な、尊氏よりモトツ酷い不臣の事をしたのである、其人の肖像が議院の表に麗々しく紀念として建てられて居る、

更に議院の中に這入れば上院と下院とに通ずる廊下には英吉利の名譽を表彰する歴史畫の多くを掲げてある、其中に極く寂しい圖(ず)が一ツある、就いて是を看れば彼クロンエルに死刑の宣告を受けた英王チヤーレス一世の葬式の圖であツた、

英人は之を以て名譽とするであらうか、我輩には解し難い、我々は後醍醐帝の船上山の遷幸の圖を看ては憤慨に堪へない、然るに英吉利の國民は國王を死刑に處してその寂しき葬式の様を手柄かましく數百年の後まで之を議院に掲げて居るのは随分不臣の至りではないかと想ふ、

大岡育造編 『欧米管見』 1901年 大岡育造 pp.2-3
英國の議院を見物に行つた時に第一に驚いたものは議院内に建てられてある「クロンウエル」の銅像で、次に驚いたものは傍聽人控席にある壁畫(へきが)であつた、前者は即ち西暦千六百四十九年にチヤールス二世を弑し奉つた大逆人で、後者は西暦千六百八十二年帝王の使者と議會(ぎかい)と衝突して遂に帝王をして議會の意に從はしめた事柄である。

(中略)

自國の陛下を弑し奉つたクロンウエルを、假令(たとえ)其處に如何なる道理があるにもせよ崇拝の的として議會の構内に建てて居る英國と、萬世一系の天皇陛下を戴いて陛下は吾等を陛下の赤子として愛慈み給ひ、我等は我等の家長として神人格として崇敬し奉り、曾て陛下と臣民と衝突した事なき日本と、議會と帝王の使者と衝突して遂に帝王をして議會の意に從はしめ是を以て唯一の誇りとして居る英國とは大に異ならざるを得ないのである、

早川徳次 『大英国の表裏』 1916年 富山房 pp.164-165


 ウェストミンスター宮殿になぜクロムウェルの銅像があるのかということについては海外の質問サイトでも取り上げられていました。回答を見る限りではこの銅像を建てる際には賛否両論巻き起こったようで最終的には私人による寄付という形で建てられたそうです。
 関連:Why is there a statue of Oliver Cromwell, a well known anti-monarchist and republican, outside the British Parliament?

※ウェストミンスター宮殿にあるクロムウェル銅像
statue-of-oliver-cromwell


 現代の海外掲示板などでもたまにクロムウェルの話題を見かけることはありますが、どちらかといえば否定的に見られている事が多く、肯定的な評価がされる場合は軍事面やイギリスの国家制度への影響について言及されることが多いです。

関連:What do you think of Oliver Cromwell?
   What do the British think of Oliver Cromwell?
   Why Oliver Cromwell may have been Britain’s greatest ever general – new analysis of battle reports

 上記の記述は当時の日本人らしい感想だと思い、当時の日本人は大体このように考えていたのではないかと思ったのですが、一応当時の日本の書籍でクロムウェルがどのように扱われているか調べてみたところ、悪く書いている記述も多い一方で、意外と評価している記述も少なくありませんでした。
クロンウエルは英國人の最も偉大なる者にて、他か佛人を代表する如く、古今英雄の中に立つて英人を代表せり。

塩見平之助 『偉人之風化 修養逸話』 1909年 東亜堂 p.16
簒奪者、壓制者の權化たるクロンウエル

山本実彦 『我観南国』 1900年 文学同志会 p.178
彼は飽迄で直情徑行の偉人にして、正義のため、人道のためには何物をも犠牲に供せんとせり、

増田義一 『東西名士発奮之動機』 1910年 実業之日本社 p.309
なんと云ふ亂暴な惡魔でしよう、クロンウエルと云ふ奴は、惡い奴ですね。

日本童話学院編 『童話の西洋歴史』 1925年 中央出版社 p.283


 クロムウェル以外でも自国の国王や女王の処刑場面等に対するイギリス人の態度について日本人の旅行記で色々書かれていますが、その一例としては1911年発刊の「南北四万哩」があり、その中で著者はマダム・タッソー館という蝋人形館を訪れた際、アン女王の処刑場面を再現した所で観客が指を差しながら談笑している様子を見て日本人の帝室観ではイギリス人の王室観を理解するのは難しいと述べています。
有名なるマダム、チユソーの蝋細工館を訪ふ、その歴史部の一舞臺(ぶたい)として再びアン女王刑戮(けいりく)の状を目撃す、而(しか)も觀覽(かんらん)老幼の客指呼談笑す。

思ふに吾人の同胞は鎌倉に大塔宮幽囚の巖窟に臨みて皆期せずして悲憤の情に驅らるるもの、吾等の帝室觀を以て今英人の王室觀を判ぜんとする徹透缺(か)く寧ろ當然のみ。

大庭柯公 『南北四万哩』 1911年 政教社 p.104
マダム・タッソー館(Madame Tussauds)は、イギリスのロンドンにある蝋人形館。ロンドンの観光名所のひとつ。

マダム・タッソー館


イングランド王ヘンリー8世の2度めの王妃。エリザベス1世の母。初めは王妃キャサリンの侍女であった。のち王の寵(ちょう)を得て1533年結婚したが,教皇クレメンス7世はこれを認めず,イギリス宗教改革の原因となる。不義を理由にロンドン塔で処刑された。

アン・ブーリン


護良親王(もりよししんのう)は、鎌倉時代末期から建武の新政期の皇族・僧侶・武将・天台座主・征夷大将軍。還俗前の名は尊雲法親王(そんうんほっしんのう)、通称を大塔宮(正式には「おおとうのみや」/俗に「だいとうのみや」)とも。

元弘の乱で鎌倉幕府を打倒することに主たる功績を挙げ、建武の新政では征夷大将軍に補任。しかし、尊氏を疎む護良は、武士好きで足利尊氏を寵愛した父とはすれ違いが多く、将軍を解任され、やがて政治的地位も失脚、鎌倉に幽閉される。のち、中先代の乱の混乱の中で、足利直義の命を受けた淵辺義博によって殺害された。鎌倉宮の主祭神。

護良親王


 上記の記述だけだと西洋人が国王に敬意を払っていないような印象を受けますが、当時の日本人の旅行記には西洋人が国王に対して敬意が払っているという記述も多く見かけます。それらの記述の中では西洋では敬意の払い方が日本とは違っているという書き方をされる場合が多いです。
英人の王室を敬愛するの情は甚だ切にして、女皇を見ると誠に赤子の慈母を慕ふに異ならず、例へば盛典の當日(とうじつ)には老若男女各勝手次第に祝辞を女皇に奉らんとするもあれば、物品を呈せんとするもあり、

鎌田栄吉 『欧米漫遊雑記』 1899年 博文館 p.87
群衆は帽子を掲げハンケチを振つて、敬祝の意を表する。我が日本であつたなら、臣民は咸涙にむせんで、粛々として頭も擡(もた)げ得ぬ所であるが、そこは又國風が多少違つてゐる。

幣原坦 『世界小観』 1912年 宝文館 p.321
ドイツ国民は帝王を尊敬し政府を尊重する気持ちが強い。そこで日本の本国から使節が来るということを聞いた教師が、留学生にわざわざ休暇を与えて公館に伺候させ、地方にいるものまでベルリンに集合させたのである。

学業に関係ないからと言ってこれを怠ろうとしたものは、道を知らぬものだと批判されたということである。英米では、こんなふうに学生が送迎に気を使ったりすることを却って笑っていた。国々の人情がそれぞれ異なることはこんなところにも見える。

久米邦武編著 『特命全権大使米欧回覧実記 3』 2008年 慶應義塾大学出版会 p.336


 これらは日本人から見た君主観ですが、明治時代に来日した西洋人も日本人の君主観については目を引かれたようで言及している事が多いです。

 それらはどれも興味深いものばかりなのですが、その中でも、明治五年に横浜でされた鉄道開通式においてジョン・レディー・ブラックが目撃した以下の出来事は当時の様子がよく分かるものではないかと思います。
そこでミカドはかねて用意してあった控室にしりぞき、汽車が江戸へ向って帰路につてまでの間、しばらくお体みになった。ところがここで記録する価値が充分にあるような出来事が起った。

ミカドと官吏全部が式台をはなれるとすぐに、民衆はこの式台めがけて駆け込み、ほんの二、三分のうちに、陛下が坐っておられた椅子はめちゃくちゃに壊され、陛下が踏まれた敷物はずたずたに引き裂かれてしまった。

どちらかひとつの切れっ端をほんの一片でも確保できた人はだれしも、自分を非常な幸運児だと思った。警官はそれを防ごうとしたけれども、何もできなかった。

ジョン・レディー・ブラック 『みかどの都』 1968年 桃源社 p.159

 現代日本人から見ると当時の日本人のこの行動はある程度理解できても、凄い出来事であることには変わりないのではないでしょうか。ましてや西洋人からすればこの出来事がどれほど衝撃的だったかは察するに余りあり、著者が「記録する価値が充分にある」としたのも頷けます。




キャプチャ


「日本と違ってヨーロッパの学校では統一的な教科書が採用できない理由」(明治時代の海外旅行記:中島力造『欧米感想録』)


 こちらは明治時代の倫理学者だった中島力造が明治43年(1910年)に官命によって欧米各国の教育制度を視察した時の視察記・旅行記(『欧米感想録』)で、興味深かった記述や当時の社会の様子が窺える記述を取り上げた記事です。

 なお、引用箇所の一部には現代の基準だとあまり良くない表現がある場合もありますが、歴史的記述であることを尊重し一切手を加えていません。


<中島力造>

中島 力造(なかじま りきぞう、安政5年1月8日(1858年2月21日) - 大正7年(1918年)12月21日)は倫理学者。同志社英学校最初の学生のひとりで開校当初元良勇次郎、上野栄三郎とともに真っ先に駆けつけた。

日本に初めてT・H・グリーンの思想を導入。その普及に努め、功利主義から理想主義への倫理学の拡充を図り、倫理学の学としての独立性を確立した。personalityやpersonの訳語として「人格」を定着させたのも彼の功績である(もともと「人格」という語はカント哲学に基づく倫理学的用法によるものだった)。

