「日本と西洋の宗教上の違いが死因にも表われている」(明治時代の海外旅行記:松井茂『欧米警察見聞録』)


 こちらは明治時代の官僚だった松井茂が官命によって明治34年(1901年)から明治35年(1902年)にかけて欧米各国の警察制度を視察したときの視察記(『欧米警察見聞録』)で、興味深かった記述や当時の社会の様子が窺える記述を取り上げた記事です。

 なお、引用箇所の一部には現代の基準だとあまり良くない表現がある場合もありますが、歴史的記述であることを尊重し一切手を加えていません。


<松井茂>

松井 茂(まつい しげる、1866年11月4日(慶応2年9月27日) - 1945年(昭和20年)9月9日)は、日本の内務官僚、政治家。

1901年から翌年まで欧米各国を巡歴し警察及び消防を視察、救助はしご車の輸入や救急自動車の導入に尽力する等、日本に於ける警察と消防行政の基礎を築いた人物である。

松井茂


参考文献:松井茂 『欧米警察見聞録』 1909年 警察協会
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明治時代の海外旅行記で面白かったところのまとめ




●西洋ではキリスト教のため日本と違って情死が非常に少ないという記述です
西洋に於ては、概して宗教上よりして我邦の如くに二人一所に死することはない、故に我國の如き情死等の類は極めて稀なりとの事である。

松井茂 『欧米警察見聞録』 1909年 警察協会 p.47

【要約】
 西洋ではキリスト教のため日本のような情死(心中)は大変珍しいという内容です。

【備考】
 キリスト教が自殺を否定していることについては論点が多いのですが、詳しく踏み込んでしまうと泥沼にはまってしまうので、ここではアウグスティヌスが「神の国」で自殺について言及している箇所を引用する程度にとどめておきます。

 まず、アウグスティヌスは原則論としては自殺を否定しています。
ものの道理をよく考えてみると、ある人が、どんな苦難であろうと、また自分の関与しない罪を耐え忍ぶことができずに自分の身を殺したばあい、それを度量が大きいということさえも正しくないであろう。じっさい、自分の身体の苦しい隷属やあるいは大衆の愚かな意見を耐え忍ぶことができないのは、むしろ精神の虚弱と認められるのである。

アウグスティヌス 『神の国1』 1984年 岩波書店 p.71

 そしてアウグスティヌスはいかなる場合に自殺が許されるかを詳細に検討し、例外的に自殺が許される場合について次のように述べています。
まして創造主が命令するばあいにはどうであろう。それゆえ、自殺してはならないときかされている人も、その命令を軽んじてはならないものが命ずるばあいには自殺しなければならない。ただ必要なのは、この神の命令が不確実なものによって動かされてはいないかどうかを知ることである。

アウグスティヌス 『神の国1』 1984年 岩波書店 p.80

 細かい点を全て脇に置いておくと、キリスト教ではこのように人が自殺できる場合というのを極めて限定的なものにしています。


 一方で日本で情死が多いことについてですが、このことは当時の日本でも有名だったようで似たような記述をいくつも見つけることが出来ました。
余の寡聞なる未だ歐米各國に此類多きを耳にせす偶々之れあるも眞に稀有の事にして本邦の如く頻繁ならさるか如し

呉文聡 『統計実話』 1899年 丸善 p.59
近來の新聞紙上、頗る情死多し、
男女の情死は世界に於て殆ど我國の専有物たるが如し、つまらないものを専有物とせる哉、

大正名著文庫 『放言録』 1915年 至誠堂書店 p.109

 当時の日本での情死の多さは予想以上で、例えば1902年発刊の「教育叢書」では次のように、ほとんど毎日のように新聞で報道されていると言及されています。
試に各新聞を執り其第三面を一瞥せよ、殆ど連日若くは隔日に血腥(ちなまぐさ)き記事なきはなく、少くも一週間に兩三回の情死記事なきはなきに非ずや。

塚越芳太郎 『教育叢書』 1902年 民友社 p.108

 呉文聡は1899年発刊の「統計実話」の中で情死件数について具体的な数字を出していますが、明治28年1月から明治31年5月までに101件起きているとしています。しかもこれは2-3の新聞のみを参考にしたとの事なので実数としてはこれよりもずっと多いと思われます。
余か今調査し得たる事実は去る二十八年一月より昨三十一年五月に至る二三の小新聞より採集せしものにして情死の数は都合一百一回とす

呉文聡 『統計実話』 1899年 丸善 p.63

 この情死については当時の日本人も色々原因を推測していますが、仏教上の教義にその答えを求めているものが多い印象でした。
一 佛敎に輪廻應報の説あること
二 主從は一世夫婦は二世親子は一世と云ふ説行はれ夫婦は此世のみの縁にあらす來世も亦夫婦となるへきものなりとの説あること
三 浄瑠璃に情死又は情死に類似せる歌曲多くありて衆民日夜口之を歌ひ耳之を聞くこと
四 演劇に於ても同様なる狂言多きこと

呉文聡 『統計実話』 1899年 丸善 p.60
蓋し情死の我國に多かりしは、佛敎の影響その第一にありて、はかなき現世を悲観すると共に樂しき來世を願ひ、一蓮托生の信念に驅られ夫婦は二世の諺に迷ひ、これに世間の義理柵と情緒纏綿の離れ難きとを加へて死せるものといふべし、

今日の情死は未來夫婦の舊思想よりも、現在に於ける情死者の心理狀態と家庭の生活狀態と社會の境遇上とに最も重き原因ありて、

大正名著文庫 『放言録』 1915年 至誠堂書店 p.113

 勿論仏教とキリスト教の教義もこの情死に与えた影響は大きいと思いますが、それだけが原因であれば現代日本でも当時と変わらず連日のように情死が起きているはずなので、恋愛の自由度も大きく関わっていたのではないでしょうか。

 また、上記の記述で興味深かったのは「主從は一世夫婦は二世親子は一世」という諺です。私は恥ずかしながらこの諺を知らなかったのですが、上記の記述でどちらでも言及されているように当時は有名な諺だったようで他の情死に関する文献でも多く見かけました。

 日本の歴史では主従や親子関係の強さが取り上げられることが多く、それと比べると夫婦関係は軽い扱いをされているような印象ですが、この主従や親子関係が「一世」のもので、夫婦関係が「二世」に及ぶものであるとされている諺があるのは新しい視点であり興味深かったです。


 また、この情死に関して他に興味を引かれたのは1887年発刊の「滑稽独演説」での次のような記述でした。
昔し流行た謠に「情死しましよか髪切ましよか髪ハ生もの身はたから」と云ふ文句が御座ります

