「日本人は外国へ行くと偉人の墓を訪れる癖がある」(大正時代の海外旅行記:原田譲二『欧米新聞遍路』)


 こちらは大正時代の新聞記者だった高原操が、大正11年(1922年)に欧米各国の新聞会社を見聞した時の旅行記(『欧米新聞遍路』)で、興味深かった記述や当時の社会の様子が窺える記述を取り上げた記事です。

 なお、引用箇所の一部には現代の基準だとあまり良くない表現がある場合もありますが、歴史的記述であることを尊重し一切手を加えていません。


<原田譲二>

原田 譲二(はらだ じょうじ、1885年3月26日 - 1964年2月10日)は、日本のジャーナリスト。貴族院勅選議員。

1907年早稲田大学卒。報知新聞社に入り、1915年、東京朝日新聞社に入る。社会部長を経て、1925年、大阪朝日新聞社に入る。同社では編集局長から専務となり、1946年8月14日、貴族院勅選議員となった。

原田譲二


参考文献:原田譲二 『欧米新聞遍路』 1926年 日本評論社
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明治時代の海外旅行記で面白かったところのまとめ




●こちらは日本人が外国へ行くと偉人の墓をよく訪れることについての記述です。
日本人には展墓癖といふやうなものがあつて、外國へ來ると、よく偉人の墓を弔ふ。

紐育から連れて来た運轉手は、勿論彼等の偉大な大統領が、どこに眠つてゐるかを知らない。海に臨んだ小さな町の住民もあまり問題にはしてゐないらしく、尋ね尋ねて、やつと丘の上に辿りついた。

その國の國民さへもが忘れて顧みないのに、わざわざ日本の一無名氏が、遠路自動車を飛ばして参詣する。地下のローズヴェルトも合點が行くまいが、土地の人は猶更不思議に思つたであらう。

過去を懐かしむ心、故人を追慕する情、かういふものは日本人の特質と思はれる。


原田譲二 『欧米新聞遍路』 1926年 日本評論社 p.96

【要約】
 日本人が外国へ行くとよく歴史上の人物の墓を訪れる癖があり、自身も地元の人ですらよく分かっていないセオドア・ルーズベルトの墓を訪れたという内容です。原田譲二はこの点を以て日本人には過去を懐かしむ特質があるとしています。

※セオドア・ルーズベルトの墓
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【備考】
 明治時代の旅行記を読んでいるとよく歴史上の人物の墓参りをしているのですが、特にその事に今まで注意を払っていなかったので上記のような指摘は目から鱗でした。

 訪れている墓は様々ですが、その中でもワシントンとペリー提督の墓地を訪れているのが他と比べるとやや多いです。

 印象に残っているのが渋沢栄一を代表とする渡米実業団がペリー提督の墓を訪れた時の記述で、内容としては特に目立って何かがあるというわけではありませんが、当時の日本人のペリー提督に対するイメージが集約されているような感じがして記憶に残っています。
此日の墓参は、敢て弔魂の爲めでは無く、むしろ謝恩と云ふべきであらう。五十餘年前の開國の恩人に、平和の大使を以て任ずる、渡米實業團の團長が、特に一日を割いて墓参をするのは、元より當然の、而も大切な事である。

巌谷小波 『新洋行土産 上巻 』 1910年 博文館 p.144

※ペリー提督の墓
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 墓参りの話題は結構多いため日本と外国の墓地の違いについても言及していることが多く、なかなか興味深いものもあります。

 その中でもウェストミンスター寺院を訪れた日本人は、建物の構築上墓を踏まなくてはならないことに言及していることは多く、大抵はその事を嫌がっていて日本人と外国人では墓に対する考え方が違っているという感想を残していることが多いです。
中には靴ぐち踏むでも構はぬ床下の墓もある。日本人の考へから云ふと、甚だ奇異に咸ずるが、歩いて通ほらねばならぬ所にあるから仕方ない。其處は自由の國で、形式を尚ぶ東洋人の考へ及ぶ所でない。

總じて西洋の墓は彫刻的であって、咸情に訴へるのか主になって居る。

田辺英次郎 『世界一周記』 1910年 梁江堂 p.148
予は其英姿を仰いでゐる中に、脚下を見れば、圖(はか)らざりき、大老爺夫妻の墓碑の上に立つてゐるのを見て愕然として去つた。

されど偉人英雄の墓を踏むの無禮を爲(せ)じとならば、此の寺院に入(い)ることは出來ぬ。

桜井鴎村 『欧洲見物』 1909年 丁未出版社 pp.112-113


 このことは現代日本人の多くも共感することではないでしょうか。実際ウェストミンスター寺院を訪れた人のブログなどをいくつかググって読んでみましたが、お墓を踏むことに抵抗感があったと感想を残している人が目立ちました。

 私自身は残念ながらウェストミンスター寺院を訪れた経験はないのですが、偉人の墓かどうかにかかわらず墓を踏むという行為自体に抵抗感があるので、やはり同じような感想を持つのではないかと感じました。

 ウェストミンスター寺院を訪れた外国人のブログもいくつか読んでみたのですが、インド人の方のブログでもウェストミンスター寺院で墓を平然と踏んでいる人たちに愕然とし、自身も通るために墓を踏まざるを得なかったことに抵抗感を覚えたと書かれていました。
関連:I was shocked to see graves under my feet

※ウェストミンスター寺院の墓
DM-KQ3cW4AAUlub


 他にも墓の違いについては当時の日本人によって色々言及されているのですが、1914年発刊の「欧米都市とびとび遊記」の中で墓に刻まれている文言から死生観の違いに触れている記述はとても興味深いものでした。
庭の入口にあるその墓地には、ワシントンがここに休息すと記してある。死んだとは記しては無い。

死に對する咸念に、どうしても多少の差があるやうだ。

田川大吉郎 『欧米都市とびとび遊記』 1914年 二松堂書店 pp.220-221


 明治時代に日本を訪れた外国人も、日本の墓や日本人が持っている墓に対する思いについて関心を示している人は多く旅行記などでは触れていることが結構多いです。

 よく言われているのが日本人は墓を大切にするということで、イザベラ・バードは旅行記の中で日本人の良い所として墓を大切にすることを挙げていますが大抵の外国人は同様のことを述べています。
日本人の性格には二つの評価できる特質がある。一つは死者に対して敬意を払うことであり、いま一つは墓地を美しく魅力的にするためにあらゆる気配りをすることである。

東京の墓地は美しさの点では京都には勝てないものの、数多くの墓地はいずれも手入れがよく行き届いており、上は将軍たちが「礼を尽くして葬られ」ているしばや上野の壮麗な廟から、下は人夫の遺骨が眠るとても質素な墓に至るまで、死と生という点では何の厳然たる違いもない。

イザベラ・バード 『完訳日本奥地紀行4』 2013年 平凡社 p.32


 他にも外国人ならではの視点だと思ったのは、日本人が墓地にする場所は景観が良い所ばかりであるという指摘です。
東洋の大半の墓地がそうであるように、日本人の墓地にも独特の優美で詩的な趣がある。常に変わらず美しい場所にあって、見晴らしの良い丘の斜面の大きな木の陰に集まっている。