中島力造


参考文献:中島力造 『欧米感想録』 1911年 東亜堂書房
関連記事
【宣伝】暇劇の同人誌(『幕末・明治期の西洋人が見た日本(絵画篇)』)が完成しました。
【宣伝】暇劇の同人誌第二弾(『幕末・明治期の西洋人が見た日本(入浴文化篇)』)が完成しました。

[PR] 暇は無味無臭の劇薬のYouTubeチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UC_yC7ccaessdpgHzsoPD7Yw

明治時代の海外旅行記で面白かったところのまとめ




●ヨーロッパ諸国では宗教上の理由で同じ教科書を使って教育が出来ないという記述です。
欧羅巴に参りますると、宗教が異ふので、自分の子供は此の學校に入れぬ、又或學校に行つても、宗教だけは教育して貰はぬと斷りをいひます、或は斯ういふ教科書を使つては困ると言ふて居る、それ故に國内に於て、同じ教科書で國民を教育することは、宗教の爲に出來ないのであります。

さういふ事は日本にはない、日本では、政府の拵へた國定教科書を使ふことを拒む者は一人もないのであります。

中島力造 『欧米感想録』 1911年 東亜堂書房 pp.33-34

【要約】
 ヨーロッパでは宗教上の理由によって生徒の親から教科書の内容にクレームが来るので、全国で同じ教科書を使用することが出来ないのが日本とは違っているという内容です。

【備考】
 当時の日本人で欧米の学校を視察した人は多いのですが、教科書のことにまで踏み込んで言及している人は意外と多くないので興味深い内容でした。

 当時欧米の学校を視察した日本人がその授業方法について述べている中でよく目にするのは、授業の場で教科書があまり使用されていないというものです。

 例えば、1912年発刊の「世界小観」ではフランスの中学校の授業について次のように記述しています。要約すると教科書の内容が詳細すぎるため教師は教科書を使用していないという内容で、その点に関しては日本の教科書の方が優れているとしています。
モンテーヌ中學校に於て地理の授業を見た。が、教師は唯記憶によつて之を教へて居て、教科書は無い。否、教科書は有つても、餘りにむづかしい爲めに、其の大略を摘んで授けてゐるのである。而して生徒は、其の要点を筆記して、且よく発表しつつ、業を受けて居た。

又此の學校の博物の授業をも見たが、矢張教科書が精し過ぎるために、口授を以って之れを教へて居た。斯の如く、教科書に關しては、日本が遥に整頓して居るのである。

然るに學力をつける事に於いては、なかなか成功して居るやうに見えるのは咸心である。

幣原坦 『世界小観』 1912年 宝文館 p.295

 明治期に来日したロシア人のメーチニコフは「回想の明治維新」の中で日本の教科書について次のように触れています。残念ながら日本の教科書の何に「驚いた」については詳しく言及されていないのですが、この記述だけでも日本の教科書が特徴的だったことが窺えます。
おそらく読者のなかには、日本の国民学校とその生徒数の異常な多さを示す統計数字を一度ならず見た人もいるだろうし、ひょっとすると国際教育博覧会の会場で、こうした日本の学校が採用している教科書の見本や、生徒たちの作品を見て驚いた人もあることだろう。

レフ・イリイッチ・メーチニコフ 『回想の明治維新』 1987年 岩波書店 p.231

※明治時代の小学校の教科書
52_1meiji-textbook
http://shiomo.jp/archives/942

キャプチャ


 欧米諸国では教育と宗教の問題が存在すること(進化論など)については結構有名な事だと思いますが、これに関して英語圏の記事で詳しいことを調べていたところ、アメリカ合衆国のキリスト教系学校の教科書事情について語られている記述を見つけました。
These students are shaped by Christian schools curricula that purport to teach “traditional values.” Randall Balmer, a historian of religion at Dartmouth College and author of The Making of Evangelicalism, said many popular textbooks used in Christian schools teach American history in ways that privilege white culture. For example, the books often downplay the displacement of Native Americans or minimize slavery by noting its “positive effects,” such as introducing slaves to Christianity.

(キリスト教系学校では『伝統的価値観』を主眼として生徒を教育しており、宗教史を専門とするRandall Balmerはキリスト教系学校で人気のある教科書の多くは白人視点でアメリカの歴史を教えていると指摘しています。例えばそれらの教科書では奴隷達にキリスト教をもたらしたという『プラス面』を見せることによって、ネイティブアメリカン迫害や奴隷制といった負の側面を過小に演出しています)

Segregation Is Still Alive at These Christian Schools

 これらは宗教と教育が分離されないことによる弊害だと思われますが、中島力造は別の箇所でこれによる良い面についても以下のように言及しています。要約すると教師は信仰心を持ったものが多く、神の命令を受けて子供を教育しているという使命感を持っているという内容です。
彼等は宗教の精神で教育に従事して居ります、自分は神の造つた所の子供を教育するの任に當つて居るのである、神の命を奉じて此の者を教育して居るのであるといふ信念を以て居ります、又一方には此の兒童を教育して立派な人にして國に報ゆるといふ考を以て神に仕へ國に盡して居るのであります、

中島力造 『欧米感想録』 1911年 東亜堂書房 p.135


 このように欧米諸国では宗教的熱心によって教育がなされているという記述は当時の日本人の旅行記や視察記では割合見かけることが多いのですが、当時欧米諸国でキリスト教が衰退し宗教と教育が分離し始めているという記述も見かける頻度が高いです。

 例えば「世界小観」ではフランスではキリスト教の勢力を衰えつつあり、教育と宗教が分離されるようになったことを「人の知る所である」としていますが、この書き方からは当時その傾向が日本でも有名だったのではないかと推測できるのではないでしょうか。
伊太利や佛蘭西を通過して咸ずることの一つは、耶蘇教の勢力が次第に衰へつつあることである。

佛國では、教育と宗教とを分離することについての騒ぎが起つたことは、人の知る所である。從來はいふまでもなく、學校において耶蘇教を説いて來たので、僧侶は乃ち教育に關係してゐたのである。

然るに最近になつて、教育は全く宗教より獨立せんければならぬという主義が、政府の執る所の方針となつた。

幣原坦 『世界小観』 1912年 宝文館 p.275

 これが日本人による単なる推測ではないことは1899年(明治32年)に来日したフランス人画家であるフェリックス・レガメの次の記述からも読み取ることが出来ます。ここでは日本の教育が宗教と無関係であることについて触れるついでにフランスでもそれが実施されている事に言及していて、実際に宗教と教育が分離し始めていたことが分かります。
貧しい人々の学校――宗教と完全に無関係であることが、もう永らく日本の学校教育の特徴となっている。この実施は、われわれのところでは新しいことだが、反発を引き起こしている。

つまり、少なからぬフランス人が、これを全面的に実施することによって、献身的なすばらしい教師や、並外れて賢く、勉強熱心な生徒を生み出すことができたと、認めたがらないであろう。ところがそうなのである。

エミール・ギメ、フェリックス・レガメ 『東京日光散策 日本素描紀行』 1983年 雄松堂出版 p.268

 同じく明治時代に来日していたアドルフ・フィッシャーも当時のオーストリアが教育を巡って国と教会で争われていることを記述しているので当時の欧州ではこの傾向が顕著だったのかもしれません。
(アドルフ・フィッシャー 『100年前の日本文化 : オーストリア芸術史家の見た明治中期の日本』 1994年 中央公論社 p.34)




キャプチャ

キャプチャ
https://www.nier.go.jp/library/textbooks/K110.html

「イギリス、フランス、ドイツの公園にはそれぞれの国民性が反映されている」(明治時代の海外旅行記:石井謹吾『外遊二回』)


 こちらは明治時代の官僚だった石井謹吾が明治38年と明治42年に欧米各国を訪れた経験をもとに書かかれた見聞記(『外遊二回』)で、興味深かった記述や当時の社会の様子が窺える記述を取り上げた記事です。

 なお、引用箇所の一部には現代の基準だとあまり良くない表現がある場合もありますが、歴史的記述であることを尊重し一切手を加えていません。


<石井謹吾>

石井 謹吾(いしい きんご、1877年(明治10年)10月22日 - 1925年(大正14年)9月2日)は、埼玉県出身の政治家、実業家、弁護士、内務官僚。

文官高等試験行政科に合格し、1899年(明治32年)に明治法律学校を中退。

内務省に入省し、地方局に配属。滋賀県事務官・第二部長[3]、秋田県・群馬県の内務部長などを歴任し、1913年(大正2年)に退官。

後に弁護士を開業し、高等裁判所判事などにも就任。一方で、実業家として東印拓殖、南洋興業の社長などを務めた。

石井謹吾


参考文献:石井謹吾 『外遊二回』 1910年 警眼社
※記事の比重が偏っているというご指摘を受けたので少しずつ改善します。

関連記事
【宣伝】暇劇の同人誌(『幕末・明治期の西洋人が見た日本(絵画篇)』)が完成しました。
【宣伝】暇劇の同人誌第二弾(『幕末・明治期の西洋人が見た日本(入浴文化篇)』)が完成しました。

[PR] 暇は無味無臭の劇薬のYouTubeチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UC_yC7ccaessdpgHzsoPD7Yw

明治時代の海外旅行記で面白かったところのまとめ




●こちらはイギリス、フランス、ドイツの公園にそれぞれの国民性が反映されているという記述です。
倫敦(ロンドン)に於ける最大の公園は、即ち「ハイツトパーク」にして、巴里(パリ)に於けるものは「ボアテブーロン」公園なり、又伯林(ベルリン)に於けるものは、「チーアーガルデン」公園なりとす。

而して是等三公園に於ては、各々其特殊の點(てん)ある事を發見する事を得。之を以て各國人種の特性を窺ふ事を得るもあり、

卽(すなわ)ち「ハイツトパーク」公園中には實(じつ)に蒼蒼たる廣大(こうだい)の芝生ありて、常に市人の運動を便ぜる如き、又「ボアテブーロン」公園の吾人の視咸を喜ばしむる如く樹木刈込草石の配置をなせる如き、又「チーアーガルデン」公園の蒼蒼鬱鬱たる森林の如く何(いづ)れも同一の式に於て作られたるものなし。