此奴は一番むかし風に立戻て髪を切て誓を立た方が極手輕でよい様に思ハれます

痩々亭骨皮道人 『滑稽独演説』 1887年 共隆社 p.126


昔しならば髪を切る處なれども當時ハ髪を切るのも餘り値打がありませんからソコハ臨機應變で何とか新發明の氣證を作り死でも命のある様な工夫をして貰いたいと申すので御座います

痩々亭骨皮道人 『滑稽独演説』 1887年 共隆社 p.131

 この記述では髪を切って誓約を立てることを古風なやり方として紹介していますが、これは現代とは違っているような気がして面白い内容でした。

 現代で「髪を切る」ということに特別な意味が含まれている時は、例えば願掛けで髪を伸ばして願いが成就した時に髪を切ったり、(主に)女性が失恋した時に心を一新させるために髪を切ったりという場合の方が多いと思うので、時代の変化をここから感じました。




キャプチャ

お客の男に迫られて、娼妓も死ぬ氣になつて情死するやうな場合は、斷じて無いと云つて宜い、男から發意した場合のは十中の八九まで無理心中である、大抵の情死は皆娼妓から申込むのである、夫れも惚れ合つた男との眞の情死は、夢にも見る事が出來ぬと云つて宜い、

情死でも爲ようとする娼妓だもの、美人ではない、お客が少ない、借金がある、新造に馬鹿にされる、遣手に叱られる、内所の御機嫌を損ねる、そこで生きて居ても詰らぬと考へる、自殺しやうと覺悟する、然も一人で死ぬのは淋しい、道連が欲しくなる、誰彼の差別はない、男でありさへすれば一所に死なうとする、

吉原に於ける娼妓の情死はこれが眞實である、淺薄な見解だが、事實は案外平凡なものだ、

大道和一 『情死の研究』 1911年 同文館 pp.95-96

「日本人と西洋人ではキスの仕方も違っている」(明治時代の海外旅行記:赤峰瀬一郎『米国今不審議』)


  こちらは明治13年(1880年)から五年間サンフランシスコに滞在した赤峰瀬一郎による米国滞在記/旅行記(『米国今不審議』)で、興味深かった記述や当時の社会の様子が窺える記述を取り上げた記事です。

 なお、引用箇所の一部には現代の基準だとあまり良くない表現がある場合もありますが、歴史的記述であることを尊重し一切手を加えていません。


参考文献:赤峰瀬一郎 『米国今不審議』 1886年 実学会英学校
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明治時代の海外旅行記で面白かったところのまとめ




●日本と西洋の接吻の仕方の違いについての記述です
日本にては男女の仲にても餘程(よほど)意味深長なる交際の場合に到らざれば中々口をすふ事をせず且つ口を吻(す)ふても舌をいだして接吻するは日本の風俗なる由なれども西洋にては然らずして男と女は抱きあひ或は差しよりて只唇を互に着けあはせて頻に接吻するなり

赤峰瀬一郎 『米国今不審議』 1886年 実学会英学校 p.69

【要約】
 日本人はキスをする時に舌を使う一方で、西洋人は唇を重ねるだけという内容です。

【備考】
 この記述を素直に読めば上記のような感じになると思います。なかなか興味深い記述だったので実際どうだったのかということを調べてみたのですが、結論から言ってしまうと詳しい事はよく分かりませんでした。

 そもそも記述内でも「餘程意味深長なる交際の場合に到らざれば中々口をすふ事をせず」とされているように当時の日本ではキス自体あまりなされていなかったことが様々な文献から読み取ることが出来ます。

 例えば1915年発刊の「女の赤裸々」では日本でキスは芸妓くらいしかやらないとしています。
接吻は日本に於て餘り流行らない、藝妓なんぞが生意氣にやる位である。

磐翠楼主人 『女の赤裸々』 1915年 旭堂 p.102

 また、加藤武雄の小説「夢みる日」の中では、日本人女性数名が集まって話をしている時にキスの話題となり、その中の女性の一人が人生で一度だけ男性(年配の西洋人牧師)からキスされたことがあるという経験をどこか自慢げに話していることからは、キス自体当時の日本ではかなり馴染み薄いものであったことが感じ取れます。
『私、これでも男の方に接吻された事があつてよ。』

加藤武雄 『夢みる日』 1920年 新潮社 p.230

 その意味では社交儀礼として頻繁にキスがされていた西洋と、そもそも頻度自体が極めて少なかった日本では比較すること自体が困難なものかもしれません。とはいえ、もし記述のように西洋と日本でキスの仕方に明確な違いがあるようであればとても興味深い事ですので取り上げる価値はあると思いました。

 なお、西洋諸国でもキス事情は一律ではなかったようで、イギリスではあまりされなくなったという記述がある一方で、ヨーロッパの中で最もキスがされているのはロシアという記述も見つかり、何となくキスと言えばフランスというイメージがあったのでロシアで最も盛んというのは意外でした。
有難いことには英國でもチヤーレス二世の頃から佛蘭西(フランス)風と云ふのが流行して貴夫人令嬢などに無暗に接吻するのは宜しくない其節は通常よりズツと頭を下げ離れて居て優しく禮(れい)とした方が接吻よりは却て見好いと云ふことになつて今では其方が禮になつて居るやうである

暮鴉散士 『七月来!』 1898年 以文館 pp.37-38

<チャールズ2世>

チャールズ2世(英語: Charles II, 1630年5月29日 - 1685年2月6日)は、王政復古期ステュアート朝のイングランド、スコットランド、アイルランドの王(在位:1660年5月29日 - 1685年2月6日)。

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チャールズ2世 (イングランド王)
キスの盛んに行はるる歐羅巴人の中でも、露西亞人ほど盛んにキスをやるものはない。否、キスをやると云へば権利の側に屬(ぞく)するやうであるが、露西亞では或場合男子必然の義務としてキスを行はなければならぬ場合が尠(すくな)くない。

大庭柯公 『露西亜に遊びて』 1917年 大阪屋号書店 p.140
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「挨拶で頬にキスするフランスでも地域によってやり方は様々」海外の反応

 
 この西洋のキスについてはドイツ人による研究もあることが当時の文献の中で紹介されており、そこではキスを「愛」「親密」「平和」「謝罪」「尊敬」「謙遜」の六種類に分類してそれ以外のキスは存在しないとしていました。本当に六種類しか存在しないかは人によって意見が分かれるところだと思いますが、当時のキス事情が垣間見れるものではないかと思います。
獨逸國フレスラウ高等學校教授テオドールシブス氏は、近來種々の方面より接吻に關して、研究し居れり、而して同氏が印度ゲルマンの文明國民の間に行はるる接吻の調査を爲したるに、接吻の種類には愛の接吻、親密の接吻、平和の接吻、謝罪の接吻、尊敬の接吻、謙遜の接吻等ありて、此外の場合に接吻の行はるる事なしと、