アルフレッド・ルサン 『フランス士官の下関海戦記』 1987年 新人物往来社 p.172
われわれは、われらが死者のために、自然のふところに抱かれたかくも壮麗な墓所を選んだことはかつてない。

A・ベルソール 『明治滞在日記』 1989年 新人物往来社 p.12


 大抵こういう記述と共に日本人は自然愛好家であると述べられているのが定番なのですが、初めてこういう記述を読んだ時は、あえて意識をせずともなるべく景観が良い所を選ぶというのはどちらかと言えば普通の事ではないかと言う考えだったので、西洋人がそういうことをあまり意識していないということに結構驚いた記憶があります。




キャプチャ

群馬県藤岡市上落合の宗永寺(清章司住職)に隣接する墓地が荒らされ、約70基の墓石が倒されていたことが23日、分かった。複数の墓石が破損したほか、灯籠や地蔵、花立てなどにも被害が及び、群馬県警藤岡署は器物損壊事件として捜査を始めた。市内の別の墓地でも墓石が倒される被害が相次いで確認されており、同署が関連を調べている。

キャプチャ

藤岡で墓石倒し 宗永寺で70基 灯籠や地蔵も被害 藤岡署が捜査 市内の他地域でも相次ぎ確認

「ドイツ人がスープの皿にまで温度計をつけていて日本人が驚いた話」(大正時代の海外旅行記:青山哲四郎『亜米利加土産』)


 こちらは1918年に発刊された欧米旅行記「世界一周」で、興味深かった記述や当時の社会の様子が窺える記述を取り上げた記事です。

 なお、引用箇所の一部には現代の基準だとあまり良くない表現がある場合もありますが、歴史的記述であることを尊重し一切手を加えていません。


参考文献:日本青年教育会編 『世界一周』 1918年 日本青年教育会
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明治時代の海外旅行記で面白かったところのまとめ




●こちらはドイツでスープの皿にまで温度計が使われていることについての記述です。
獨逸人の頭腦の如何に科學的であるかといふことは、例へば入浴するにしても、攝氏の三十八度と註文すれば、女中は其の加減を
して入れてくれる。近頃ではスープ皿にも寒暖計がつけてあつて、攝氏何度のスープなどといふ自分の嗜好に適したものを吸ふことが出来る
といふ工合(ぐあい)に、寧ろ奇抜に過ぎてゐる位である。

日本青年教育会編 『世界一周』 1918年 日本青年教育会 p.156

【要約】
 ドイツ人は湯温を指定すればその通りに準備してくれることを例に挙げて、科学的な国民であるとし、スープ皿にも温度計をつけて好みの温度で飲むことが出来るほどであるという内容です。

【備考】
 流石にスープの皿にまで温度計がついているという記述を見たのはこれが初めてのことですが、このように温度計を使って正確に計るというドイツ人のやり方に当時の日本人は驚いていて、旅行記の中で言及されているのをよく見かけます。

 このことは大抵、浴室に温度計が備え付けられているということで話題にされることが多く、それを以てドイツ人の事を杓子定規であったり科学的な国民であると述べている記述が目立ちます。

 以下の1901年発刊の「欧米小観」でもその話題に言及されていることは以前の記事で紹介しました。
殊に注意深き浴場には、湯の中に寒暖計を備へて、冷熱を計つてあるが如きは、實(じつ)に其用意の周到に驚かざるを得ないのだ。

大橋乙羽 『欧米小観』 1901年 博文館
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「日本とフランスでの芸術家の社会的地位の違い etc」(明治時代の海外旅行記:『欧米小観』)

僕の泊つて居るホテルの風呂には寒暖計が備へ附けてあつて、是を以つて湯の温度を知る事が出來る様になつて居る。是も矢張り獨逸の規律的學術的に出來て居る一例と見て能からう。

坪井美雄 『異国土産蛙のたはこと』 1914年 東京国文社 p.150

※1900年頃のドイツの浴室
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 1924年発刊の「面白いうちに根本のわかる理科の話」によれば、当時の日本人はあまり温度計を使用したりしないのが一般的だったようなので、その分ドイツで盛んに温度計が用いられているのが印象的だったのかもしれません。
一般に日本人は寒暖計を利用せないで役に立たぬ無用の長物と見て居るものものある。これは温度といふことを知らない罪であつて、何も寒暖計の罪ではない。

水木梢 『面白いうちに根本のわかる理科の話』 1924年 三共出版社 p.105



 また、寒暖計に関して現代の当時の日本で違っていることに摂氏を使うか華氏を使うかということがあります。現代の日本人だと華氏表記をされてもよく分からないという人が大半だと思いますが、当時はそちらの方が主流だったようです。

 上述の記述内で「攝氏の三十八度」としているように明治~大正時代の日本でも摂氏表記は使われていたようですが、これはどちらかといえば少数派で当時の旅行記では華氏で記述されていることの方が多いです。

 試みに当時の旅行記等の文献で華氏、摂氏表記に言及しているものを以下に引用してみました。これらの記述からは当時の日本人にとっては華氏表記が一般的であったことが読み取れると思います。
今日も日射は随分ひどい。懐中に豫て用意の寒暖計を出して見ると、驚くべし攝氏の二十八度だから日本流に暑さは華氏で計るとすれば九十四五度に當る。

高原操 『北半球一周』 1919年 文雅堂 p.11
露西亞では、到る處に列氏を用ひるので、華氏に慣れた僕等には、一寸直ぐ見當がつかぬ。

杉村楚人冠 『大英遊記』 1908年 有楽社 p.335

※明治時代の温度計
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※華氏と摂氏が併記されている温度計もあったそうです。
http://www.sci-museum.kita.osaka.jp/~nozo/universe/physics/ps058.pdf


 当時の日本で摂氏と華氏がどのような存在だったか興味が出たので調べてみたところ、1895年発刊の「最近写真術」の中で、一般的に使われているのが華氏であり、学術や医療の場で使用されているのが摂氏であるという記述が見つかりました。
本邦にて使用する寒暖計に二種あり

一は多く俗間に行はれ一は専ら學術上に用ゐらる

俗間に行はるるものは華氏の寒暖計と稱し氷點(氷の温度)を三十二度とし水の沸騰したる時の温度を二百十二度と定む

學術上若くは醫師の診断等に用ゐらるるものは攝氏の寒暖計と稱し氷點を零度とし沸騰點を百度とむ、

滝沢賢四郎 『最近写真術』 1895年 桃華堂 pp.326-327

 摂氏が使われるのが学術の場に於いてということは1908年発刊の「新編家庭衛生」の中でも書かれていたのでおそらくこれが当時の日本人の一般的な認識だったのではないでしょうか。
寒暖計の度は、衞生學の方では、否な學術上では皆な攝氏を用ふ、

石原喜久太郎 『新編家庭衛生』 1908年 博文館 p.77

 1915年発刊の「知識のくら」では摂氏、列氏、華氏を使用している国についての言及がありましたが、そこでは摂氏を使っているのはフランスや世界中の学術界で、列氏はドイツやオーストリア、華氏はイギリスや日本で用いられているとされていました。
(藤井作男、西脇義二 『知識のくら』 1915年 栄文館書店 pp.202-203)