是れ卽ち各國國民性の反映とも見る事を得べし、卽ち如何に英人は運動に熱心にして、「スポート」狂なるかを見る事を得、又佛人が如何に美的趣味に富みて享樂に腐心せるかを知る事を得、又獨逸人が其公園の經營上學理の應用(おうよう)をなし卽ち森林は大気中に吾人生存上の一大必要條件たる酸素を供給するの學理を應用し以て「チーアーガルデン」公園をして伯林市の肺臓たらしめんと期し居るかを窺ふに足れり、

其各國國民の特性たる、英國の運動狂、獨逸の科學應用、佛國美術趣味が、是等公園築造方法の上にまで表はされつつあるを見るは、一の興味ある事なりとす

石井謹吾 『外遊二回』 1910年 警眼社 pp.101-102

【要約】
 イギリス、フランス、ドイツの公園にそれぞれの国民性が反映されていて、イギリスの公園からはイギリス人がスポーツ好きであることが感じ取れ、フランスの公園は景観を重視しており、ドイツは地域に酸素を供給する場所として公園を科学的に利用しているという内容です。

【備考】
 日本の国民性が当時の日本の公園にどのように反映されていたかについては、明確に言及しているものは見つかりませんでしたが、当時の日本人による公園に関する記述を読んでいると公園を庭園の延長線上にあるものとし、運動する場所とは見なしていないものが目立ちます。

 このことは以前1908年発刊の「欧米遊記」を紹介した記事でも取り上げましたが、著者の川田鉄弥は次のように、庭園がある日本では公園の必要性はあまりないと述べています。
日本のやうに、戸毎に、多少の庭園を有せる都市では、比較的公園の必要もないけれども、

川田鉄弥 『欧米遊記』 1908年 高千穂学校 p.123
関連記事
「日本人とアメリカ人では散歩観が違っている etc」(明治時代の海外旅行記:『欧米遊記』)

 1901年発刊の「米国漫遊雑記」でも以下のように、西洋人は豪邸でない限り庭が無いため公園が必要であるとしています。
贅澤な金持の家でなければ庭などを作つて置かぬ、随つて公園といふものが太(はなは)だしく必要なものと咸ぜられてる。

松井広吉 『米国漫遊雑記』 1901年 博文館 p.65

 
 この結果として当時の日本の公園には運動をする施設があまり充実していなかったようで、1910年発刊の「社会百言」では将来的に公園は庭園を主とするのではなく、運動場を主とした方が良いという提言がなされています。
我國の公園は多く庭園式にして山水木石の風致を極むるもの多く運動場、興行場等を設けるもの少し。偶之を設けたるものあるも、之を利用するもの甚多からず。將來經營すべき公園は運動場を主とし、國民元氣の源泉たらしむることを要す。

三土忠造 『社会百言』 1910年 富山房 p.97


 公園を運動する場所と見なされていなかったことについては、おそらく当時の日本人があまり運動や身体を動かすことを習慣的にしていなかったということが関係していると思われます。実際当時の日本を訪れた西洋人は日本人が散歩やスポーツをする習慣がないことについてよく言及しています。

 例えば、1910年発刊の「Behind the shoj」でEvelyn Adamは日本人が自然を愛好するのに屋外スポーツはあまりされていないことを不思議そうな目で見ていますし、ポンペは日本人が散歩しない事について触れています。
It seems strange that among a nation of nature-lovers like the Japanese outdoor games have found so little favour. True, cricket and football have been transplanted, but they have taken no very deep root. Tennis is only played by school-boys—and villainously. Polo, the sport of kings, is entirely out of fashion.

(日本人は自然愛好家であるのに屋外スポーツが盛んでないのは不思議だ。クリケットやサッカーは日本にもたらされたがあまり根付いていない。テニスは男子学生がやる程度で、スポーツの中のスポーツであるポロは影も形もない)

Evelyn Adam "Behind the shoji" (London, Methuen & Co., Ltd, 1910) p.23
決まった目的もなく楽しみに散歩することを日本人はほとんど知らない

ポンぺ 『日本滞在見聞記 日本における五年間』 1968年 雄松堂書店 p.330

 以上を踏まえると当時の日本の公園には、運動に馴染みがないという当時の日本人の国民性が反映されていたと考える事も出来るかもしれません。現代の日本では公園での運動は寧ろ一般的なことなのでこういう所は当時と現代の違いだと思われます。
ポロ(英語: polo、英語発音: [ˈpoulou]、ポウロウ)は、馬に乗って行う団体球技の一種。世界で最も古い歴史をもつ競技の一つである。

競技場は270x150mと、フットボールの9倍の広さがある。1チーム通常4人で構成され、メンバーは馬に乗り、マレットと呼ばれるスティックで球を打つ。この球を相手チームのゴールに運べば得点となる。

ポロ

キャプチャ
https://www.youtube.com/watch?v=7TIKAG8D-bY


 公園に関する当時の日本人の記述を読んでいて、もう一つ現代とは少し感覚が違っていると感じたのは公園の規模についてです。

 現代で公園といえば、サッカーや野球のような大規模なスポーツが出来る場所というよりは、フットサルのような小規模のスポーツが出来る程度の公園を連想される方が多いのではないかと思うのですが、当時の日本人は「公園」というのを「上野公園」のような大規模な公園を基準にしていることが多いです。

 例えば1902年発刊の「東京の過去及将来」では東京に公園が49箇所ある一方で、公園と称されるに相応しいのは上野公園くらいで、大半の公園は「唯だ一個の火除地たるの觀あり」と述べています。
東京中に所謂公園と稱せらるる者四十有九箇所あり、而かも帝室の經營する上野公園を除きては公園たるの體裁(ていさい)をなすものなし

細野猪太郎 『東京の過去及将来』 1902年 金港堂 p.172

 おそらく当時の日本ではまだ公園の数自体が少なかったことや、比較されるのがイギリスのハイドパーク(386エーカー)や、アメリカ合衆国のフェアマウントパーク(2648エーカー)のような大規模な公園が中心だったのが原因だったのではないかと思われます。

※明治頃の上野公園
02-01-01

※1900年頃のハイドパーク
d925a452365

※1900年頃のフェアマウントパーク
il_794xN.767581847_gjrg


 ちなみに当時の西洋の公園では軍隊の音楽隊が定期的に演奏していたようで、それを目撃している日本人が多く一種の特徴になっています。
一週に二度、木曜と金曜には、陸軍樂隊が、此の公園に来て、音樂を奏する。公衆は只椅子代を拂ふのみで、半日耳を樂しましむることが出来る。

人見一太郎 『欧洲見聞録』 1901年 民友社 p.15
休日には又音樂隊が亭中で奏樂する、公衆は四邊の椅子、芝生などで傍聽するが、樂隊の費用は無論市から支出する

松井広吉 『米国漫遊雑記』 1901年 博文館 p.66
公園には音樂隊ありて彼等を楽しましむ、

片山潜 『都市社会主義』 1903年 社会主義図書館 p.96

 記述内の「公衆は只椅子代を拂ふのみ」ということに関しては以前の記事でも紹介しましたが、当時の西洋の公園は椅子が料金制になっていて、そのことは見聞した日本人がよく言及しています。
好きな椅子に腰かけてをると、若い女か年老(としより)かが、どこからかやつて来て、自分の前にニユーツと立つ。これは小さいカバンを提(さ)げ來て、この椅子の腰掛料を請求するものである。この時にはその定額の錢をやると、請取の小札をくれる。これを持つてをれば、その日だけは、その公園内のどこの椅子にでも腰かけ得る權利がある。

さる時には客は外にゆきたくても、成るべくこらへて請求人が來るまで待つて、錢を與(あた)へて立ち去る。それさへ既に殊勝だが、どうしても請求人が來らず見つからぬ時には、その定額の錢を、その椅子の上において立ち去るといふ美風は敢て珍しくない。

池辺義象 『世界読本』 1902年 弘文館 p.95
関連記事
「日本の軍艦がスエズ運河を通行して世界中で評判になった話 etc」(明治時代の西洋読本:池辺義象『世界読本』)


 一方、当時の日本では公園でどのようなイベントがされていたのか気になったので調べてみたのですが、所謂観光客狙いの詐欺まがいの興行が多くあったようでそれに関する記述が目立ちました。
試みに、公園内を一週すれば、芝居小屋、玉乗り、娘手踊り、チャンチャン芸、娘剣舞、活人形等、種々雑多の興業がある、

(中略)

東京と云ふ大都會を目的に、定めて變(かわ)つた興業だらうと、信用して這入(はい)つたが最後、ツマラナイ場所に、錢を棄てたとの嫌み文句を残して、逃げ出す様な始末に至るのは、吾人の往々目撃する次第である。

岩崎徂堂 『新事業発見法』 1903年 大学館 pp.93-95
過る日、終日浅草公園を社會的に視察したりしに、元来娯樂を衆人に與へんが爲めに起りたる同公園は、今や魔窟と變じて妖魔の跳梁する所ろとなれり、

見よ凌雲閣の周圍に於ける光景を。曰く銘酒屋、曰く新聞縦覧所、曰く何々醫師(いし)出診所等名称に於ては毫(ごう)も差支へざる仰々しき看板を掲ぐるも、其實(そのじつ)は惡魔の廣告なり。最早警察官すらも手の施すべきなきに至れり。

留岡幸助 『社会と人道』 1910年 警醒社 p.119

 当時の日本人の旅行記を読んでいると西洋の公園を羨んでいる記述が随分と多いのですが、その理由の一端はこういう所にもあったのかもしれません。




キャプチャ

※花見(江戸年中行事図絵)
キャプチャ
(出典:吾妻健三郎 『江戸年中行事図絵』 1893年 東陽堂)

「アメリカ合衆国の離婚の多さをフランス人が羨んだ話」(明治時代の米国案内書:金子喜一『海外より見たる社会問題』)


 こちらは明治時代の社会主義者だった金子喜一が、明治30年代に数年間アメリカ合衆国に滞在して書いた米国案内書(『海外より見たる社会問題』)で、興味深かった記述や当時の社会の様子が窺える記述を取り上げた記事です。

 なお、引用箇所の一部には現代の基準だとあまり良くない表現がある場合もありますが、歴史的記述であることを尊重し一切手を加えていません。


<金子喜一>

1876-1909 明治時代の社会主義者。
明治9年10月21日生まれ。32年渡米してハーバード大にまなび,社会主義に傾倒。日本の「万朝報(よろずちょうほう)」や週刊「平民新聞」などに寄稿。のち「シカゴ-ソーシャリスト-デーリー」の記者となり,社会主義の普及につとめた。42年療養のため帰国。明治42年10月8日死去。34歳。神奈川県出身。著作に「海外より見たる社会問題」。