小林秋子編 『世界の婦人』 1904年 現代社 p.43


<ヴロツワフ>

1740年 - 1748年のオーストリア継承戦争の結果、プロイセン王国の領土となる。1945年まではドイツの一部であったが、同国の第二次世界大戦敗戦に伴い、ヴロツワフはポーランド領となった。

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ヴロツワフ

 なお、この記述中の「フレスラウ」は「Breslau」のことで、「テオドールシブス」は「Theodor Siebs」のことだと思われます。
 関連:https://en.wikipedia.org/wiki/Theodor_Siebs




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「初めて西洋人の歌声を聞いた日本人の感想『犬の遠吠えに似てる』」(明治時代の海外旅行記:正木照蔵『漫遊雑録』)


  こちらは日本郵船の社員だった正木照蔵が明治33年(1900年)に欧米各国を訪れたときの旅行記(『漫遊雑録』)で、興味深かった記述や当時の社会の様子が窺える記述を取り上げた記事です。

 なお、引用箇所の一部には現代の基準だとあまり良くない表現がある場合もありますが、歴史的記述であることを尊重し一切手を加えていません。


<正木照蔵>

1862-1924 明治-大正時代の政治家。
文久2年7月生まれ。兵庫県会議員,報知新聞記者をへて日本郵船に入社,外航課長などをつとめる。大正6年衆議院議員(当選2回,憲政会)。

正木照蔵

参考文献:正木照蔵 『漫遊雑録』 1901年 正木照蔵
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明治時代の海外旅行記で面白かったところのまとめ




●日本と西洋の歌についての記述です。
社長と川田氏とは豫て觀世流の謡曲に堪能なれば一夕其中に加りて二人にて松風の一節を謡へり、

全く西洋の樂譜とは流違ひ、調子違ひの謡曲なれば、其聲(こえ)の抑揚高低、彼等の耳には變(へん)に聞ゆると見え彼處の隅、此處の隅よりクス々々と笑聲漏れ出し中にも二三の婦人達は手巾(ハンカチ)にて顔を覆ひ、禁ゑ兼たる様なりしも可笑かりき、是れ固(もと)より謡ふ者の罪にあらず、聽く者の解さざるに因るのみ

例へば我邦人が始めて西洋人の謡ふ聲を聞き犬の遠吠に似たりと評し去りたると一般なり

正木照蔵 『漫遊雑録』 1901年 正木照蔵 p.10

【要約】
 船の中で開催された音楽会で、正木照蔵の同行者である日本郵船会社の社長の近藤廉平と社員の川田氏の二人が能の「松風」を歌ったところ、日本の歌に慣れていない西洋人には変に聞こえて笑い声が起きたことについて、正木照蔵がこれは聞く者が慣れていないためであるとして日本人が初めて西欧人の歌声を聞いたときに「犬の遠吠えのようだ」と思ったことを紹介しています。

【備考】
 能については知識がなく「松風」がどういう作品なのか詳しく知らなかったのですが、在原行平の歌を元にした作品とのことです。
この作品は、もともと田楽の役者である喜阿弥(きあみ:亀阿弥とも)が作った「汐汲」という能を、観阿弥が「松風村雨」という曲に改作したものを、世阿弥がさらに手を入れた秋の季節曲です。昔から、「熊野(ゆや)松風は(に)米の飯」(三度のご飯と同じくらい飽きのこないことのたとえ)と言われるほどで、春の季節曲である熊野と並び、非常に高い人気があります。

松風(まつかぜ)

※関連動画
キャプチャ
https://www.youtube.com/watch?v=BV_k08xkOfE

 真剣に歌っている人を笑うという記述は読んでいてあまり気持ちの良いものではありませんが、能を全く聞いたことがない西洋人がいきなりこれを聞いて思わず笑ってしまうというのもある程度は理解できますし、これは西洋人に限ったことではなく、西洋人の歌を初めて聞いた当時の日本人も同じように大笑いしたという記述を見かけます。

 例えばバジル・ホール・チェンバレンは「日本事物誌2」の中でイタリアの歌劇団が日本で公演をした時の様子について次のように記述しています。
ところが、日本の観客に与えた驚きは大変なものであった!彼らが一度ショックから立ち直ったとき、プリマドンナ(主役女性歌手)の歌う甲高い声を聞いて、わっと爆笑した。彼女は実際は決して下手ではなかったのだ。人びとは腹の皮が○(よじ)れ、涙が頬を伝って落ちるまで、ヨーロッパ人の歌い方の馬鹿馬鹿しさを笑った。彼らは袖で口を隠し(われわれならばハンケチで口を押えるところだが)、無理に笑いを耐えようとした。もちろん、このような試み[歌劇公演]は繰り返されることはなかった。

バジル・ホール・チェンバレン 『日本事物誌2』 1974年 平凡社 p.254

※「○(よじ)れ」の部分は「捩れ」ではなく以下のような漢字でした。IMEパッドで手書き入力したところ一番近い漢字は「綟」でしたが細かい部分が違っているので、ここでは「○(よじ)れ」と表記しています。
キャプチャ

 どちらに対しても歌が笑われたことについては気の毒に思ってしまいますが、当時まだ西洋と日本の歌がお互いに全く異質な物だった中では「笑う」というのがお互いに対する正直な反応だったのかもしれません。

 記述の後半での西洋人の歌が「犬の遠吠に似たり」という日本人の感想も実に素直すぎる感想で思わず微笑してしまったのですが、おそらくこれは日本人が西洋のオペラを初めて聞いた時の感想なのでそのような感想も十分理解できる範疇ではないかと思います。

 なお、このようなことは歌に限ったことではなく演劇に関しても同様で、明治14年(1881年)に来日したフランス人のエドモン・コトーは日本の芝居について西洋人の視点から次のように言及しています。
不自然な所作、悲劇的場面においてとる捩れた姿勢等々は他国では爆笑をひき起こしかねないが、日本の観衆はこれを眺め言葉に聞き入ってあきることがない。彼らの眼からみれば普通の人のように振舞わないことこそが、主人公の主人公たるゆえんらしい。

エドモン・コトー 『ボンジュールジャポン 青い目の見た文明開化』 1992年 新評論 pp.130-131


 尤も、馴染みがなかった音楽について全く理解できなかったという記述ばかりでもなく、1912年発刊の「巴里絵日記」などでは日本画家の橋本邦助がオペラ鑑賞の際、慣れていない西洋音楽について次のように言及している箇所があります。
西洋の音樂らしき音を聞く經驗の少ない僕には、實に珍らしく咸じた。ホリベルジヱーや、ムーランムージのドンガラ、ピーピーの音樂とは非常な差だ、僕は唯譯もなくうれしく咸じた。