 ただ華氏が中心だったからといって摂氏が馴染みのなかったということではなかったらしく、文献を紐解いていると摂氏にある程度馴染みがあるような記述も散見されます。

 例えば1903年発刊の「初学必携学びの友」では温度計には摂氏、華氏、列氏の三種類があり、そのうち摂氏と華氏の温度計は日本で広く用いられていることに言及されていました。
寒暖計には三種あります。氷點を0度とし、沸騰點としたのを攝氏の寒暖計と申します。又この兩點間を、百八十に分けて、
氷點を三十二度とし、沸騰點を二百十二度としたのを華氏の寒暖計と申しまして、いづれも廣く用ゐられます。

丹下鎮象編 『初学必携学びの友』 1903年 煥乎堂 p.94


 華氏を主に使用していた日本がいつ頃、どのようにして摂氏への使用に切り替わっていったのかということは興味深い事だったので色々文献を調べてみましたが詳しいことは分かりませんでした。

 ただ、1942年発行の「日本語読本 巻三」の中で、当時既に摂氏が一般的に用いられているとの記述が見つかったので、おそらくは大正時代から昭和時代にかけて華氏から摂氏へと切り替わったのだと思われます。
寒暖計には、攝氏寒暖計・華氏寒暖計・列氏寒暖計といふ三つの種類があります。普通使はれてゐるのは、攝氏寒暖計と
華氏寒暖計の二つですが、日本では、おもに攝氏を使ってゐます。

日本語教育振興会 『日本語読本 巻三』 1942年 日本語教育振興会 pp.61-62




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「ドイツ人がスープの皿にまで温度計をつけていて日本人が驚いた話」(大正時代の海外旅行記:『世界一周』)


 こちらは1918年に発刊された欧米旅行記「世界一周」で、興味深かった記述や当時の社会の様子が窺える記述を取り上げた記事です。

 なお、引用箇所の一部には現代の基準だとあまり良くない表現がある場合もありますが、歴史的記述であることを尊重し一切手を加えていません。


参考文献:日本青年教育会編 『世界一周』 1918年 日本青年教育会
関連記事
【宣伝】暇劇の同人誌(『幕末・明治期の西洋人が見た日本(絵画篇)』)が完成しました。
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明治時代の海外旅行記で面白かったところのまとめ




●こちらはドイツでスープの皿にまで温度計が使われていることについての記述です。
獨逸人の頭腦の如何に科學的であるかといふことは、例へば入浴するにしても、攝氏の三十八度と註文すれば、女中は其の加減を
して入れてくれる。近頃ではスープ皿にも寒暖計がつけてあつて、攝氏何度のスープなどといふ自分の嗜好に適したものを吸ふことが出来る
といふ工合(ぐあい)に、寧ろ奇抜に過ぎてゐる位である。

日本青年教育会編 『世界一周』 1918年 日本青年教育会 p.156

【要約】
 ドイツ人は湯温を指定すればその通りに準備してくれることを例に挙げて、科学的な国民であるとし、スープ皿にも温度計をつけて好みの温度で飲むことが出来るほどであるという内容です。

【備考】
 流石にスープの皿にまで温度計がついているという記述を見たのはこれが初めてのことですが、このように温度計を使って正確に計るというドイツ人のやり方に当時の日本人は驚いていて、旅行記の中で言及されているのをよく見かけます。

 このことは大抵、浴室に温度計が備え付けられているということで話題にされることが多く、それを以てドイツ人の事を杓子定規であったり科学的な国民であると述べている記述が目立ちます。

 以下の1901年発刊の「欧米小観」でもその話題に言及されていることは以前の記事で紹介しました。
殊に注意深き浴場には、湯の中に寒暖計を備へて、冷熱を計つてあるが如きは、實(じつ)に其用意の周到に驚かざるを得ないのだ。

大橋乙羽 『欧米小観』 1901年 博文館
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僕の泊つて居るホテルの風呂には寒暖計が備へ附けてあつて、是を以つて湯の温度を知る事が出來る様になつて居る。是も矢張り獨逸の規律的學術的に出來て居る一例と見て能からう。

坪井美雄 『異国土産蛙のたはこと』 1914年 東京国文社 p.150

※1900年頃のドイツの浴室
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 1924年発刊の「面白いうちに根本のわかる理科の話」によれば、当時の日本人はあまり温度計を使用したりしないのが一般的だったようなので、その分ドイツで盛んに温度計が用いられているのが印象的だったのかもしれません。
一般に日本人は寒暖計を利用せないで役に立たぬ無用の長物と見て居るものものある。これは温度といふことを知らない罪であつて、何も寒暖計の罪ではない。

水木梢 『面白いうちに根本のわかる理科の話』 1924年 三共出版社 p.105



 また、寒暖計に関して現代の当時の日本で違っていることに摂氏を使うか華氏を使うかということがあります。現代の日本人だと華氏表記をされてもよく分からないという人が大半だと思いますが、当時はそちらの方が主流だったようです。

 上述の記述内で「攝氏の三十八度」としているように明治~大正時代の日本でも摂氏表記は使われていたようですが、これはどちらかといえば少数派で当時の旅行記では華氏で記述されていることの方が多いです。

 試みに当時の旅行記等の文献で華氏、摂氏表記に言及しているものを以下に引用してみました。これらの記述からは当時の日本人にとっては華氏表記が一般的であったことが読み取れると思います。
今日も日射は随分ひどい。懐中に豫て用意の寒暖計を出して見ると、驚くべし攝氏の二十八度だから日本流に暑さは華氏で計るとすれば九十四五度に當る。

高原操 『北半球一周』 1919年 文雅堂 p.11
露西亞では、到る處に列氏を用ひるので、華氏に慣れた僕等には、一寸直ぐ見當がつかぬ。

杉村楚人冠 『大英遊記』 1908年 有楽社 p.335

※明治時代の温度計
20130320050157_170053

※華氏と摂氏が併記されている温度計もあったそうです。
http://www.sci-museum.kita.osaka.jp/~nozo/universe/physics/ps058.pdf


 当時の日本で摂氏と華氏がどのような存在だったか興味が出たので調べてみたところ、1895年発刊の「最近写真術」の中で、一般的に使われているのが華氏であり、学術や医療の場で使用されているのが摂氏であるという記述が見つかりました。
本邦にて使用する寒暖計に二種あり

一は多く俗間に行はれ一は専ら學術上に用ゐらる

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滝沢賢四郎 『最近写真術』 1895年 桃華堂 pp.326-327

 摂氏が使われるのが学術の場に於いてということは1908年発刊の「新編家庭衛生」の中でも書かれていたのでおそらくこれが当時の日本人の一般的な認識だったのではないでしょうか。
寒暖計の度は、衞生學の方では、否な學術上では皆な攝氏を用ふ、

石原喜久太郎 『新編家庭衛生』 1908年 博文館 p.77

 1915年発刊の「知識のくら」では摂氏、列氏、華氏を使用している国についての言及がありましたが、そこでは摂氏を使っているのはフランスや世界中の学術界で、列氏はドイツやオーストリア、華氏はイギリスや日本で用いられているとされていました。
(藤井作男、西脇義二 『知識のくら』 1915年 栄文館書店 pp.202-203)