金子喜一


参考文献:金子喜一 『海外より見たる社会問題』 1907年 平民書房
関連記事
【宣伝】暇劇の同人誌(『幕末・明治期の西洋人が見た日本(絵画篇)』)が完成しました。
【宣伝】暇劇の同人誌第二弾(『幕末・明治期の西洋人が見た日本(入浴文化篇)』)が完成しました。

[PR] 暇は無味無臭の劇薬のYouTubeチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UC_yC7ccaessdpgHzsoPD7Yw

明治時代の海外旅行記で面白かったところのまとめ




●こちらはアメリカ合衆国の離婚の多さについての記述です。
離婚問題ほど、米國民の頭脳をなやます問題はないであらふ。

佛國の一記者が曾て米國に来て、離婚數(すう)の甚しく多いのを見て、米國は『仁恵の郷土』であると評したが、成るほどキヤソリツク教の如き宗教に依りて支配されてゐる國からみれば、僅かに一種の仁恵に相違あるまい。

一度結婚すれば如何なる事情ありとも離婚のゆるされぬのはキヤソリツク教の信仰であつて、近時に至るまでかかる思想信仰が一般社會(しゃかい)の道義の上に及ぼしたる咸化は、惡しき方にも、又善き方にも非常な者であつた。

金子喜一 『海外より見たる社会問題』 1907年 平民書房 pp.11-12

【要約】
 アメリカ合衆国の離婚の多さを見てフランス人記者が「アメリカは良い国だ」と述べたのは、カトリック教国では離婚が禁止されているからという内容です。

【備考】
 カトリック教で離婚が忌避されていることは有名なのであえて触れる必要もないかと思いましたが、例えば「マルコの福音書」では以下のように離婚禁止に言及している箇所があります。
10:11
そこで、イエスは言われた、「だれでも、自分の妻を出して他の女をめとる者は、その妻に対して姦淫を行うのである。

10:12
また妻が、その夫と別れて他の男にとつぐならば、姦淫を行うのである」。

マルコによる福音書(口語訳)


 アメリカ合衆国の離婚の多さについては1930年に発刊された「亜米利加みやげ」の中でも記載がありますが、そこでは以下のように言及されています。
米國には離婚數が非常に多い、殊に近年はその數を増加しつつあり、此國人の佛蘭西(フランス)に旅行するものの多いのは、彼國は離婚手續(てつづき)が最も簡單なためだといふ人がある、識者はその原因を自由結婚の弊なりといひ、ある人は生活難のためだといひ、又ある人は文化爛熟の結果だといふが、私は女尊男卑が最大の原因だといひたい、

村上巧児 『亜米利加みやげ』 1930年 村上巧児 p.150

 ここではアメリカ合衆国で離婚が多いことと、アメリカ人がよくフランスに旅行するのはフランスでは離婚が簡単にできるからとされています。

 フランスでの離婚が難しいという上記の記述と矛盾する内容でこの点はいまいち判然としなかったのですが、当時のフランス人が書いたフランス民法典注釈書の訳書などを読んでみると、少なくともカトリック教徒については離婚が難しかったようですが、それ以外の人間にとっては単なる民事上の手続きだったようなのでその点では容易だったのかもしれません。

 「ムールロン」(Mourlon)や「ラカンチヌリ」(Lacantinerie)などによるフランス民法典の注釈書の訳書が見つかりましたが、そこでは以下のようにフランスの離婚の歴史の沿革について触れています。
我往古ノ法律ニ於テ決シテ離婚ヲ許ササリシ所以ハ當時舊敎ノミ獨リ法律ノ認可スル所ナルヲ以テ大ニ其威權ヲ逞フシ漸ク民事上ノ制規ニ干渉シテ遂ニ婚姻ヲ解クヘカラサルノ主義ヲシテ世ニ行ハレシムルニ至レルニ在リトス

ムールロン 『仏蘭西民法覆義 第4巻』 1881年 司法省 p.102
古法我古法ハ離婚ヲ許ササリシ離婚ハ「カトリツク」教ノ禁スル所ナリ而シテ此時代ニ在テハ宗法ノ命令ハ立法者ニマデ及ヒタリ

ラカンチヌリ 『仏国民法正解 人事編 中巻』 1890年 司法省 p.337

 要約するとカトリック教では離婚が禁止されているのでフランスでは昔から離婚が出来なかったもののフランス民法典によって離婚が可能になったという内容です。

 尤も、この離婚については教義で離婚が許されていないカトリック教徒とそれ以外で区別がされていて、カトリック教徒以外は単に離婚で、カトリック教徒の場合は教義に触れないように「別居」が離婚の代替手段として民法典に設けられたとされていました。
舊敎信者二在テ若シ離婚スル時ハ其宗規ニ反スルノ恐レアレハ乃チ分居ノ制ニ依頼セシメ又他宗ニシテ更ニ宗規ニ管セサル者ノ如キハ直チニ離婚スルヲ得セシメタルモノナリ

ムールロン 『仏蘭西民法覆義 第4巻』 1881年 司法省 p.104
立法者ハ「カトリツク」宗信者ノ心ヲ滿足セシムル爲メ民法中別居ノ制ヲ設クルニ當テ

ラカンチヌリ 『仏国民法正解 人事編 中巻』 1890年 司法省 p.335

 要するに、当時のフランスのカトリック教徒は宗教上の教義の為、離婚することは難しかったようですが、制度として別居を設けることで実質的に離婚していたということになります。

 教会法などではまた話は違っているとは思いますが、少なくとも民法上ではこのように現実と折り合いをつけているのは当時の工夫が見えるようで興味深いものでした。


 このカトリック教徒のための別居規定の事は別世界のことのように感じながら文章を書いていたのですが、カトリック東京大司教区に掲載されていた離婚に関するQ&Aの中では次のように、民事上の離婚をしたとしても「教会法上の別居許可が必要」とされていました。
Q7:民法上の離婚をしてしまいました。もう教会に行ってはいけないのでしょうか?

まず第一に所属教会の主任司祭に話してください。あなたの主任司祭から結婚問題手続き部門に連絡されます。あなたが民法上離婚したことが直ちに問題になるのではありません。しかし、あなたがこれから信仰生活を歩んでいく上で、ゆるしの秘跡や聖体拝領のことなどで不安や心配を感じないためにも教会法上の別居許可が必要です。しかし、これは再婚の許可ではありません。

特に、再婚の可能性や希望がある場合、前婚(教会で結婚式をしていた場合でも、そうでない場合でも)の絆について教会の審判(前婚の絆の解消手続き、あるいは前婚の無効宣言手続き)が必要となります。民法上の離婚をしたにもかかわらず、教会には何も連絡をせず、再婚を決めてしまってからでは、そのときになって手続きが必要なことに気が付いて困惑してしまうことになりますので、民法上の離婚をした場合は速やかに所属教会の主任司祭にお話しくださるようお願いいたします。

カトリック教会の結婚観 | カトリック東京大司教区 ウェブサイト

 日本のカトリック教徒に対しても教会法が適用されるというのは考えてみれば当然のことですが、なんとなく遠い外国の話というイメージでいたので、意外と身近にこういう事例があるというのは新鮮な気分でした。

 教会法についてはあまり詳しくないのですが、このように教会法上でも別居規定を設けているということはカトリック教でもそれなりに現実と折り合いをつけているということなのかもしれません。


 日本の離婚の歴史についても少し興味が出たので調べてみたのですが、1894年発刊の「新日本の花嫁」では日本での離婚に関する最古の定めとして「令抄令」(※室町時代の一条兼良による養老律令注釈書)が挙げられており、そこでは七つの離婚事由が規定されていると紹介されていました。
(高橋鋤郎 『新日本の花嫁』 1894年 一二三館 p.110)

 養老令の現代語訳を掲載しているサイトさんがありました。
 28 七出条
養老律令(ようろうりつりょう)は、古代日本で757年(天平宝字元年)に施行された基本法令。構成は、律10巻12編、令10巻30編。大宝律令に続く律令として施行され、古代日本の政治体制を規定する根本法令として機能した。

しかし、平安時代に入ると現実の社会・経済状況と齟齬をきたし始め、平安時代には格式の制定などによってこれを補ってきたが、遅くとも平安中期までにほとんど形骸化した。廃止法令は特に出されず、形式的には明治維新期まで存続した。

養老律令

 古代日本の法令の中に「子供が出来ないこと」や「舅姑に従わない」が離婚事由として挙げられているのは当時からその事が重視されていたということに他ならず、日本の精神性の歴史がここから垣間見られるような気がしました。




キャプチャ


「アメリカ人は氷水を飲む国民、日本人は味噌汁を飲む国民」(明治時代の米国旅行記:巌谷小波『新洋行土産』)


 こちらは明治時代の作家だった巖谷小波が、明治42年(1909年)に渋沢栄一を団長とする日本実業家団体の米国視察に同行した時の視察記/旅行記(『新洋行土産』)で、興味深かった記述や当時の社会の様子が窺える記述を取り上げた記事です。

 なお、引用箇所の一部には現代の基準だとあまり良くない表現がある場合もありますが、歴史的記述であることを尊重し一切手を加えていません。


<巖谷小波>

巖谷 小波(いわや さざなみ、1870年7月4日(明治3年6月6日) - 1933年(昭和8年)9月5日)は、明治から大正にかけての作家、児童文学者、口演童話家、俳人、ドイツ文学者、ジャーナリスト。

今日有名な『桃太郎』や『花咲爺』などの民話や英雄譚の多くは彼の手によって再生され、幼い読者の手に届いたもので、日本近代児童文学の開拓者というにふさわしい業績といえる。

巖谷小波


参考文献:巌谷小波 『新洋行土産 上巻 』 1910年 博文館
関連記事
【宣伝】暇劇の同人誌(『幕末・明治期の西洋人が見た日本(絵画篇)』)が完成しました。
【宣伝】暇劇の同人誌第二弾(『幕末・明治期の西洋人が見た日本(入浴文化篇)』)が完成しました。

[PR] 暇は無味無臭の劇薬のYouTubeチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UC_yC7ccaessdpgHzsoPD7Yw