歌劇が始まつたが、僕には何が何だかさつぱりわからない。しかし男も女も、音聲の立派なのには聞き惚れる。

橋本邦助 『巴里絵日記』 1912年 博文館 pp.116-117

 慣れていない西洋音楽についてこのような感想を持っていた日本人は当時の文献を読んでいてもなかなかいないので、この記述を読んだ時、かなり柔軟な感性を持っていた人なのではないかと率直に感じました。




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「イギリス船の船員による長崎港の評判」(明治時代の海外旅行記:正木照蔵『漫遊雑録』)


  こちらは日本郵船の社員だった正木照蔵が明治33年(1900年)に欧米各国を訪れたときの旅行記(『漫遊雑録』)で、興味深かった記述や当時の社会の様子が窺える記述を取り上げた記事です。

 なお、引用箇所の一部には現代の基準だとあまり良くない表現がある場合もありますが、歴史的記述であることを尊重し一切手を加えていません。


<正木照蔵>

1862-1924 明治-大正時代の政治家。
文久2年7月生まれ。兵庫県会議員,報知新聞記者をへて日本郵船に入社,外航課長などをつとめる。大正6年衆議院議員(当選2回,憲政会)。

正木照蔵

参考文献:正木照蔵 『漫遊雑録』 1901年 正木照蔵
関連記事
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明治時代の海外旅行記で面白かったところのまとめ




●イギリス船の船員による長崎港の評判についての記述です。
単に人足のみにて石炭を積入るるには世界中、此地ほど速かなる所なく之に亜(つ)くが日本の長崎なりとは船員間の公評なり

其方法は石炭艀を本船に横付となし其石炭を笟に入れて炭船に運び入るる迄なれども一時間に三百頓(トン)位は造作なく積得る由なり

笟は長崎にて用ゆるものよりは数倍大きくし従て長崎の如く一つの笊(ざる)を次から次へ順廻はしに廻はし送るにはあらず初めより一人にて一笊を運び往くなり

正木照蔵 『漫遊雑録』 1901年 正木照蔵 p.238

【要約】
 船に石炭を積み入れるスピードはポートサイドが世界第一で、長崎港はこれに次いで世界第二だとイギリス船の船員が評価していたという内容です。

【備考】
 正木照蔵が乗っていたのはイギリスに拠点を置く「彼阿會社」(P&O)の「ペニンシユラ號」(Peninsular)で、この記述がなされたのはエジプトのポートサイドにこの船が停泊していた時のことです。
 関連:P&O Cruises

※Peninsular(1888)
201310061857530.Peninsular 1888 Green

※「Peninsular(1888)」の詳細データ(PDF)
https://www.poheritage.com/Upload/Mimsy/Media/factsheet/94228PENINSULAR-1888pdf.pdf

※エジプト、ポートサイド
ポートサイド(アラビア語: بورسعيد‎、翻字:Būr Saʻīd)は、エジプトの北東部、地中海沿岸にある都市である。エジプトの首都カイロから北東に約200kmに位置し、人口は約50万人。ポートサイド県の県都。スエズ運河の北端にあたる。

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 当時の外国人船員による長崎港の評判が分かる記述ですが、当時の外国人による旅行記などでよく見かける長崎港についての評判はその景観の良さについての記述が大半なので、このような「石炭を積入」れるという視点からの評判というのは今まで見かけたことがなく、そういった意味からも興味深い内容でした。

 長崎港の景観の良さについて言及している記述は大変多いのですが、二つほど例を挙げると次のようなものがあります。
実際長崎入港の際、眼前に展開する景色ほど美しいものは、またとこの世界にあるまいと断言しても、あながち過褒ではあるまい。

カッテンディーケ 『長崎海軍伝習所の日々』 1973年 平凡社 p.9
われわれはすでに港の美しさについて多くのことを聞いていた。しかしわれわれの期待は、現実によってまったく凌駕された。

そしてわたしが世界を周遊したかぎりでは、けっして何か類似のものを見た覚えがない。リオ・デ・ジャネイロ、リスボン、コンスタンチノープル(イスタンブール)は世界でもっとも美しい三つの港として有名であり、わたしもこの見方に同感であった。

しかし長崎の港口は、これら三港のすべてにまさっている。まるで自然がロマンティックな美しさ、愛らしさ、それに壮大さに関して成就しうるすべてをここに就中したかのように思われる。そのうえ日本の技芸がたとえ無意識であっても、全体の調和を完成させている。

ラインホルト・ヴェルナー 『エルベ号艦長幕末記』 1990年 新人物往来社 p.24

 ラインホルト・ヴェルナーの記述からは長崎港の景観の良さが広く知られていたことや、彼自身の目で見てもそれが際立っていたことが分かりますが、実際に世界中の港を見て回った彼の言葉からはより説得力を感じます。

※明治時代の長崎港
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※現代の長崎港
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 当時のポートサイドがどのような場所と認識されていたのかを把握するために他の文献も読んでみましたが、例えば1903年に発刊された「英皇戴冠式参列渡英日録」ではポートサイドについて次のように記述されています。

 要約するとスエズ運河の開通によってそれまで寂れた村だったポートサイドが一躍交通の要衝となり石炭を船に供給する場所となったという内容で、石炭の積み入れが早い事や物価が非常に高いことなどにも言及されています。
ポートセツドハ埃及領にして亞弗利加の北東端に位し、元と沙漠中の一孤村に過ぎざりしが、蘇士運河の開通と同時に歐亞交通の要路と變じ、且つ來往の船舶に石炭其他の供給を爲すを以て、商業遂年隆盛に赴き、大廈高樓甍を竝べ海岸の光景頗る宏壯なりと雖も輻湊せる船舶は概ね石炭搭載の爲めにして、随て碇泊時間甚だ短く、又一般の物價極めて不廉なるは、同港將來の爲め遺憾なりと謂ふへし、獨り石炭積載法に至ては、其の敏捷なること他に匹儔を見ず、一時間百頓を積入るるは、極めて容易の事業なりといふ。

小笠原長生 『英皇戴冠式参列渡英日録』 1903年 軍事教育会

 この他、1904年発刊の「世界一周実記」でもポートサイドの石炭積み入れの早さに言及しているように、ポートサイドに関する記述では大体このことが書かれていることから当時かなり有名だったことが分かります。
此港世界有名の石炭積入港にして、殊に人夫が其事に熟し積入をなすの迅速なる他に比類を見ずといふ

井口丑二 『世界一周実記』 1904年 経済雑誌社 p.113

 1898年発刊の「欧洲再航録」でもポートサイドは石炭の積み入れが早いといったことが書かれていましたが、興味深かったのはこの記述ではポートサイドと比べると日本の下関、小樽、長崎等の港の石炭の積み入れのスピードは比較にならないとされている点でした。
石炭其他の供給は悉く茲處に仰がざるべからざるを以て、大船巨舶帆檣林立し黑煙天に漲り晝夜欵乃の聲を絶たず、故に年々歳々市民の富と増進して益々膨張しつつあるは疑ふべからざる事實なり、