 ただ華氏が中心だったからといって摂氏が馴染みのなかったということではなかったらしく、文献を紐解いていると摂氏にある程度馴染みがあるような記述も散見されます。

 例えば1903年発刊の「初学必携学びの友」では温度計には摂氏、華氏、列氏の三種類があり、そのうち摂氏と華氏の温度計は日本で広く用いられていることに言及されていました。
寒暖計には三種あります。氷點を0度とし、沸騰點としたのを攝氏の寒暖計と申します。又この兩點間を、百八十に分けて、
氷點を三十二度とし、沸騰點を二百十二度としたのを華氏の寒暖計と申しまして、いづれも廣く用ゐられます。

丹下鎮象編 『初学必携学びの友』 1903年 煥乎堂 p.94


 華氏を主に使用していた日本がいつ頃、どのようにして摂氏への使用に切り替わっていったのかということは興味深い事だったので色々文献を調べてみましたが詳しいことは分かりませんでした。

 ただ、1942年発行の「日本語読本 巻三」の中で、当時既に摂氏が一般的に用いられているとの記述が見つかったので、おそらくは大正時代から昭和時代にかけて華氏から摂氏へと切り替わったのだと思われます。
寒暖計には、攝氏寒暖計・華氏寒暖計・列氏寒暖計といふ三つの種類があります。普通使はれてゐるのは、攝氏寒暖計と
華氏寒暖計の二つですが、日本では、おもに攝氏を使ってゐます。

日本語教育振興会 『日本語読本 巻三』 1942年 日本語教育振興会 pp.61-62




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「日本人とアメリカ人の働き方の違い」(大正時代の海外旅行記:青山哲四郎『亜米利加土産』)


 こちらは大正時代の研究者だった青山哲四郎が害虫研究の官命を受けて大正2年(1913年)から大正4年までスタンフォード大学で研究した時の滞在記・旅行記(『亜米利加土産』)で、興味深かった記述や当時の社会の様子が窺える記述を取り上げた記事です。

 なお、引用箇所の一部には現代の基準だとあまり良くない表現がある場合もありますが、歴史的記述であることを尊重し一切手を加えていません。


参考文献:青山哲四郎 『亜米利加土産』 1916年 越新社
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明治時代の海外旅行記で面白かったところのまとめ




●こちらは日本人とアメリカ人の働き方の違いについての記述です
一般に米人は働く時は、朝から夕方迄規定の時間だけは、煙草も吸はず事務に努力する、それであるから勉强室や、事務室へ尋ねて行つて客が閑談を言ひ出すと、左様な話なら日曜の時に承らうと云つて、遠慮なしに客を歸(か)へしてしまふ、

又日曜日に自宅を訪問して事務上の話をすると、其の様な話は明日事務室で伺う事にしやうと云つて取あはない、事務室は仕事場、自宅は休息所と云つた様な風に、其の間には截然(さいぜん)たる區別(くべつ)がある。日本人の様に畑に行つても、鍬に腰を掛けて、先づ一服とやる様な事は決してない、

此の習慣は或る部分に限らない、下は農工商より上は官廳(かんちょう)に至るまで一様に行はれて居る、雇人や女中等も規定の時間中はよく働くが、規定の時間外には活動に行かうと、芝居に行かうと少しも主人が關涉(かんしょう)する事は出来ない、若し少しでも規定の時間外に働いた場合には、別にそれだけの金を請求するのである。


青山哲四郎 『亜米利加土産』 1916年 越新社 pp.79-80

【要約】
 アメリカ人は仕事の時間と私的な時間をはっきりと区別し時間外労働にはその分の賃金を請求するのに対して、日本人の場合その区別が曖昧になっているという内容です。

【備考】
 先日の記事で読者の方が以下のようなコメントをしてくださったということもあり、この話題を取り上げてみました。
54. ななしさん   2020年07月25日 12:46  ID:3KBkrvRo0
余談ですが、欧米人は平日がむしゃらに働き
休日は全力で余暇を過ごす(メリハリがある)、
一方の日本人は平日も休日もダラダラと境なく
働くのが習慣でこれは変えられない、
これではいつまでたっても追い付けない、
と嘆いている文章を読んだことがあるのだが
寺田寅彦だったか中谷宇吉郎だったか思い出せない。。。
関連記事
「ドイツ人は肩書というものを滑稽なほど大事にする」(大正時代の海外旅行記:保科孝一『伯林と巴里』)


 この働き方の違いは当時の旅行記ではよく触れられていることで、1910年発刊の「世界一周記」でも日本人とアメリカ人の働き方の違いについて次のように述べています。
能く働いて、能く遊ぶとは、蓋し彼等の事で、日本人の様に不規律で無い。勞働時間も規定があつて、一定の時間に働いて、時間が来ると、ちやんと止めて終ふさうである。ここらが正しい物で、日本人の眞似の出来ない仕事である。

田辺英次郎 『世界一周記』 1910年 梁江堂 p.80

 これらの記述では日本人とアメリカ人の比較で書かれていますが、この働き方の違いについてはアメリカ人だけではなく日本人と欧米人の違いとして取り上げられることが多いです。
日本人は仕事時間と休息時間との區別が少い。西洋人は仕事時間には全く一生懸命で、休息時間には絕對的に休む。

日本人が人の前で氣をゆるめるといふのも、つまり何時でも休む癖が出るのである。日本人が氣をゆるめるといふ事は日本人ばかりを見ては解らないが、西洋人とよく交際すると、随分目に立つ。

前田不二三 『文明日常の礼節』 1913年 実業之日本社 p.159
仕事をする時は決してわき目を振らない。だから仕事が捗取る。商店でもお役所でも僅かな人間を使つて濟む。この働き振と較べると、日本人は仕事をしてゐるのか遊んでゐるのか分らない位である。

伯林に商業や事務の見習に來てゐた或る日本人の話を聞くと、獨逸人のやうにはどう奮發して見ても働けない、體力も氣力も續かないと云ふ事である。

片山孤村 『伯林 都会文明乃画図』 1913年 博文館 p.174


 このような欧米人と日本人の働き方の違いは現代でも特に「時間当たり労働生産性」などの話題に絡めてよく取り上げられる印象がありますが、これらの記述を読んでいるとその理由が当時と現代では違っているように感じました。

 当時の日本人の文献を読んでいると「伯林 都会文明乃画図」のように単純に気力や体力が続かないので休み休み仕事をするという記述が多いのですが、現代だと気力や体力の問題というよりもどちらかといえば仕事量の多さのせいで就業時間が曖昧になっていると言われることが多い気がします。

 サービス残業がどの程度根深いものかは企業によっても違うとは思うのですが、日本の場合それが受け入れられやすくなってしまっている雰囲気があるかもしれません。

※労働生産性の国際比較
日本の時間当たり労働生産性は46.8ドルで、OECD加盟36カ国中21位。

OECDデータに基づく2018年の日本の時間当たり労働生産性(就業1時間当たり付加価値)は、46.8ドル(4,744円/購買力平価(PPP)換算)。米国(74.7ドル/7,571円)の6割強の水準に相当し、順位はOECD加盟36カ国中21位だった。