明治時代の海外旅行記で面白かったところのまとめ




●アメリカ人が氷水をよく飲むことについての記述です。
亜米利加人と日本人とは、朝から氷水を飲む国民と、朝から味噌汁を吸はねば心持の悪い国民との相違がある。

巌谷小波 『新洋行土産 上巻 』 1910年 博文館 p.334

【要約】
 アメリカ人は氷水を飲む国民で、日本人は味噌汁を飲むという内容です。

【備考】
 内容だけだとアメリカ人が氷水をよく飲むというだけなのですが、当時アメリカ合衆国を訪れた日本人の旅行記ではアメリカ人が氷水を飲むことについて頻繁に言及されていて、アメリカ人のステレオタイプの一部になっているような印象さえ受けます。

 例えば、1909年年発刊の「半球周遊」ではフランス人のワイン、ドイツ人のビールに並べてアメリカ人の氷水を挙げているほどです。
佛蘭西人が葡萄酒を飲み、獨逸人が麦酒を傾ける代りに、亞米利加人はただの氷水を飲む。

杉村楚人冠 『半球周遊』 1909年 有楽社 p.29
関連記事
イギリス商人「日本人の買物の仕方には『妙にひねくれた好み』がある」(明治時代の海外旅行記:杉村楚人冠『半球周遊』)


 また1901年発刊の「漫遊雑録」の中でもアメリカ人が頻繁に氷を使うことに触れていて、毎朝氷が各家に配達されているとしています。
米人は氷を用ること甚だ多く家々皆其供給者と約束して毎朝若干斤を配達せしむ旅館、停車場、滊車内等に於て一般の用に備ふる飲用水も皆氷塊を投入したる所所謂る氷水なり、われ等も米国旅行中は平均一日に六七杯の氷水を飲まざる日なかりき

正木照蔵 『漫遊雑録』 1901年 正木照蔵 pp.159-160
関連記事
「初めて西洋人の歌声を聞いた日本人の感想『犬の遠吠えに似てる』」(明治時代の海外旅行記:正木照蔵『漫遊雑録』)


 アメリカ人がそれほど氷水を飲む理由についても色々記述はありますが、1910年発刊の「欧米印象記」でアメリカ合衆国が乾燥しているためとされているように、理由の一つにはこの乾燥がよく挙げられています。
(中村吉蔵 『欧米印象記』 1910年 春秋社 p.77)

 また他の理由としてはアメリカ人が氷水は健康に良いものだと考えているからというのもよく見かけるもので、例えば1914年発刊の「欧米都市とびとび遊記」では次のように述べています。
米國に入ってから米人の氷水を多量に絕ゑず用うるのには、如何にも驚いた。

ここは加奈太である。日本の千島、占守島あたりと略同緯度の所だといふ。それだのに、毎朝食卓に就くと、第一に氷水を持ってくる。

僕は、飲まないけれど、他の人はガブガブ飲んで居る。製氷事業が、米國に於て(加奈太にかけ)大なる事業の一つである。從つて氷價も亦廉い、配達して一斤一銭といふ所もあり、五厘といふ所もあり、三厘にしか當らないといふ所もあつた。

之を飲めば、衛生上にも益ありと、醫師から勸めて居る所もあるらしい。

田川大吉郎 『欧米都市とびとび遊記』 1914年 二松堂書店 p.295

 1909年の「北米世俗観」でも同様に触れていますが、こちらの記述からは当時の日本人が生水や氷をなるべく飲まないようにしていたことが窺えます。
米國人は生水を平氣で飲む。生水は健康だと云つて、寧ろ迷信的に飲む。彼等は牛乳よりも新らしい生の水が有効だと心得てゐる。日本人が決して生水をのまぬといふことを不思議がつてる。

米國人は日本人が生水を呑まぬ如くに、白湯は決してのまぬ。

彼等は氷をのむのを恐れぬ。生水の中に氷の小片を浮べて、水の極めて冷やかなるを酷愛する。寒中と雖も然りだ。

田村松魚 『北米世俗観』 1909年 博文館 pp.88-89

 開国初期の日本にやってきたオイレンブルクは日本人が生水を飲もうとしない事について次のように述べていますが、「乞食さえ思いつかぬこと」という表現からは当時の日本人がいかに生水を飲もうとしなかったかがありありと伝わってきます。
生水を飲むことは、ちょうど生のキャベツをかじるのと同じで、乞食さえ思いつかぬことであろう。

オイレンブルク 『オイレンブルク日本遠征記 上』 1969年 雄松堂書店 p.263


 このアメリカ人が氷の入った飲料を好むというのは現代でもそうで、海外掲示板を覗いているとよくヨーロッパと比較されています。

 ヨーロッパでは飲み物に氷を入れると味が薄くなるために嫌がられている一方で、アメリカ人は飲み物に氷が入っているのを当然だと考えているので、アメリカ人がヨーロッパ旅行をして不便に感じることにこの飲み物に氷が入っていないことがよく挙げられます。
 関連:Why do Europeans laugh at Americans’ use of ice in drinks?
              The Bizarre But True Story of America's Obsession With Ice Cubes

 現代のアメリカ人がなぜそれほど氷をよく使うのかという点についてもよく言及されているのですが、色んな記事や海外掲示板での書き込みを見る限りではその回答は結構バラバラで、統一的な見解はなさそうというのが正直な印象です。




キャプチャ


「西洋人は日本人では信じられないくらい新聞をよく読んでいる」(明治時代の西洋案内書:西滸生『実地遊覧西洋風俗記』)


 こちらは明治時代に郵便報知新聞社の社員だった西滸生が洋行から帰った後に書いた西洋案内書(『実地遊覧西洋風俗記』)で、興味深かった記述や当時の社会の様子が窺える記述を取り上げた記事です。

 なお、引用箇所の一部には現代の基準だとあまり良くない表現がある場合もありますが、歴史的記述であることを尊重し一切手を加えていません。


参考文献:西滸生 『実地遊覧西洋風俗記』 1887年 兎屋支店
関連記事
【宣伝】暇劇の同人誌(『幕末・明治期の西洋人が見た日本(絵画篇)』)が完成しました。
【宣伝】暇劇の同人誌第二弾(『幕末・明治期の西洋人が見た日本(入浴文化篇)』)が完成しました。

[PR] 暇は無味無臭の劇薬のYouTubeチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UC_yC7ccaessdpgHzsoPD7Yw

明治時代の海外旅行記で面白かったところのまとめ
https://www.youtube.com/playlist?list=PLuw-ZwMGqW3ZcmQICv8NxZpn0uiUzy1SM




●こちらは西洋社会には新聞が非常に浸透していて西洋人は新聞をよく読むという記述です。
歐州各國の新聞紙が如何なる權勢威力を有し何如に社會(しゃかい)に普及せる乎(や)を明示せバ冷淡なる日本の讀者(どくしゃ)ハ啻(た)だに吾言(わがこと)を信ぜざるのみならず徒(いたず)らに一片皇張(こうちょう)誇大の言として顧みざるに至らん

新聞遞送(ていそう)の爲(た)めに毎朝各地に向ふて特に別仕立の滊車を差立て數輌(すうりょう)の列車悉く各種新聞紙を以て充たすと云ハバ世人ハ必ず驚き怪んでマサカに左程までハと疑ふならんが是れ僞わり飾りなき正直の話なり

(中略)

各滊車中にハ上中下等の差別なく老人も婦人も貴きも賤きも殆んど一人の新聞紙を手にせざるハ無く言ひ合せたやふに默讀(もくどく)するも奇なり

日本にて偶(たまた)ま讀書好きの人が寸陰を惜んで滊車人力車等の中にて新聞若くハ書籍を繙(ひもと)くを見て讀書の時間位ハ家に在りて充分なる可(べ)きに左(さ)りとハ生意氣な男なり驚き入(いっ)た外飾家(がいしょくか)なりと惡口しながら己(おの)れハ徒(た)だ茫然として無聊に苦みつつ不行儀にも欠伸の中に可惜(あた)ら千金の光陰を空過するを得意顔なる社會に生息する人々に見せしめなバ必らず喫驚(きっきょう)仰天して歐米人民ハ悉く生意氣千万の外飾家なりと思ふ可(べ)し

西滸生 『実地遊覧西洋風俗記』 1887年 兎屋支店 pp.323-324

【要約】
 ヨーロッパ各国での新聞の勢力は当時の日本人では信じられないほどで、汽車の中では誰もが新聞を読んでいるという内容です。また、日本において汽車の中で新聞や本を読む人のことを、あえて汽車の中で読書をする見栄っ張りだと考える人たちは西洋人の様子を見たらとんでもない見栄っ張りだと驚くだろうと述べています。

【備考】
 以前海外掲示板で、100年ほど前の列車内では新聞紙を読んでいる人が多いということが話題になった時に、このサイトでもその翻訳をした記憶があるのでどの記事だったか調べてみたのですが見つかりませんでした。

 確か以下のような写真で、内容は「昔は新聞を読んでいて、現代ではスマホを見てる」といったような感じだったと思います。

※1920年代の列車内の様子
5e1ce3e049878c01fa757ca2


 この新聞をよく読むというのは欧州人だけではなくアメリカ人もそうで、当時の旅行記の中ではアメリカ人が新聞をよく読んでいるという記述を見かけることが多いです。

 例えば1901年発刊の「米国漫遊雑記」ではアメリカ人が新聞をよく読むことについて次のように述べています。要約すると、アメリカではどの家庭も新聞を購読していて、列車に乗ると誰もが新聞を読んでいるので新聞を読んでない人間は馬鹿に見えてしまうという内容です。
米人は廣告人種でまた新聞國人種ぢや、尤も廣告は其の道の者の必要から出て、随つて其の關係者丈けのすることぢやが、新聞は左様でない、一般の者が總て必要とし快樂として見るので、幾んど新聞を買はぬ家なく、新聞を讀まぬ人なしといつて宜からう

(中略)