聞く處に依れば毎年英國より輸入する石炭は凡三十五万噸の巨額にして、其東岸炭庫には石炭充滿して更に一個の炭山を築き、常に七八隻の滊船繋錨して盛に其陸揚しつつあるを觀る、而して下等労働者の如きは大概之に依て衣食するもの多きより、其積入方頗る瞬速にして一時間平均百噸なり、

之を我下ノ關小樽長崎等の地に比す(※)れば其遅速殆ど同日の論に非らず、豈驚くべきの至ならずや、

※「比すれば」の「す」は、「す」の変体仮名でした。

坂本喜久吉 『欧洲再航録』 1898年 東京堂 pp.139-140

 此の点興味深かったのでより詳しく調べてみたのですが、ポートサイドと長崎港の石炭の積み入れの早さの違いというピンポイントな言及をしている参考文献が見つからず詳細は残念ながら不明でした。

 ただイギリス船舶の船員が石炭の積み入れの早さで大変有名だったポートサイドの次に、世界中の港の中からあえて長崎港を選んでいたことを考慮すると、長崎港の石炭の積み入れの早さも客観的に見れば十分に早いものだった可能性の方が高いのではないでしょうか。




キャプチャ

プリンセス・クルーズ(Princess Cruises)は、アメリカのサンタクラリタに本社を置くクルーズ会社である。以前はP&O Princess Cruisesの子会社であった同社は現在、世界最大のクルーズ船運航会社であるカーニバル・コーポレーションの傘下である。

プリンセス・クルーズ


 新型コロナウイルスの集団感染が発生したクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」などの運営会社は12日、全てのクルーズ船の運航を60日間停止すると発表した。新型ウイルスの感染拡大が続く中、乗員・乗客の安全を確保しながら運航を継続するのは困難と判断した。

 この運営会社は米旅行大手カーニバル傘下のプリンセス・クルーズ。保有する18隻のクルーズ船の運航を5月10日まで停止する。ジャン・シュワルツ社長は「われわれの会社の歴史の中で最も難しい決断だった」と説明した。

クルーズ船運営会社、全運航を停止 新型コロナ拡大で2カ月間 2020年03月12日

「ベルリン大学と早稲田大学の学生の気風は似ている」(明治時代の海外旅行記:建部遯吾『西遊漫筆』)


  こちらは明治時代の社会学者だった建部遯吾が、明治31年(1898年)から三年間官命によって海外留学をした時の滞在記/旅行記(『西遊漫筆』)で、興味深かった記述や当時の社会の様子が窺える記述を取り上げた記事です。

 なお、引用箇所の一部には現代の基準だとあまり良くない表現がある場合もありますが、歴史的記述であることを尊重し一切手を加えていません。


<建部遯吾>

建部 遯吾(たけべ とんご、明治4年3月21日(1871年5月10日) - 昭和20年(1945年)2月18日)は、社会学者、東京帝国大学教授、政治家。

新潟県蒲原郡横越村(現新潟市江南区横越中央)出身。1896年帝国大学文科大学哲学科卒。翌年から講師として母校の社会学講座を担当、1898年ヨーロッパ留学、留学中1900年助教授に任ぜられ、1901年帰国してただちに東京帝大教授。帝大社会学講座の初代担当教授として長く建部時代を築いた。



参考文献:建部遯吾 『西遊漫筆』 1902年 哲学書院


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●ベルリン大学と早稲田大学の学生の気風が似ているという記述です。
伯林(ベルリン)大學學生の風は、概して遊情なり、恰(あたか)も我早稲田、法學院と見て適當ならむ、濟生學舍は少々酷なるべし、到底我大學高等中學等に比すべくもあらず、彼等は始めて校規等の束縛を免れ、一人前の男として學會(がっかい)に立つ者故、大學學生期を尤も氣樂なる時期と思做(おもいな)す、乃ち麥酒(ビール)を飲み、歌を唱ひ、皆倶樂部組合を有し、決闘を行ひ、學業は第二の事と爲る、

建部遯吾 『西遊漫筆』 1902年 哲学書院 p.191


<済生学舎>

明治期の私立医学校の一。1876年(明治9)長谷川泰により創設。多くの開業医を出したが、1900年専門学校令の公布に際し廃校。


【要約】
 ベルリン大学の学生が日本の早稲田大学(法学院)の学生と気風が似ており、大学生活という人生の春を謳歌しているという内容です。

【備考】
 当時の「ベルリン大学」は創立時の名称が「フリードリヒ・ヴィルヘルム大学」で、第二次世界大戦後に分裂して西ドイツでは「ベルリン自由大学」、東ベルリンでは「フンボルト大学」となっています。この記事では「ベルリン大学」と呼称しています。
ベルリン・フンボルト大学(Humboldt-Universität zu Berlin)は、ドイツの首都ベルリンに位置する国立の総合大学の一つ。

プロイセン王国に1810年、教育改革者で言語学者のヴィルヘルム・フォン・フンボルトによってフリードリヒ・ヴィルヘルム大学 (Friedrich-Wilhelms-Universität) として創立された。ベルリンでは最も古い大学とされるが、実際には第二次世界大戦後に西ドイツ側でベルリン自由大学がフリードリヒ・ヴィルヘルム大学の伝統を分裂継承した経緯がある。東ドイツ支配下でフンボルト大学と改称され、ドイツ再統一後に現称となった。


※1900年頃のベルリン大学(フリードリヒ・ヴィルヘルム大学)
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 この記述でベルリン大学の学生が自由を謳歌しているとされているのは結構意外で印象に残りました。この記述だと単に大学生活を謳歌していたという感じなのですが「西遊漫筆」では他の記述で次のような言及もあり随分と放蕩なイメージです。
聽講に出席するは、講義の始と終と、即ち教授の署名を臺帳(だいちょう)に受くるの時にして、不熱心者は平生必すしも出席せず

建部遯吾 『西遊漫筆』 1902年 哲学書院 p.192
小生も聴講致候「ワグ子ル」教授の経済学などは、学期の始めには六百余人の聴講ありしが、学期の半に至りては漸く百人を数へ得たるに過ぎざりし事に候、

建部遯吾 『西遊漫筆』 1902年 哲学書院 p.221

 講義で出席が取られる場合だけ出席したり、最初は600人いた講義が学期の半ばには100人程度まで減ってしまうといった記述で、なにやら現代日本の一部の大学生の様子を髣髴とさせる内容ですが、仮に当時のベルリン大学が全体的にこういう雰囲気であったのであれば、これまで個人的に持っていた当時のドイツの大学に対するイメージが結構変わってしまいそうです。