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労働生産性の国際比較2019
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 労働という話題に関しては、このような働き方の違いの他にもアメリカ人と日本人の労働観が違っていることはよく指摘されています。それは具体的にはアメリカ人は労働を神聖なものとして考え、日本人は労働を卑しいものと考えるということで、この事は以前1910年発刊の「外遊九年」や、1908年発刊の「欧米新旅行」を取り上げた記事でも紹介しました。
幾多の雇はれ人は、種々の仕事に從事して居る。突然其の中より起つて、嬉々として手を振り、予に近ついて来る一人の百姓がある。誰かと思うてよく見れば、外のものではない、予の親友である。顔は眞黑に日に燒けて、夏休み前の紅顔は跡形もない。

日本などでは、一豪家の子で、大學生だなどといへば、高く止まつて、我家の雇人にすら言葉を交はさぬ位である。

然るに、米國は平民國だけありて堂々たる大學の秀才が、然かも富貴の家に生れ乍ら、雇人等と一處になりて、勞働に從事して居る。これカーライルの所謂勞働の神聖をよく理解するものであると、深く咸嘆せざるを得なかつた。

田村哲 『外遊九年』 1908年 目黒書店 p.115
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或年私は此土地に参りまして、海水浴をして居る間に、一人の青年と懇意になりました所が、其青年は私に向て日本人の店で人を求むる所があつたら世話して呉れと申すますので、聞き合して見ると、丁度いい具合に口があつて其男を周旋したのでありましたが、段々聞て見ると其男の家は相当の財産家で、兩親と一所に避暑に来て、或立派なホテルに宿まつて居るのですが、徒然の餘りに勞働するのだと云ふことでありました。こう云ふ具合米國人は勞働すると云ふことを少しも耻辱とは咸じないのであります。

三上久満三 『欧米新旅行』 1908年 精華堂書店 p.76
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 ここで田村哲は「勞働の神聖」というのは「カーライル」に由来すると述べていますが、これはトマス・カーライルのことです。当時の日本人は労働の神聖について話題にする時大体このカーライルに言及しているので、当時それがかなり一般的な認識だったのかもしれません。
凡そ眞正の勞働は則ち神聖也。眞正の勞働には假令(たとえ)手工の如き勞働たりとも、其内には多少神聖の所あり、

ウアード 『トマスカーライルと彼が労働の福音』 1909年 警醒社 p.7

 私の場合、「西洋」「労働」「神聖」という単語を見ると「カルヴァン」の方を連想してしまうのですが、現代日本で上記の単語から一般的にイメージされるのは誰なのか気になる所です。
トーマス・カーライル(Thomas Carlyle, 1795年12月4日 - 1881年2月5日)は、19世紀イギリス(大英帝国)の歴史家・評論家。

カーライルは、大英帝国(ヴィクトリア朝)時代を代表する著述家・言論人として様々な金言がある。

トーマス・カーライル


 最初の働き方の違いについては日本人と欧米人の違いといった感じでしたが、この労働を神聖なものとして見ることについてはヨーロッパ人とアメリカ人でも違っているということは当時の文献で見られます。

 例えば1916年発刊の「欧米の社会と日本の社会」では次のように、ヨーロッパでも労働を神聖なものとして見る傾向はあるもののアメリカの方がその考えは強いことに触れています。
彼の勞働は神聖也といふやうなことは歐羅巴(ヨーロッパ)でもいはれることではあるが、而(しか)も尙ほ歐羅巴に於ては、職業にはいろいろの色が附いて居つて、自然に、或職業は高尚と見られ、或職業は下等と見られるのがあるけれども、亞米利加の社會(しゃかい)に於ては、凡そ如何なる職業でも、今日職業である以上は、人は其勞働に對して勞働者を卑むといふことは少しもない。極めて之を高尚なものとして、眞に勞働は神聖なものと認めるのである。

現に或は料理屋の皿洗ひに雇はれ、或はホテルの掃除夫なり、或は汽車のボーイなどを勤めて居る者でも、一旦其勞働が終つて、自分の宅へ還(かえ)れば、立派な紳士として、他の紳士と交際することが出来る

小林照朗 『欧米の社会と日本の社会』 1916年 日本学術普及会 p.180

 この労働の貴賤については先日以下の記事でも取り上げましたが、現代の日本ではそのような考えを厭う空気が全体的にある気がするのでその点は当時とは変わったのかもしれません。

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「西洋人と日本人の主婦では買い物の仕方が違ってる」(大正時代の海外旅行記:高原操『北半球一周』)


 こちらは大正時代の新聞記者だった高原操が、大正2年(1913年)に北欧を旅行した時の旅行記(『北半球一周』)で、興味深かった記述や当時の社会の様子が窺える記述を取り上げた記事です。

 なお、引用箇所の一部には現代の基準だとあまり良くない表現がある場合もありますが、歴史的記述であることを尊重し一切手を加えていません。


<高原操>

高原 操(たかはら みさお、1875年12月16日 - 1946年11月21日)は、日本のジャーナリスト。大阪朝日新聞主筆兼取締役編集局長。大正デモクラシーの第一線言論人。

高原操


参考文献:高原操 『北半球一周』 1919年 文雅堂
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明治時代の海外旅行記で面白かったところのまとめ




●こちらはデンマーク人と日本人の主婦の買い物の仕方の違いについての記述です。
コペンハーゲンの奥さん達は皆料理の鍛錬が嫁入り前に仕てあるといふ事だ。魚の買出しには自分で必ず出掛ける、凝(ぢつ)と見てると、なかなか審査に手間を取る、一クローネ(我が五十銭)位の鰈(かれい)を一疋(いっぴき)買ふのにさへ、七八の漁師に當()あたつて現物を熟視しては値を聞き、大小肥瘠それぞれ比較調査の上でなくては購(か)はぬ。

…時間は大分潰ぶるるに相違ないが、日本の奥様連が下女の奏問に下命して「何でも好いから魚屋が來たら御刺身になるものを取つて置き!大抵向ふが知つてるよォ…」と襖の蔭から被仰るのとは霄壤(しょうじょう)の差といふべきか、或はまた月と鼈(すっぽん)との違ひとでも謂ふか。

一體(いったい)西洋では、上流社會(しゃかい)は別として、年収五六千圓(えん)ぐらゐ迄の中流家庭の主婦は、野菜でも肉類でも自分で市場へ出掛けて選(え)りに選りて新鮮な値の安いものを買ひ出する事に善良な風習が出来てる。

高原操 『北半球一周』 1919年 文雅堂 pp.15-16

【要約】
 デンマークの主婦は自分で魚屋まで行って自分の目で見て選ぶのに対して、日本の主婦は家までやってきた魚屋の対応を下女に任せているという内容です。

【備考】
 現代の日本だと店まで行って買い物をする主婦の方が大半だと思いますが、当時の日本ではこのような買い方が一般的だったようで、当時の書籍ではこのような買い物のやり方を比較している記述はよく見かけます。

 例えば、1901年発刊の「米国漫遊雑記」や、1903年発刊の「家庭小話」でも西洋人の主婦が自分で店まで買い物に行く事と、日本人の主婦のやり方を次のように比較しています。
飲食用の買い物でも婦人が自身にサツサツと八百屋へでも肉屋へでも穀屋へでも出かけて往て、品の宜い價の割安なのを買てくる、

何事もお爨(さん)どん任せで、品物も見ずに肴屋や八百屋の御用聞から取寄せる東京流の婦人方とは、丸で行方が違つている、

食物は人間の活力を生ずる原料であるから、成るべく滋養のある宜いものを撰んで、而かも經濟的に遣るのが賢明な婦人のすべきことで、米國婦人などは卑いどころか、誠に見上げたものである。