毎朝市街鐵道車に乗ると、乗合のものが總て新聞を讀んでて、新聞でも手にせぬ者は何だか間が抜けて顔までが馬鹿に見えるやうぢや、

松井広吉 『米国漫遊雑記』 1901年 博文館 pp.160-161

 また、1904年発刊の「冷語熱語」の中でもアメリカ人の多くが列車の中で新聞紙を読んでいることに触れているように、イギリスやアメリカ合衆国の話題の中では新聞紙がよく読まれていることにしばしば言及されています。
試みに朝夕米國市街を忙しげに往返する人々を看よ、多くは杖を持たずして新聞紙を手にす、更に梭の如く馳せちがふ市街高架汽車、電車等に就て看よ、腰を卸せるもの多くは新聞紙を披き讀まざる莫し、彼等其の出勤する時に朝刊の新聞紙を讀み、歸る時は即ち夕刊新聞紙に目を透し、曾て新聞紙と離れたることなき也

松井広吉 『冷語熱語』 1904年 松村三松堂 p.290


 記述後半で、汽車内で読書をしている人のことを日本人は「見栄っ張り」と考えるという西滸生の言及はなかなか意外でした。何故かと言うと当時日本を訪れた西洋人の大半は日本人はよく読書をする民族だと言及しているからです。

 オイレンブルクは開国期の日本にやってきた西洋人の中でもかなり初期(1860年)に来日した西洋人ですが、彼は当時の日本人が読書をよくすることや西洋の本も充実していることについて述べています。
暇なときの読書は、あらゆる階級の日本人が第一にすることである。本屋には、日本・シナの書のみならず、地理・民族・天文、その他自然科学の各部門、医学・戦術・兵書等々のヨーロッパの本の翻訳が見られる。本屋は至る所の通りにあり、本は信じられないくらい安く、それでいかに多くの本が読まれているかもわかるのである。

オイレンブルク 『オイレンブルク日本遠征記 上』 1969年 雄松堂書店 p.342


 また本を読むことに限られず、新聞に関してもよく読まれているという記述も割とよく見かけるもので、イザベラ・バードやフランツ・ドフラインは旅行記の中でその事について以下のように言及しています。
新聞はどの階級にも行き渡っている。

イザベラ・バード 『完訳日本奥地紀行4』 2013年 平凡社 p.187
この浮世離れした小さな漁村で、郵便や新聞といった近代的な諸制度が、すでに日常生活に欠かせないものとして受け入れられているのを見るのは、私には驚くべき観察であった。

フランツ・ドフライン 『ドフライン・日本紀行』 2011年 水産無脊椎動物研究所  p.49
 
 当時の日本では新聞はまだ比較的新しいものだったので、西滸生はその点から西洋ではよく新聞が読まれていると言及したのかもしれません。

 もしくは単に列車内でわざわざ本や新聞を読むことを「外飾家」と揶揄しただけなのかもしれません。仮にこちらのパターンであったら、現代日本においてスターバックスで読書することを「意識高い系」と揶揄されるのに近いものを感じるので面白いです。




キャプチャ

「イギリス人は自国の気候は世界一だと自慢している」(明治時代の西洋案内書:西滸生『実地遊覧西洋風俗記』)


 こちらは明治時代に郵便報知新聞社の社員だった西滸生が洋行から帰った後に書いた西洋案内書(『実地遊覧西洋風俗記』)で、興味深かった記述や当時の社会の様子が窺える記述を取り上げた記事です。

 なお、引用箇所の一部には現代の基準だとあまり良くない表現がある場合もありますが、歴史的記述であることを尊重し一切手を加えていません。


参考文献:西滸生 『実地遊覧西洋風俗記』 1887年 兎屋支店
関連記事
【宣伝】暇劇の同人誌(『幕末・明治期の西洋人が見た日本(絵画篇)』)が完成しました。
【宣伝】暇劇の同人誌第二弾(『幕末・明治期の西洋人が見た日本(入浴文化篇)』)が完成しました。

[PR] 暇は無味無臭の劇薬のYouTubeチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UC_yC7ccaessdpgHzsoPD7Yw

明治時代の海外旅行記で面白かったところのまとめ
https://www.youtube.com/playlist?list=PLuw-ZwMGqW3ZcmQICv8NxZpn0uiUzy1SM




●こちらはイギリス人が自国の気候を世界一と自慢することについてです。
余等ハ常に日本の氣候の寒温、中を得たる時節多く又た晴天多く最も人体に適當せる好土なるを誇り居ることながら彼地の人ハ亦た英國の世界第一の氣候たることを誇り居れり是も亦た銘々國自慢の一證なり

日本に來りし英人抔(など)の倫敦(ロンドン)を優れりとする口實(こうじつ)を聞くに曰く日本の國にハ常に濕氣(しっけ)多し其證據(しょうこ)ハ品物に黴(かび)を生じ從て腐朽すること速かなり左れバ金属なども錆を生ずること甚だ多しと此點ハ如何にも一理なきにあらず

西滸生 『実地遊覧西洋風俗記』 1887年 兎屋支店 p.131

【要約】
 イギリス人は自国の気候が世界一だと自慢していて、日本を訪れたことがあるイギリス人は日本と比べると湿気ていないのでロンドンの方が良いとお国自慢しているという内容です。

【備考】
 海外掲示板を覗いていると以下のような感じで大体イギリス人は自国の気候についてネタにしたり愚痴を言っていることが大半で、イギリスの気候を自慢するというのはまず見かけることがないためこの記述はなかなか面白いものでした。

※関連画像
british-weather-starter-pack-18120617
「イギリスの天候入門セット」

6fdff6c5c5340c1e783d60a7650f23bf
「アメリカではこれは世界の終わりだけど、イギリスではただの夏」


 記述内で「國自慢」とあるように湿気の多い日本と比べてイギリスの気候を自慢したのだと思いますが、国内では愚痴を言っていても国外に対しては自慢するというのはお国自慢では割とあることだと思うので当時のイギリス人の人間味をここから感じられました。


 記述内の「世界第一」という言葉があるのも結構なポイントで、当時イギリスを訪れた日本人はイギリス人は何かと「世界一」と言うことについて触れていて、例えば1910年発刊の「英人氣質思ひ出の記」の中には次のような記述があります。
種々の説明をして呉れた一人の獄吏に向つて「尙ほ大陸諸國に行はるる監獄制度に就きても、何か参考となるべきことを御存じならば承りたい。」と云つたさうである。所がその獄吏は不快なる顔付きをして「私は他國の制度のことは一向に存ぜぬ。私は唯英國の制度が天下第一なるを知るのみ。」と答へたさうだ。この話は僕が未だ英國に行かぬ前、聞いたのであるが、今自ら英國に行て見て、如何にも有りさうなことだと思ふ。

凡そ英人ほど猥りに「天下第一」を稱する國民はあるまい。

(中略)

甚だしきに至りては「今より五十年前に於て、この地方の紡績業は天下第一だつた」などと云つて得意がつて居る。これ英人が英國のみを知て天下を知らざるの證據である。

永井柳太郎 『英人氣質思ひ出の記』 1910年 實業之日本社 pp.22-24

 こちらはイギリスの刑務所制度を自慢する刑務官に他国の刑務所制度について尋ねたところ「他国の制度は知らないけどイギリスの制度が世界一ということは知っている」と返されたという話で、著者は実際にイギリスを訪れてみるとイギリス人は何かと世界一と言うのでその話には現実味があると述べています。

 現代だと「世界一」をやたら言うのはアメリカ人で、イギリス人にはそんなイメージはあまりないという人が多いのではないでしょうか。海外掲示板を覗いていても、イギリス人がお国自慢をしていることもそれなりにはあるのですが自虐ネタを書き込んでいることの方が大半で「世界一」を主張するというイメージはあまりありません。

 尤も、だからと言って当時のアメリカ人が「世界一」を連呼していなかったということではなく、当時の旅行記を読んでいると現代と同じく「世界一」を主張しているアメリカ人の姿が多く見られます。

 例えば1910年発刊の「欧米印象記」では「例の世界一といふ事を、猫にも杓子にも附けたがる米国流」としていますし、1919年発刊の「米国旅行案内」でもアメリカ人は「口を開けば必ず世界一といふ」ことについて詳しく述べています。
(中村吉蔵 『欧米印象記』 1910年 春秋社 p.61)
(上村知清 『米国旅行案内』 1919年 新光社 p.33)


 記述内のイギリス人は日本は湿気が多いとしていますが、海外を旅行した日本人もこの点についてはよく触れていて、特にアメリカを旅行した時にはその乾燥具合に驚いたということをよく記録しています。

 例えば久米邦武による「特命全権大使米欧回覧実記」ではアメリカ合衆国東部の気候について次のように述べています。
東部は一般に空気が乾燥し、わが国の状態とは大きく異なっている。野菜なども三日間ほど室内に放置して置くと粉々になるほど乾燥してしまう。朝の身じまいに使ったタオルが午後まで湿っていたことはなかった。

久米邦武編著 『特命全権大使米欧回覧実記 1』 2008年 慶應義塾大学出版会 p.48

 これとほぼ似たようなことは1889年発刊の「周遊日記」の中でも触れられています。
米国ノ地空気乾燥シテ物品ノ貯蔵ニ東洋諸国ノ如キ癥濕ノ患ナキハ予テ聞ク所ナリシガ此夕不図、綿織ノ手巾ヲ洗ヒ窓下ニ掛ケ置キ食事ヲ畢リシトキ既に乾燥水気ナキヲ見タリ空気ニ濕気ナキ驚クニ堪ヘタリ

永山武四郎 『周遊日記 上巻』 1889年 p.31

 この文章はカタカナ交じりで少し読みにくいのですが、アメリカ合衆国の空気は乾燥していて、ハンカチを洗って干していたら食事が終わった頃には既に乾いていて驚いたという内容です。


 イギリスと日本の月別湿度を調べてみましたが、日本だと夏が湿度高めで冬は湿度低めなのに対して、イギリスは結構湿度は高めでしたが夏は低めで冬が高めなので体感的には過ごしやすいのかもしれません。

※東京の湿度
3ff8071220430c24d56b0758fa113795
ソース:https://japan.world-season.com/climate-tokyo/

※ロンドンの湿度
キャプチャ
ソース:https://weather-and-climate.com/average-monthly-Humidity-perc,London,United-Kingdom




キャプチャ


「日本人とイギリス人では『東風』のイメージが全く違う」(明治時代の西洋案内書:西滸生『実地遊覧西洋風俗記』)


 こちらは明治時代に郵便報知新聞社の社員だった西滸生が洋行から帰った後に書いた西洋案内書(『実地遊覧西洋風俗記』)で、興味深かった記述や当時の社会の様子が窺える記述を取り上げた記事です。