 というのも、先日取り上げた三上久満三の「欧米新旅行」で次のような記述があるように、ドイツは研究に力を入れていて、イギリスは人格修養に力を入れているという記述を当時の旅行記を中心とする文献では見かけることが多いため当時のドイツの大学は厳しそうというイメージが先行していました。
獨逸(ドイツ)の大學(だいがく)は學術の硏究所であつて、人格とか品格とか云ふことは大學の關(かかわ)り知らぬ所である。

是に反して英國の大學――主としてケンブリツチ、オクスホルド兩(りょう)大學を云ふ――は其目的とする所國士を養成するにあつて、學問の研究と同時に、大に徳義の修養に意を用ゐるのである。

三上久満三 『欧米新旅行』 1908年 精華堂書店 pp.28-29

 果たしてベルリン大学が全体的にそうだったのか、またドイツの大学は当時どこもそんな感じだったのかが気になり、他の文献でも言及されていないか調べてみたのですが、1903年発刊の「欧洲学生の生活」ではドイツの大学生について次のように言及されていました。
初等より中等教育に至る間の學生は、その風習及び境遇等に依つて、極めて圓滿(えんまん)に發達しつつあるのであるが、足一度(ひとた)び大學に入れば、之等の性情頓(と)みに一變(いっぺん)して、又往年の俤(おもかげ)なきに至る

(中略)

彼等が尤も秩序なき生活を送つて、自放自恣の狀態に陥りつつあるのである、言ひ換へれば、その境遇の極めて自由なる所から、單に、籍を大學に置くのみにて、居常多くは自堕落なる生活を送りつつあるのである、勿論、千百の學生、悉く之を以つて目することは出來ないのであるが、その多くは、滔々としてこの弊風に陥りつつあるのである。

建部遯吾 『欧洲学生の生活』 1903年 文光堂 p.118-121

 大学に入学するとそれまでの窮屈な学生生活から解放されるため自堕落な生活をおくる学生が多いといったような内容で、これを踏まえると建部遯吾のベルリン大学についての記述は一個人の意見というよりは実情を反映したものと考えていいのかもしれません。

 さて、このようなベルリン大学と比較された早稲田大学(法学院)ですので調べる前から、当時の早稲田大学の様子が何となくイメージ出来てしまえそうです。建部遯吾がここでベルリン大学を自身の出身大学である東京帝国大学と比較せず、あえてここで「早稲田大学」と言及しているのはそれだけ当時の早稲田大学にそのようなイメージがあったのかもしれません。

 当時の早稲田大学はどんな気風だったのかを調べるため、当時の文献を色々読んで見ましたが残念ならドンピシャな文献には巡り合えませんでした。ただ1909年に発刊された「東都游学学校評判記」では早稲田大学が「東京専門学校」から改名されて以降の学風について次のように言及していてなかなか興味深かったです。
質素、剛健、蠻骨、などあらゆる要素を一丸とした外に、何物をも含んでゐなかつた早稲田學風は此以後、機智才気、輕薄等の分子をも混ずるに至つたのだ。

河岡潮風 『東都游学学校評判記』 1909年 博文館 p.73




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「日本人がイギリスを訪れたときに最も不便に思うこと」(明治時代の海外旅行記:小泉精三『東へ東へ』)


 こちらは明治35年(1902年)に欧米各国を旅行した小泉精三の旅行記(『東へ東へ』)で、興味深かった記述や当時の社会の様子が窺える記述を取り上げた記事です。

 なお、引用箇所の一部には現代の基準だとあまり良くない表現がある場合もありますが、歴史的記述であることを尊重し一切手を加えていません。


参考文献:小泉精三 『東へ東へ』 1908年 東京堂


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明治時代の海外旅行記で面白かったところのまとめ




●イギリスの通貨が不便なことについての記述です。
英國に入ると同時に第一不便を咸ずるは貨幣の複雑なることである。文明諸國の貨幣制度は何れも十進法で計算が仕易いが、英國は數(すう)百年來其制度を改めず、十二片、一志、二十志、一鎊(凡十圓)であるから其勘定が甚だ志惡くい、其れに一鎊をソベレン、五志をクラウン、二志をフロリン、四分の一片をフアージングと呼び、其上通貨なくして計算丈(だけ)に屡(しばしば)用ゐらるる。ギニー(二十一志)なる名稱があるから愈々(いよいよ)混雑する、例へばクラウン一枚で二志半の切手十五枚買ふ場合の如き慣れるまでは殆んど困難を咸ずるのである。

小泉精三 『東へ東へ』 1908年 東京堂 p.120


※「片」は「ペンス」、「志」は「シリング」、「鎊」は「ポンド」のことです。

【要約】
 イギリスを訪れてまず不便に思うのが貨幣制度に12進法や20進法が利用されていることで、額によって呼称も異なるために慣れるまで大変という内容です。

【備考】
 イギリスの通貨は元々10進法ではなく、12進法や20進法が使われていたため、1ポンドが20シリングで、20シリングが240ペンスという扱いになっていました。

 これが10進法に統一されたのは1971年2月15日(Decimal Day)のことなので、制度が切り替わってから比較的日が浅いものになっています。
1971年の十進法導入以前には、12ペンス(「12d」と表記)が1シリング(「1s」ないし「1/-」と表記)をなし、20シリングが1ポンド(ポンド記号£を用いて「£1」と表記するが、しばしば大文字のLを代用して「L1」とする)となっていた。したがって、1ポンドは240ペンスに相当した。表記の際は、例えば2ポンド14シリング5ペンスは「£2 14s 5d」と記された。

イギリスの紙幣と硬貨の一覧

 そのためかイギリスの年配者の中には現在でも12進法等で貨幣を計算する人が一定数存在するそうで、以前このサイトでアップした記事でもそのことについて触れられているものがありました。
Comment by Astafel 10.3k ポイント

通貨制度は魔法界のお金だから意図的にヘンテコな感じにしているのかと思ってたけど

あれ、10進法化される前のイギリスの通貨が元ネタだったんだな。
https://en.wikipedia.org/wiki/Coins_of_the_pound_sterling#Pre-decimal_coinage

 Comment by just_some_guy65 18 ポイント

 ↑君信じられないだろうけど、うちらの親世代でその十進法になる前の通貨制度の方が分かりやすいと考える人かなり多いよ。

 そっちの方が良いという時は大抵分割しやすいからってのが根拠。まるでそれが重大かのような感じで言ってくる。

  Comment by Tar_alcaran 2 ポイント

  ↑「それ旧通貨だといくら?」

  これほんとクソ。
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 ちなみに上記の記事では翻訳していなかったのですが、この話題の中で10進法に変更されたのはヨーロッパ経済共同体に合わせるためにされたものだったのでBrexit以降イギリスでは以前のシステムに戻そうという提案がされているというコメントなどもありました。ちなみにそのコメントを書き込んだ人は今更12進法の計算方法を勉強したくないと嫌がっていました。
 ソース:https://www.reddit.com/r/AskReddit/comments/davawc/what_in_harry_potter_did_you_think_was_magic_but/