日本の奥様や御嬢様が八百屋の店先に立とるのは外聞が惡いなど仰しやるのは、甚だしい御心違ゐである。

松井広吉 『米国漫遊雑記』 1901年 博文館 p.193
西洋では上流の家にでも、買物は、大抵奥様自身になさると云ふことです。

日本では中流以上は勿論、中流の奥様でも毎日廻りに来る八百屋、魚屋にすら御自分で應對なさらぬ方が多いやうで、猶更それらの買物にお出掛けなさるなどは一切ないやうに思ひます。

もとより東西習慣風俗を異んびして居りますこと故、奥様方に毎日魚屋の店へお立ち遊ばせとは、お勸め申上げ兼ねますが、買物をお手づからなさると云ふことは決して卑しい事や、吝嗇もののみのする事ではないかと存じます。

羽仁もと子 『家庭小話』 1903年 内外出版協会 pp.52-53

 ここでは店まで買い物に行くことは「決して卑しい事や、吝嗇もののみのする事ではない」としていますが、実際このような考えは根強かったようで他の文献でも似たようなことがよく書かれており、1907年発刊の「台所改良」では日本の主婦が店まで買い物に行く様子を知り合いに見られるのは恥だと考えていることを次のように諭しています。
日本の婦人は大根や人参を自身買ひに出ることを大層恥のやうに思つて居て、買出しに往つても知つて居る妻君達にでも逢はなければ宜いが若し逢つたら何うしやうと、歸りには裏道を廻り何んとなく恥入るやうな感念を抱いて居るものが多いやうですが之れは飛んだ考へ違ひで、羞べき事でも、笑はるべき事でもない、尤も美しい事で御座います、

天野誠斎 『台所改良』 1907年 博文館 p.220

※当時の買い物の様子(出典:天野誠斎 『台所改良』 1907年 博文館 p.219)
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 当時の日本人の主婦が家で買い物をする理由については1917年発刊の「貯金の出来る一家の暮し方」で触れられており、ここは建前だけではなく本音の部分にまで言及されているようで興味深い内容でした。
日本の婦人が、兎角自分の内に居て物を買ひたがるのは、一つは留守番が無いとか何とかで、買ひに出るに困ると云ふやうな事情もあらうが、それならば夜分にでも、休暇の日にでも、主人なり誰なりの内の居る時に出ればよい。畢竟は昔風の傲慢心が除かないのと、一つは全體に尻が重過ぎるのである。ま少し手輕にサツサと何處へでも往くやうに仕たいものである。

松雲堂編輯所編 『貯金の出来る一家の暮し方』 1917年 石塚松雲堂 p.113

 簡単にまとめると店で買い物をするのはケチで卑しい事とみなされており、あまり当時の主婦は外に出たがらないことから家で買い物をするというような感じでしょうか。

 当時の日本人女性が外に中々出ようとしない事については当時の日本人の旅行記の中でもしばしば何らかの形で言及されていて、例えば1910年発刊の「世界一周記」では著者はアメリカ人女性が外出している様子を目にして「日本なら、女が餘り外出してさへ、怪しむもの」と述べていますし、1924年発刊の「米国自動車横断記 行程七千里」でも「市中を歩いて居る女の多いことに驚いた」と触れています。

※関連文献
元來日本の婦人程外出卽ち日光浴を厭ふ國民はない。

山脇玄 『家庭経済講話』 1919年 東盛堂 p.26

 女性が外を出歩いていたら怪しまれるという雰囲気だと外出したかったとしても出来なかったと思われるので、こういうところも店での買い物がやりにくかった遠因かもしれません。


 記述内では下女の存在に言及されていますが、これについては先日1902年発刊の「世界読本」を取り上げた時にも触れたように、当時の日本では大抵の家庭に下女がいたそうです。
夫婦に一人の子供位の處ならば日本では、必ず下女と猫と位は附屬(ふぞく)してるのが當(あた)りまへで、又そうでなければ、行はれぬのであるが、西洋では家屋の構造から、食物などの工合が簡便に成つてをるから、その位の家では、妻君が中働きもやり、臺所(だいどころ)もするといふので、水入らずに暮してをる。

池辺義象 『世界読本』 1902年 弘文館 p.13
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 当時の買い物の仕方について興味が出たので色々調べてみましたが今とは随分やり方や考え方が違っていました。例えば1917年発刊の「貯金の出来る一家の暮し方」では次のように現金で買い物をするのは毎回現金を用意しないといけないので大半の人にとっては面倒と書かれています。
物を買ふたび毎に金を拂ふと云ふことは、なかなか面倒なもので、それだけの金を始終用意して居らねばならぬ。餘程意思の强い人でなければ迚も出来ない。

松雲堂編輯所編 『貯金の出来る一家の暮し方』 1917年 石塚松雲堂 

 この「貯金の出来る一家の暮し方」によれば、当時は「帳面で物を買つて置て、月末に拂ふ」というやり方が便利で一般的だったようですが、このやり方だとついつい欲しいものは何でも買ってしまい月末になって請求額に驚く事になるので「成るべく現金支拂ひの習慣を附けるが宜い」とされていました。

 まるで現代におけるクレジットカードのような話で、こういう話を読んでいると人間というのは時代が変わってもあまり変わらないと感じられます。この頃の文献では「貯金の出来る一家の暮し方」と同じように他の大抵の書籍でも店先まで買い物に行って現金で購入することを勧めていましたが、それだけ異口同音に言われていたことからも当時そちらのやり方が主流だったことが窺えます。


 この帳面払いの罠には当時日本を訪れた西洋人も散々ハマってしまっていたようで、サイン一つでものが買えてしまうためついつい物を買い過ぎてしまい後々困ってしまうという記述は当時の西洋人の旅行記では散見されます。
あちらこちらで、二度とつけ伝票なんかにサインしないぞと反発して毒づく人がいるが、厳然として存在する誘惑に、あらがうことができない。

喉の渇きと、渇望する一杯との間を隔てるものが、一枚の紙切れに名前を書きなぐること以外に何もないとしたら、勝負は決まっている。渇きの勝ちだ。酒ほど効き目のない他のものであっても、同じように欲しくてたまらないものなら同じだ。

あの致命的な一枚の紙切れが、全てをあまりにも容易にし、行ないを改めるのを難しくする。

クラレンス・ルドロウ・ブラウネル 『日本の心 アメリカ青年が見た明治の日本』 2013年 桂書房 p.122

 以前ネットサーフィンをしている時にどこかで見かけたネタコピペの中に、日本に行くと買い物をし過ぎてしまうという噂を聞いて無一文でやってきたらクレジットカード限度額まで使ってしまったというものがあったのですが、それをどことなく髣髴とさせる話でした。




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「ドイツ人は肩書というものを滑稽なほど大事にする」(大正時代の海外旅行記:保科孝一『伯林と巴里』)


 国語学者だった保科孝一が、1911年(明治44年)から二年間ヨーロッパに滞在したときの滞在記・旅行記(『伯林と巴里』)で、興味深かった記述や当時の社会の様子が窺える記述を取り上げた記事です。