 なお、引用箇所の一部には現代の基準だとあまり良くない表現がある場合もありますが、歴史的記述であることを尊重し一切手を加えていません。


参考文献:西滸生 『実地遊覧西洋風俗記』 1887年 兎屋支店
関連記事
【宣伝】暇劇の同人誌(『幕末・明治期の西洋人が見た日本(絵画篇)』)が完成しました。
【宣伝】暇劇の同人誌第二弾(『幕末・明治期の西洋人が見た日本(入浴文化篇)』)が完成しました。

[PR] 暇は無味無臭の劇薬のYouTubeチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UC_yC7ccaessdpgHzsoPD7Yw

明治時代の海外旅行記で面白かったところのまとめ
https://www.youtube.com/playlist?list=PLuw-ZwMGqW3ZcmQICv8NxZpn0uiUzy1SM




●こちらは日本人とイギリス人の東風に対するイメージの違いについての記述です。
春、秋、冬の三期に於て倫敦(ロンドン)にて最も厭なる心地するハ東風なり

蓋し此風ハ北のかた遥かに魯西亜(ロシア)日耳曼(ゲルマン)の氷雪の上を捲き来るが故にや其寒き事非常なり

是を以て英國にてハ通例東風と云へバ病人抔(など)には最も宜しからざるものの如く謂ふなり

日本支那抔にて東風とさへ云へバ何となく和らぎて長閑に面白き者の様に思ハるる習慣とハ大變(たいへん)の相違なり

西滸生 『実地遊覧西洋風俗記』 1887年 兎屋支店 pp.166-167

【要約】
 イギリスでは東風は寒くて病人には悪い風だと嫌がられているのに対して、日本や中国では東風には長閑なイメージがあり、この点が大きく違っているという内容です。

【備考】
 「東風」から最初に連想したのは菅原道真が詠んだ「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」でした。この短歌の意味は「春が来たら(大宰府にいる私の所まで)梅の香りを東風にのせて届けてね」というものです。

 これは菅原道真が大宰府に左遷された時の短歌なので長閑とは言えませんが、「東風」と「春」が結び付いている事がよく分かる歌だと思います。

※関連画像(北野天神縁起絵巻)
キャプチャ
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/224709/1

 ここまで書いていて「馬耳東風」という四字熟語があったことを思い出して何故これが北風でも南風でも西風でもなく「東風」なのかということが気になり調べてみましたが、ここでも「東風」が心地良い春の風というイメージが関係しているそうです。
他人の意見や批評に注意を払わず、聞き流すことのたとえ。もとは春風が馬の耳に吹く意。人が心地よいと感じる春風が吹いても、馬は何も感じないように見えることからいう。▽「東風」は東から吹く風。春風のこと。「東風、馬耳を射る」の略。

出典
李白「王十二の寒夜独酌く懐い有るに答う」(詩)。「世人此れを聞きて皆頭を掉る、東風の馬耳を射るがごとき有り」(世の人はこれを聞くと皆頭をふって聞き入れない。まさに春風が馬の耳に吹きつけるようなものだ)

馬耳東風の解説 - 三省堂 新明解四字熟語辞典

 この「馬耳東風」のように、「東風=春」という記号が中国から輸入された文化という可能性もあるのではないかと思ったのですが、実際日本でも気象学的には「東風=春」で合っているそうです。
偶然の一致ですが、東風は気象学的に言っても「春風」。2月は、これまでの北風から、だんだん暖かな東風が吹くような日が少しずつ増えてくる季節です。

ウメの花の咲くころに吹く風とは?

 ただ、その一方で「春一番」といえば東風ではなく南風のことを指すので、日本の春は東風と南風のどちらがよく吹くのかということも調べてみたのですが、手持ちの資料には気象学に関する書籍が全く無く、インターネットでググっても詳細は不明でした。もし気象学に詳しい方がいらっしゃれば是非教えてください。
春一番

冬の間吹き続けた北風に変わって、春先最初に吹く南風の暴風。1859年、長崎県壱岐の漁師53人が突風に襲われ、遭難したのをきっかけに、漁師の間で春一、春一番と呼び習わされたもので、日本海で低気圧が発達したときに吹きやすい。
ほのぼのとした名前とは裏腹に全国的に大荒れの天気となり、海は大シケ。しかも翌日には風が強い北風に急変して、冷え込むことが多い。

楽しい気象学入門 -第1回- 春一番


 イギリスの諺で東風に言及したものをどこかで見かけた記憶があったのでググってみたところ以下のような諺でした。
When the wind is in the east,
'Tis neither good for man nor beast;
When the wind is in the north,
The skillful fisher goes not forth;
When the wind is in the south,
It blows the bait in the fishes' mouth;
When the wind is in the west,
Then 'tis at the very best.

When the Wind is in the East

 この諺は訳すと「東風は人にも動物にも悪く、北風が吹いていると熟練の漁師も漁をしない、南風は魚が口にくわえている獲物を吹き飛ばすほどで、西風が最も快適な風」という感じになります。

 更にイギリスの東風について色々調べていたところ、海外の質問サイトで次のような質問がされているのを見つけました。
 関連:Why would the “wind blowing in the East” be considered a bad thing?

 これはBBCが制作したチャールズ・ディケンズ原作の「荒涼館」というテレビドラマの中で、登場人物のジョン・ジャーンディスが何か厄介な事が起きた時にいつも「東風が吹いている」と愚痴を言うのは何故なのかという質問です。

 ちなみにその質問に対しては「イングランドの東風はバルト海や北極の方から吹いてくるから『荒涼』としてるんだ。『荒涼館』ってタイトルにピッタリでしょ」と回答されていました。

伯母に育てられていた孤児のエスターは、伯母の死後、荒涼館の主ジョン・ジャーディスに引き取られる。彼女は家政を取り仕切り、ジャーンディス氏の信頼を得ていく。

一方、信託財産と土地所有を巡るジャーンディス事件でデッドロック卿の顧問弁護士タルキングホーンは、事件関係の書類の筆跡を調べているうちに、身元不明の代書人ネーモーが死んでいるのを発見する。

ヴィクトリア朝の腐敗した社会制度を批判的に描くディケンズ長篇を映像化。ミステリー、探偵小説の要素もある内容となっている。





キャプチャ

※東風
キャプチャ

※西風
キャプチャ

※南風
キャプチャ

※北風
キャプチャ

「イギリス人は西洋では『大食漢』ということで有名」(明治時代の西洋案内書:西滸生『実地遊覧西洋風俗記』)


 こちらは明治時代に郵便報知新聞社の社員だった西滸生が洋行から帰った後に書いた西洋案内書(『実地遊覧西洋風俗記』)で、興味深かった記述や当時の社会の様子が窺える記述を取り上げた記事です。

 なお、引用箇所の一部には現代の基準だとあまり良くない表現がある場合もありますが、歴史的記述であることを尊重し一切手を加えていません。


参考文献:西滸生 『実地遊覧西洋風俗記』 1887年 兎屋支店
関連記事
【宣伝】暇劇の同人誌(『幕末・明治期の西洋人が見た日本(絵画篇)』)が完成しました。
【宣伝】暇劇の同人誌第二弾(『幕末・明治期の西洋人が見た日本(入浴文化篇)』)が完成しました。

[PR] 暇は無味無臭の劇薬のYouTubeチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UC_yC7ccaessdpgHzsoPD7Yw

明治時代の海外旅行記で面白かったところのまとめ




●こちらはイギリス人の大食いについての記述です。
英人の大食ハ歐羅巴の名取にて佛國(フランス)抔(など)に参りても英人なりと申せハ何ハ扨置(さてお)き一番に燒牛肉とウデ藷(いも)とを山の如くに持て來るを常とすとハ英人が自身に語りて打笑ふ所なり

是ハ男子のみならす婦人にても随分の大食にて彼の世界の美人の標準(しなさだめ)に支那の足、伊太利の髪、佛國の愛嬌、英國の唇と竝(な)らべ稱(しょう)さる程唇薄く口元愛らしく生れつき乍(なが)ら其愛らしき口元にて食べるハ食べるハ大抵の日本男子ハ迚(とて)も叶ひ染めぬ程に候

西滸生 『実地遊覧西洋風俗記』 1887年 兎屋支店 p.9

【要約】
 イギリス人はヨーロッパでは大食漢ということで有名で、イギリス人がフランスに行って自分がイギリス人だということを伝えるとローストビーフと茹でたジャガイモを山のように持ってくるという内容です。

【備考】
 この記述を読んで最初に思い出したのが以前、戸川秋骨の「欧米紀遊二万三千哩」を記事にした時コメント欄で読者の方が貼って下さった画像のことでした。
 キャプチャ

 関連記事
 「日本とフランスの接客の違い etc」(明治時代の海外旅行記:『欧米紀遊二万三千哩』)

 これはイギリス国家/典型的イギリス人像を擬人化したジョン・ブルというもので、ほとんどの場合太った男性として描かれています。
 hez-1150166

 john-bull-quotlicked-againquot-by-uncle-sam-date-1895

 john-bull-zeppelins-1914

 記述によれば当時のイギリス人は大食漢としてヨーロッパで有名ということなので、ジョン・ブルの肥満体型にはそのようなイメージが反映されていたのでしょう。

 とはいえ戸川秋骨の「欧米紀遊二万三千哩」を取り上げた記事でも紹介したようにアメリカ人の食事量も日本人の目から見ると多いとされています。
米国の一人前と云ふのは二人前の事である、――少くとも余は左様解釋した――

戸川秋骨 『欧米紀遊二万三千哩』 1908年 服部書店 p.391

 また、1914年発刊の「欧米都市とびとび遊記」でもドイツ人が一日五回も食事をすることを著者の田川大吉郎が初めて聞いたときに仰天していますが、当時の日本人から見れば西洋人の食事は大体量が多いと書かれていることが多いです。
(田川大吉郎 『欧米都市とびとび遊記』 1914年 二松堂書店 p.115)

 その西洋人の中でもイギリス人が大食漢として有名だったということですから、食事の量も相当多かったであろうことが簡単に想像できます。


 肥満について調べている最中「The National Kidney Foundation」に掲載されていたGarabed Eknoyanの「肥満の歴史」を見つけて読んでみたのですが、肥満の価値観の変遷を簡潔にまとめていてなかなか興味深い内容でした。
 ソース:A History of Obesity, or How What Was Good Became Ugly and Then Bad