 このイギリスの貨幣の仕組みが不便だというのは小泉精三以外の日本人もよく触れていることで、例えば以前記事で取り上げた時には引用していませんでしたが、川田鉄弥の「欧米遊記」でもそのことについて言及しています。
この國にまゐつて、不便に咸じたのは、十進法に基かない貨幣制度である。

御存じの如く、英國では、十二片一志一鎊の定めて、其外、一鎊をソベレン、五志をクラウン、二志をフロリン、五分の一片をフアージング、二十一志を一ギニーなど稱へる。

しかし買物などの時は、大概の店は、志で、代價を申して呉れるから、著しい不便も咸じない、

川田鉄弥 『欧米遊記』 1908年 高千穂学校 pp.111-112
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 12進法での計算というのは一見煩雑なように見えますが、何かを分割するためには便利であるというのがメリットとしてよく挙げられる点です。

 それは具体的に言えば10よりも12の方が約数が多いという点にあり、10の場合の約数は「1,2,5,10」の四つしかありませんが、12の場合は約数が「1,2,3,4,6,12」と六つあるため10進法よりも12進法の方が分割するときに役立ちます。

 この10進法と12進法の話に関連して、寺田寅彦は「自由画稿」という随筆の中で干支の話を中心に書き綴っているのですが、当時の干支に対する考えの一端が分かる随筆なので興味を持たれた方にはお勧めです(文量は少なめです)
去年が「甲戌」すなわち「木の兄の犬の年」であったからことしは「乙亥」で「木の弟の猪の年」になる勘定である。こういう昔ふうな年の数え方は今ではてんで相手にしない人が多い。モダーンな日記帳にはその年の干支など省略してあるのもあるくらいである。

(中略)

十と十二の最小公倍数は六十であるから十干十二支の組み合わせは六十年で一週期となる。この数は二、三、四、五、六のどれでも割り切れるから、一年おきの行事でも、三年に一度の万国会議でも、四年に一度のオリンピアードでも、五年六年に一度の祭礼でも六十年たてばみんな最初の歩調をとり返すのである。その六十年はまたほぼ人間の一週期になるのである。

寺田寅彦 『寺田寅彦随筆集 第五巻』 1992年 岩波書店 p.106

 ちなみに記述中の「1ポンド=10円」について、一応確かめる目的で他の文献も色々読んでみたのですが、1902年発刊の「女子算術教科書 上巻」では1ポンドが「9,733圓」と表記されていて、小数点に「,」が使われていたことの方に関心が向きました。
(長谷川一興、松永孫三 『女子算術教科書 上巻』 1902年 田沼書店 p.147)

 当時の算数や数学の教科書などでは大体今と同じく「.」が小数点と使われていましたが、時折上記の様に「,」を小数点として使っている書籍も見かけ興味深かったです。

 現代でも国によって「.」と「,」のどちらかを使用するかは違っているので、海外掲示板を覗いているときにコメント内で「,」を使っている人がいると、その人が国名に言及していなくてもコメントの内容やその他の文章の特徴でどこの国の人かなんとなく推測できることがあります。

※青:小数点がドット、薄緑:小数点がカンマ、緑:両方を使用
800px-DecimalSeparator.svg


 現代でも時間表記には当然のように12進法が使われていますが、おそらくは通貨に12進法や20進法を使用していたイギリス人もこのように当然に使用していてそこに疑問を呈することもほとんどなかったのではないでしょうか。

 もし時代が経過して時間計算に10進法が導入された場合、その頃の人たちは現在の時間表記を見て「ややこしい表記をしているな」と感じたりするかもしれません。




キャプチャ


「イギリス人は溺れた人を助けるのにも『紹介』が必要」(明治時代の海外旅行記:杉村楚人冠『半球周遊』)


  こちらは明治時代の新聞記者だった杉村楚人冠(杉村廣太郎)が明治41年(1908年)に「朝日新聞主催世界一周會附特派員」として欧米各国を訪れたときの旅行記(『半球周遊』)で、興味深かった記述や当時の社会の様子が窺える記述を取り上げた記事です。

 なお、引用箇所の一部には現代の基準だとあまり良くない表現がある場合もありますが、歴史的記述であることを尊重し一切手を加えていません。


<杉村楚人冠>

杉村 楚人冠(すぎむら そじんかん、明治5年7月25日(1872年8月28日) - 昭和20年(1945年)10月3日)は、新聞記者、随筆家、俳人である。本名は杉村 廣太郎(すぎむら こうたろう)。

杉村楚人冠


参考文献:杉村楚人冠 『半球周遊』 1909年 有楽社


※先日、読者の方から「1冊1記事」ではなく「1テーマ1記事」にしてほしいという要望を受け、ツイッター上でアンケートを取ったところ70%で「1テーマ1記事」が支持されたのでこの記事から実験的にその形式にしています。(ツイッターでのアンケートのご協力ありがとうございました!)
https://twitter.com/drazuli/status/1272825038161362944
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明治時代の海外旅行記で面白かったところのまとめ




●こちらはイギリス人にとって紹介が重要であることについて触れている記述です。
古い話に誰かが水に溺れかけて居た所を、一向平氣で見て居る人があるから、なぜ助けに行かぬかと問ふたらば、いやまたあの人と紹介が濟(す)んで居ないのだと、答へたといふことがある。馬鹿々々しい話だが、之も英吉利(イギリス)の儀式だから仕方がないと、心よげに笑つた。

杉村楚人冠 『半球周遊』 1909年 有楽社 p.168

【要約】
 昔の話で、溺れている人を見ているだけの人になぜ助けないかと尋ねたところ「(溺れている人を)まだ紹介されていないから」と返ってきたというのがあり、これは馬鹿げてはいるもののイギリスの儀礼であるため仕方ないとイギリス人が言っている内容です。

【備考】
 これは杉村楚人冠がイギリスで出会った年配のイギリス人男性から聞いた話で、おそらくこれはイギリスにおける紹介の重要さを誇張して冗談にしたものではあると思いますが、当時のイギリスで紹介がどれほど重要だったかを物語るもの話でもあり興味深い記述でした。

 これは特にイギリスに限定されていたものではなく、当時の西洋諸国では紹介の役割が重視されていることが窺える記述をちらほら見かけます。

 例えば、先日取り上げた「外遊九年」でも、記事では紹介しませんでしたが紹介に関して次のような記述があります。こちらの記述における「紹介」は交友全般についてのことではなく男女交遊に限定したものではありますが、当時のアメリカ合衆国では交友全般で紹介が重要だったということは他の文献においても言及されています。
米國では、互に知らぬ男女の間では、どちらからでも、他の然るべき人の紹介なしに談話することを許さぬ。