 なお、引用箇所の一部には現代の基準だとあまり良くない表現がある場合もありますが、歴史的記述であることを尊重し一切手を加えていません。


<保科孝一>

保科 孝一(ほしな こういち、明治5年9月20日(1872年10月22日) - 昭和30年(1955年)7月2日)は、日本の国語学者、文部官僚。

1911年(明治44年)文部省命令により国語教育・国語政策の調査のためドイツとフランスに出張、1913年(大正2年)帰国。

保科孝一


参考文献:保科孝一 『伯林と巴里』 1914年 富山房
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明治時代の海外旅行記で面白かったところのまとめ




●こちらはドイツでの肩書の重要さについての記述です
獨逸では階級とか資格とかいふことは非常にやかましいので、その人の官職や學位などは少しも誤らないやうにしなければならん。

婦人は夫の官職名等によつて呼ばれるやうになつてゐて、例へば、市長夫人助役夫人中學教員夫人小學教員夫人といふやうに呼ぶので、高橋夫人佐藤夫人といつては機嫌がわるい。つまりこれも一種の虛榮であらうが、それが増長して巡査夫人郵便配達夫人などとも言ふ。

ある獨逸人はまあこれまでは許すとしても郵便配達補助夫人などは滑稽きはまると笑つてゐたことがあつた。

保科孝一 『伯林と巴里』 1914年 富山房 pp.113-114

【要約】
 ドイツでは肩書が重要で女性は夫の官職名で呼ばれ、中には「郵便配達補助夫人」という滑稽なものまであるという内容です。

※1910年代のドイツの郵便配達員
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【備考】
 当時ドイツに旅行していた日本人の旅行記では、ドイツ人が肩書を重んじることを何らかの形で書いている記述が散見されます。ただ、肩書を重視するといっても官民で言えば官の方が重んじられていたようで、その中でも軍人が花形であったようです。
(田中一貞 『世界道中かばんの塵』 1915年 岸田書店 p.47)

 1901年発刊の「欧米管見」でもドイツ人が肩書を重んじることについて触れていますが、そこでは「郵便配達補助夫人」どころか夫が亡くなっても「大尉夫人」という肩書を使い続けている例を紹介してます。
現在官職に就て居る人が幅を利かせるのみならず、既に官職を去ッた人……果は既に其人が死んだのち後家までが尚(な)だ肩書を放さないです、下宿屋の神さんが大尉夫人の肩書を有(も)ッて居るとの奇談も聞いた

大岡育造編 『欧米管見』 1901年 大岡育造 pp.53-54

 現代日本だと「社長/社長さん」と呼ぶことはあっても、「社長夫人/社長夫人さん」と呼ぶことはあまりないと思うのでこういう違いは興味深いものでした。


 イギリス人のウィリアム・ハーバット・ダウソンが著し、1914年に翻訳版が発刊された「独逸の国民生活」の中でも以下のようにドイツ人が肩書を珍重することに触れているので、このことはヨーロッパの他の国から見ても際立っていたのではないでしょうか。
斯くの如く獨逸には數多(あまた)の肩書有り、而して交際上の文面は勿論、日常の應對(おうたい)にも必ず悉くこれを使用するを要す。

而して若しこれを怠るときは、侮辱の行爲として大いなる不興を買ふのみならず、或は名譽恢復(かいふく)の訴訟を見ることなしとせざるなり。

ウィリアム・ハーバット・ダウソン 『独逸の国民生活』 1914年 洛陽堂 p.38


 現代でも海外掲示板を覗いているとドイツ人が肩書を大事にするという話題は時々見かけることがあるので、これはドイツ人の国民性のようなものかもしれません。

 関連:Why is it so important to use titles in Germany? There must be just as many "Dr." degrees in the UK, Scandinavia, and France, but they are rarely used as titles.
 関連:Titles and certification: Why it will help your German business partner (and you) to sleep at night when your processes are certified

 2011年に発刊された「the essential guide to customs & culture GERMANY」というドイツの案内本のなかでもアメリカ人やイギリス人と比較して、ドイツ人がお互いの事を肩書で呼び合うことに言及している記述があります。


 肩書に関しては他にも面白い記述があり、先に紹介した「欧米管見」の中ではアメリカ合衆国の肩書の習慣に関して次のような記述があります。
それから肩書が面白いです、何省の局長と云ふよりも何會社の支配人と云ふ方が通用が好いのです、議員は餘(あま)り威張れない、私が名刺を作ッて貰ッたとき『議員丈けの肩書で澤山だ』と云ッたら『サウデない、他の實業を表彰しなければ信用が薄い』といふて、其れで日本では書いたことのない中央新聞社長と云ふ肩書を付けた、

何でも獨立と云ふことが一番大切で、名譽も之に上を越すものはないのです、故に政府の雇人と云ふよりも會社の株主……何商店の主人と云ふ方が好い、

大岡育造編 『欧米管見』 1901年 大岡育造 p.52

 要約するとアメリカ合衆国では独立が重視されているので、名刺に政府の一員に過ぎない「議員」と書くよりも会社の代表である「社長」と書いた方が信用されるという内容で、これは先の官重視のドイツとは随分違っていて面白い内容でした。


 また肩書に関して興味深いのは、当時日本を訪れた外国人はよく日本人は肩書や爵位をあまり重要視しないと記録していることでこれはドイツ人だけではなく他のヨーロッパ人からも指摘されています。

 例えば、明治20年に来日したドイツ人のルートヴィッヒ・リースは日本では爵位がそれほど重要ではないということに驚いており次のように述べています。
社交の会話の際も、爵位で呼び合うなどということはほとんどない。

貧しい身なりの学生が、たとえば大隈伯爵級の人物と、ポケットに手を突っ込んだまま話をし、「写真屋さん」にでも話しかけているような調子で「大隈さん」と呼んでいる光景を見ると、今さらながら、日本には驚くべきことに外国人居留民と旅行者以外にはスノッブはいない、というイギリス人の見解はもっともだと思わざるを得ない。

ルートヴィッヒ・リース 『ドイツ歴史学者の天皇国家観』 1988年 新人物往来社 p.67

 この記述の中の「イギリス人の見解」はおそらくですがバジル・ホール・チェンバレンの「日本事物誌」での記述の事を指しているのだと思われます。チェンバレンもまた日本人が爵位をあまり重視しない事について次のように述べています。
彼らの考えから見れば、「それでもやっぱり人は人」〔バーンズ〕なのである。
話題の人が爵位をもっているかどうかすらも知らない場合が多い。活字にするとき以外は、めったに爵位を用いることもなく、
例えば、大隈伯のことを口に出して言うときは「大隈さん」である。

バジル・ホール・チェンバレン 『日本事物誌2』 1974年 平凡社 p.123

 当時の日本人が爵位をどう思っていたか一応調べてみたのですが参考になる文献は見つけられませんでした。ただ、「大隈伯爵」よりも「大隈さん」の方が親しみが込められている感じがある事は分かるので割と隔てがなかったのかもしれません。




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「ドイツ人学生と日本人学生の顕著な違い」(大正時代の海外旅行記:田中一貞『世界道中かばんの塵』)