 内容を要約すると、人類の歴史では食料が不足していた時期が大半だったので肥満体への理想が様々な芸術作品に反映されていること(例:ミケランジェロの女性像)、その傾向が近代にいたるまで続いていたということを述べています。

 ※ミケランジェロ、「Night」
 016dceec156aacbe299af7f51f438816

 また、文学の中では太っているキャラクターが外向的に描かれている一方(セルバンテス『ドン・キホーテ』のサンチョ・パンサ、シェイクスピア『ヘンリアド』のフォルスタッフ)で、痩せているキャラクターは内向的に描かれている傾向があるとしています(セルバンテス『ドン・キホーテ』のドン・キホーテ、シェイクスピア『ハムレット』のハムレット)。

セルバンテスの小説『ドン・キホーテ』に登場する従者。短身肥満の大食漢で,その嗜欲と地上的常識によって,主人公の狂った理想主義と鮮かな対照をなす。

サンチョ・パンサ


サー・ジョン・フォルスタッフ(Sir John Falstaff)は、ウィリアム・シェイクスピアの作品(ヘンリアド)に登場する架空の人物。

大兵肥満の老騎士。臆病者で「戦場にはビリっかす」、大酒飲みで強欲、狡猾で好色だが、限りないウィット(機知)に恵まれ、時として深遠な警句を吐く憎めない人物として描かれ、上演当時から現代に至るまでファンが多い。

250px-Grützner_Falstaff_mit_Kanne

フォルスタッフ

 この傾向は18世紀頃から変化し始め、20世紀後半になってからようやく肥満が「醜い」ものとして描かれるようになったと書かれていました。


 The Telegraphは「イギリス人は何故デブったのか」という記事の中で、最近のイギリスは西ヨーロッパでも有数の肥満国になっているとし、1957年の時点では11歳の子供は1割未満が「太り気味」「肥満」であったのに対して、2012年ではその数字が約25%になっている等のようなデータを紹介してイギリス人の肥満率がこの数十年で増加しているとしていましたが、上記を勘案すると「再び」を付け足す方が合っているのかもしれません。
 ソース:How did Britain get so fat?

 ※関連画像
 fatterchildrenmobile_71ludiy

 記述後半にある各国の「美人の標準」というのも大変興味深い内容でした。中国が足、イタリアが髪、フランスが愛嬌、イギリスが唇を重視しているということで、当時の日本ではどのような部分が美人の条件として重要だったのか気になったのですが、それを調べる為に読んだ1906年発刊の「日本美人史」がとても興味深い内容でした。

 そこでは平安時代の美人について「枕草子」や「大鏡」の記述を例に挙げて次のように述べています。
當時の美人相といふものは所謂面長のキリリとしたのよりも、丸顔のしもぶくれで、素より色は白く、髪は房々とながく、眼尻などに愛嬌のあるのが美人であつたらしい。

栗島狭衣 『日本美人史』 1906年 尚友館 p.7

 また江戸時代では元禄の頃から美人のイメージが、戦国時代の頃のそれと比べると大きく変化したとしています。
徳川の初世はまだ武張ツた時代だから、戰國時代の嗜好がどれほども進化して居らぬ、然るに元禄の小袖幕が切て落とされ柔弱とか淫靡とかいふ時代の好みが、美人の上にも應用されては、其好も一變して、師宣の繪にもあるやうなフツクリと優しげな美人がもて囃された、

斯うなれば雄々しげな戰國の好は、全く裏返しになつて、飽くまで女らしいのでなくてならぬ、

然るに又歌麿時代の美人を見ると、面長の眼に艶のある、華奢姿を重に描かれてゐる、以來北齋となり、豐國となり、榮泉となつては、全く江戸趣味になつて来て、意氣に艶をもつた美人を第一に描かれてある、

栗島狭衣 『日本美人史』 1906年 尚友館 p.121

 肝心の当時(明治時代)の美人については関東美人と関西美人に分けていて、関東美人について次のように述べています。なお著者は関東美人推しのようですが、「關西美人ともいふ者が跋扈して居る」と書かれていたので当時好まれていたのは関西美人の方だったようです。
彼等は肌膚の白い事と、顔の圓く肥えてゐる事と、體力の肉感的に發達してゐる事とは、到底關西美人には及ばないが、キリリと締つた容貌の品位に富んでゐる事と、物にめげぬ心性の强味とは、たしかに比類の無いものといつてよい、

栗島狭衣 『日本美人史』 1906年 尚友館 p.165



キャプチャ


「ドイツで自転車に乗る人は免許証を保有しないといけない」(明治時代の海外旅行記:松井茂『欧米警察見聞録』)


 こちらは明治時代の官僚だった松井茂が官命によって明治34年(1901年)から明治35年(1902年)にかけて欧米各国の警察制度を視察したときの視察記(『欧米警察見聞録』)で、興味深かった記述や当時の社会の様子が窺える記述を取り上げた記事です。

 なお、引用箇所の一部には現代の基準だとあまり良くない表現がある場合もありますが、歴史的記述であることを尊重し一切手を加えていません。


<松井茂>

松井 茂(まつい しげる、1866年11月4日(慶応2年9月27日) - 1945年(昭和20年)9月9日)は、日本の内務官僚、政治家。

1901年から翌年まで欧米各国を巡歴し警察及び消防を視察、救助はしご車の輸入や救急自動車の導入に尽力する等、日本に於ける警察と消防行政の基礎を築いた人物である。

松井茂


参考文献:松井茂 『欧米警察見聞録』 1909年 警察協会
関連記事
【宣伝】暇劇の同人誌(『幕末・明治期の西洋人が見た日本(絵画篇)』)が完成しました。
【宣伝】暇劇の同人誌第二弾(『幕末・明治期の西洋人が見た日本(入浴文化篇)』)が完成しました。

[PR] 暇は無味無臭の劇薬のYouTubeチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UC_yC7ccaessdpgHzsoPD7Yw

明治時代の海外旅行記で面白かったところのまとめ




●ドイツでは毎年自転車の免許証を発行しているという記述です。
伯林(ベルリン)に於ては自轉車(じてんしゃ)の届出者は九萬(まん)人許(ばか)りもあり、又凡ての乗手は乗車券(Fahrkarte)を有すべきものである、

(中略)

千九百年に於て新たに許可を與(あた)へたる者は、六萬九千八百六十三人にして、千九百一年に於ては、七萬二千百八十六人である、尚此免許證は毎年一度與へるとの事である。

松井茂 『欧米警察見聞録』 1909年 警察協会 pp.71-72

【要約】
 ベルリンでは自転車を持っている人は全員免許証を持たなくてはならないという記述です。

【備考】
 最初これは自動車についての記述だと思ったのですが、自動車は別の箇所で論じられているのでこちらは自転車についての記述で間違いないようです。

 記述では「乗車券」「免許證」と二種類あるように書かれていますが、別の箇所では自転車に乗っている人が警察に処罰される場合として最も多いのは「乗車券」の不携帯とされていたので、おそらくここでの「乗車券」と「免許證」は同一のものだと思われます。

※1900年頃の西洋の自転車
bicycle-young-man-riding-a-bike-circa-1900

women-riding-bicycles-1900


 西洋での自転車の許可制(免許制)について他の記述が無いか探したところ、それに関連するものは見つからなかったのですが、当時の西洋の自転車事情について他に興味深い記述が1890年発刊の「自轉車利用論 乗方指南」で見つかりました。
本邦に於てハ未だ英佛等の如く自轉車學校及び練習所の設けあらざるなり

自轉車學校に入りて之を學バずとも少しく忍耐して朝夕一二時間つつ勉强すれバ凡一週間乃至三週間にて自由に乘り得るに至るべし

金澤来藏 『自轉車利用論 乗方指南』 1890年 金澤来藏 p.82

 こちらはイギリスやフランスには自転車学校が存在していて、それは日本には存在しないという内容です。また自転車学校に入らなくても毎日朝夕1~2時間ずつ練習すれば1~3週間で乗りこなせるようになるとも書かれています。

 自転車に乗るために1~3週間の練習が必要というのはちょっと理解が出来なかったのですが、「自轉車利用論 乗方指南」では別のページで以下のような、自転車に乗る練習をしているイラストが掲載されていました。
キャプチャ

 最初、現代のような自転車でイメージしていましたが、このような自転車であれば習熟に時間がかかるというのも無理はないかもしれません。

 ただ、自転車に乗る練習にこれだけ時間がかかるというのはこの文献くらいで他の文献、例えば1895年発刊の「少年教育遊戯」では三時間も練習すれば乗れるようになると記述されており、こちらは現代から見ても比較的常識的な練習量だと思います。
尋常の人は大抵三時間を經ば能く自轉車に慣るることを得るなり

嚶々亭主人 『少年教育遊戯』 1895年 求光閣 p.64

 自転車は明治の前半頃から既に日本に入り始めていたようですが、以下の文献を統合すると明治25-30年頃に日本中で一般的に使用されるようになっていったようです。
東京にて自轉車の流行は廿五年秋冬の交に弗々其頭角を顯はし、一昨年(廿六年)來俄に其數数増加し近來に至りては東京市のみならず、京都、大坂、神戸等の各地方にも傳播し、今や大流行を極むるに至り

社会叢書第3巻 『娯楽倶楽部』 1895年 民友社 p.48
洋式自轉車の、始めて我國に入りしは、明治十四五年頃印刷局へ三輪車の輸入あり、

二十二三年より追々流行となれり。されども、三十年ころまでは、實用よりは、寧ろ娛樂用のもののみ多かりし。

石井研堂 『明治事物起原』 1908年 橋南堂 p.227

 そのことは以下の電報配達が自転車に乗ってされるようになったという記述からも読み取れることではないでしょうか。(1895年=明治28年)
近頃電報配達が自轉車に乘りて電文を配達することを始めたり

嚶々亭主人 『少年教育遊戯』 1895年 求光閣 p.66
 この電報配達に関しては先日紹介した井口丑二の「世界一周実記」の記事でも少し取り上げていますのでご興味のある方はご覧ください。

関連記事
「石橋を叩いて渡る日本人、鉄橋を叩いて渡るイギリス人 etc」(明治時代の海外旅行記:井口丑二『世界一周実記』)




キャプチャ