 こちらは大正時代の社会学者だった田中一貞が大正2年(1913年)に欧米各国を視察した時の視察記・旅行記(『世界道中かばんの塵』)で、興味深かった記述や当時の社会の様子が窺える記述を取り上げた記事です。

 なお、引用箇所の一部には現代の基準だとあまり良くない表現がある場合もありますが、歴史的記述であることを尊重し一切手を加えていません。


<田中一貞>

田中 一貞(たなか かずさだ、本名:いってい、1872年7月12日 (明治5年6月7日) - 1921年(大正10年)9月22日)は、日本の社会学者。

1913年(大正2年) - 塾長鎌田栄吉と共に欧米の教育視察をする。

田中一貞


参考文献:田中一貞 『世界道中かばんの塵』 1915年 岸田書店
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明治時代の海外旅行記で面白かったところのまとめ




●こちらはドイツ人学生と日本人学生の性質が大きく違っていることについての記述です。
獨逸人の學生と日本人の學生とが甚だしく性質を異にすると云ふことも日常の遊びに現はれて居る。

例へば晩餐後に日佛獨人混合でトラムプなどを始めることがあるが、西洋の習慣に随つて二錢とか三錢とか云ふ少し許(ばか)りの金を賭る。

處(ところ)で日本人が勝つて儲けた場合には其金を全て主婦に提供する、左(そ)うすると主婦は是を貯へて置いて月末に菓子などを買つて一同で食ふといふ風であるが、獨逸人は自分が(か)ち得た金は一錢でも二錢でも悉くポツケツトに入れて颯々(さっさ)と歸(かえ)つて行くのである。

ルロア老夫人が何時(いつ)か私に、從來多數(たすう)の日本人を世話したが自分の勝つた金を持つて歸る者は未だ一人も無い、是に反して獨逸人は自分の勝つた金を置いて行く者は一人も無いと云つて居た。

※「(か)ち得た」の「か」は以下のような漢字だったのですが、手書き検索などをしても見つかりませんでした。
https://livedoor.blogimg.jp/drazuli/imgs/1/b/1ba3a982.png
※コメント欄で「贏」の異体字だと教えて頂きました。ありがとうございます!


田中一貞 『世界道中かばんの塵』 1915年 岸田書店 p.289

【要約】
 日本人とドイツ人とフランス人がトランプで賭けをした時、日本人学生の場合は勝った分を下宿先のおかみさんに預けて月末にそのお金を使ってみんなでお菓子を食べるのに対して、ドイツ人学生の場合は勝った分を各自で持って帰るという内容です。

【備考】
 このようなドイツ人の吝嗇ぶりは当時ドイツを訪れた日本人の印象に残ったようで、その事について触れている旅行記は非常に多いです。

 例えば1914年発刊の「独逸及独逸人」ではドイツ人の倹約さについて次のように述べています。
獨逸人の勤勉で儉約な事は、呑氣な日本からは、卽ち、二宮宗や戊辰の詔書を必要とする日本からは、到底想像がつかぬ。

片山孤村 『独逸及独逸人』 1914年 富山房 p.99

 「二宮宗や戊辰の詔書を必要とする日本」という部分は少し分かりにくいのですが、おそらく日本人は上から言われてようやく勤勉倹約をするといったことを著者は言いたいのではないかと思います。
戊申詔書(ぼしんしょうしょ)は、1908年10月14日に官報により発布された明治天皇の詔書の通称。日露戦争後の社会的混乱などを是正し、また今後の国家発展に際して必要な道徳の標準を国民に示そうとしたものである。


<大意>

この際上下国内で心を一つにして、忠実にその業務を励み、勤勉倹約をして財産を治めて信義を守り淳厚な風俗を形作り、贅沢なうわべ飾りを避けて質素にし、心身の緩むことのないように互いをいさめあって、自ら心を励まして活動しなければならない。

戊申詔書


 また、1910年発刊の「欧米遊覧記 第二回世界一周」の中でもドイツにはイギリスやアメリカ合衆国とは違って靴磨き屋をしている人間がいない事について触れていますが、これはドイツ人は非常に倹約家なので靴磨き屋を利用する人がいないかららしい、と著者は述べています。
大道にても曾て靴磨きを商賣にするものなし、是れ些事ながら英米と大に異る所、一錢一厘と雖も苟もせざる勤儉尙武の獨逸に在ては、假令靴磨き屋を始むる者ありとも、之を磨かする者は一人もあるまじとの事なり、

朝日新聞記者編 『欧米遊覧記 第二回世界一周』 1910年 朝日新聞


 1918年発刊の「世界一周」の中ではドイツ人の金銭の細かさは親子関係にも及んでいて、お金を持っていたら子供であっても親より立場が上になるということについて言及されています。
金錢の爲めには父子兄弟の區別(くべつ)もなくなつてしまふ。丁度獨逸人の父子の關係は小鳥と親鳥のようなもので、小鳥がどうかかうか巢立が出來る様になると、獨立させて、親は最早夫れをかばつてやらなくなる。

子供がいくらかの収入を得る様になると、親は子供から食糧と部屋代とを徴収するのである。それが又高いといふので親の家を去つて他に下宿するものもあり、其の事で親子喧嘩に花が咲くことが珍らしくない。

非道いのになると、内の娘が、或富豪にうけ出されて玉の輿に乗り、両親に多分の食糧や部屋代を拂ふ様になると、今度は娘が大威張りで、親に色々の御用を命じたり、果(はて)はつべこべと小言の百萬遍を喰はせる。親は恐れ入つて仰(おおせ)をかしこまつてゐるといふ始末である。

日本青年教育会編 『世界一周』 1918年 日本青年教育会 p.146

 これは著者がドイツ人は吝嗇家であるということを述べる時に挙げられている一例で、他にもドイツ人は友人を食事に誘っても奢ったりしないといったことや、お金の勘定が一厘単位で細かいと言ったことも挙げられていました。


 現代の海外掲示板では、子供が成長したらすぐに家を出て行くというのはアメリカ合衆国のステレオタイプのような感じになっていますが、ヨーロッパ圏でもこの話題で盛り上がっているのを何度か見たことがあります。

 以下はそういうスレッドの一つで、ヨーロッパ各国で親と同居している25-29歳の子供の割合が記載された地図です。
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 https://www.reddit.com/r/europe/comments/58sgn1/share_of_2529_year_olds_living_with_their_parents/

 ヨーロッパで両親と同居する子供の割合についての話題では、このように南欧では親と同居している割合が高く、北欧ではその割合が低下するので毎回その話題で盛り上がっているという印象です。

 このスレッドの中ではドイツ人のコメントもありましたが、そこでは四人に一人が親と同居しているというこの数字は意外と高くて驚いたと書かれていました。大学を卒業して数か月の間親と同居するだけの人が殆んどだと書かれていました。

 ただ、他のドイツ人のコメントではお金を節約することが出来るので両親と同居するドイツ人も多く、自分用のキッチンや玄関を親の家に設置しているといった事も書かれていました。


 アメリカ合衆国では子供は成長するとすぐに家を出るというのはよく言われていることではありますが、以下のBBCの記事によれば最近では若者で恋人と同居している若者(18-34歳)の割合(31.6%)よりも、親と同居している若者の割合(32.1%)の方が高くなっているとのことです。独り暮らしの割合は14%でした。
 More young Americans 'living with parents'




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