田村哲 『外遊九年』 1908年 目黒書店 pp.126-127
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 海外掲示板を見ていると北欧では積極的に交友関係を築こうとしないことがよくネタにされていて、そこでアメリカ人が北欧人にどうやって新しい友達を作るのか質問し、それに対して北欧人が友達の紹介によって新しい友人を作ると返すのが定番のやり取りのような感じになっていますが、かつてはアメリカ合衆国でも男女関係はそんな感じだったというのは時代の流れを感じることが出来て面白いです。


 このような紹介、もしくは紹介状の重要性については当時西洋を旅行した日本人が時折触れていることであって、江戸/明治時代に来日した西洋人も日本における紹介の役割について言及していることがままあります。

 結論から言ってしまうと日本人の場合は西洋諸国での紹介/紹介状がもつ影響の強さに驚いていて、西洋人の場合は日本では紹介/紹介状が大した効力を持たないことに驚いているというものが大半です。

 日本人が西洋諸国での紹介状の効力を目の当たりにした例だと、1926年に発刊された「欧米素描」の中で、アメリカ合衆国とイギリスにおける紹介状の持つ効力について次のように述べられています。大体以下のように西洋諸国全般で紹介状の持つ効力は強いとされていて、その中でも特にイギリスでは効果があるとする記述が多いです。
亞米利加では學校や研究所はもとより個人を訪問する際にも、別に紹介狀を持参せずとも心よく見せてくれもし會(あ)ってくれもするが、それでも紹介狀を持つて行つた方がよりことはいふまでもない。若しそれ英國に至つては、紹介狀の効力頗る大なるものがある。

世界第一の植物園と推稱されるロンドンのキューガーヅンを見に行つた時のことである。門衛にここの園長ヒル博士の居る所はどの邊(へん)かと尋ねると、君はそれを聞いてどうするつもりかと詰るやうにいふ。園長に會ひたいのだといふと、君はあひたくても先方で會はないから行つても無駄であると、聊(いささ)か輕蔑の色さへ見せる。

面倒だから持参してゐたシカゴ大學の〇エンバレーン博士からもらつた紹介狀を見せるとちよつと讀(よ)んで見て、ああこれがあつたのか、それなら大丈夫あつてくれるといつて、態々地圖(ちず)を示し細々とていねいに教へてくれる態度の激變(げきへん)、それは幾分滑稽と感ずるくらゐであつた。

※〇の部分は判読不可能でした。
※追記:読者の方からこちら「Rollin Thomas Chamberlin教授」ではないかというご指摘を頂きました。ご指摘ありがとうございます。

太田順治 『欧米素描』 1926年 培風館 pp.156-157


<キューガーデン>

キューガーデン(Kew Gardens)はイギリスの首都ロンドン南西部のキューにある王立植物園。キュー植物園などとも呼ばれる。1759年に宮殿併設の庭園として始まり、今では世界で最も有名な植物園として膨大な資料を有している。

800px-Kew_Gardens_Palm_House,_London_-_July_2009



 日本を訪れた西洋人の場合は逆に、日本で紹介状が大した効力を持たないことに驚いている記述が多いのですが、例えばポンティングは「英国特派員の明治紀行」の中でイギリスと日本では紹介状によって可能になることが違っていることについて述べています。
はるばる日本を訪れる旅人は、日本人の家庭の生活を、開放された状態で見られることを期待してはいけない。英国を訪れる日本人は、ちゃんとした紹介状を持っていれば、新しい知り合いの一家団欒の中に迎えられて、打ち解けたもてなしを受けることだろう。そして一家中のすべての者が遠来の客を喜ばせようとあらゆる努力をする。そういう訪問が一わたり済むと、東方の国からの旅行者は英国の婦人の家庭生活について、帰国してから一文を草する資格十分となるだろう。

しかし紹介状を持って日本人を訪ねてきた西洋人の場合は全く異なる。期待できるのは大抵どこかのクラブへ招かれるだけで、恐らく芸者の踊りを余興にした日本式の晩餐会が、例えば芝の紅葉館で開かれるだろう。例外として主人側の屋敷や庭を見に招かれることがあるかもしれない。その場合、夫人や令嬢が顔を見せるのはさらに例外的なことに属する。しかし主人側の屋敷に滞在するよう勧められて、暫くの間でも家族の一員のように暮すなどということは、万が一にもないだろう。

H・G・ポンティング 『英国特派員の明治紀行』 1988年 新人物往来社 pp.166-167

 ドイツ人のブル-ノ・タウトも以下のように日本では紹介状に効力が無いことい触れていますが、このように日本と西洋では紹介状の持つ効力が違うことは日本人、西洋人それぞれの目についたようでそれに触れている記述は頻繁にというほどではありませんが、そこそこ見かけます。
私は、群馬県知事から秋田県知事宛の紹介状に、私の名刺を添えて差出したのであるが、それは一向に効き目がなかった。午後に、知事から何かの便宜でも与えられるかと思って宿で訊ねてみたが、なんの連絡もないという。

ドイツで地方長官が自分の同僚に日本人を個人的に紹介し、しかもこんな風に無効果だったとしたらどうだろう。あるいはまたこの知事さん自身に、今ドイツの一教授に加えられているような仕打がされたとしたらどうだろう。

ブル-ノ・タウト 『日本美の再発見』 2009年 岩波書店 p.91

 では、当時の日本人から見て日本における紹介状はどのような存在だったのかということが気になり調べてみたのですが、1907年発刊の「婦人の修養」や1918年発刊の「常識作法」での次のような記述を見る限りでは紹介状という物が、紹介者が真に信頼に値する人物を相手に紹介するという厳格なものではなかったような雰囲気を感じ取ることが出来ます。

何事も過渡時代の我國に於ては、始めて紹介せられし如何はしき人物より、他に紹介を強制せらるる事あり、眞に不都合の次第なり。

鳩山春子 『婦人の修養』 1907年 大日本女学会 p.117

經歷・性行等を熟知せざる人は、輕率に之を他人に紹介してはならぬ。我が國の習慣として、兎角、輕率に紹介を依頼する癖もあり、又、之を輕率に承諾する癖もある。爲めに、お互に迷惑な結果を来すやうなことが往々ある。

相島亀三郎 『常識作法』 1918年 東京宝文館 p.152

 当時の日本の紹介状に(西洋人視点で)それほど効力がなかったというのも、ひょっとしたらこういった土壌があったからかもしれません。




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イギリス商人「日本人の買物の仕方には『妙にひねくれた好み』がある」(明治時代の海外旅行記:杉村楚人冠『半球周遊』)


  こちらは明治時代の新聞記者だった杉村楚人冠(杉村廣太郎)が明治41年(1908年)に「朝日新聞主催世界一周會附特派員」として欧米各国を訪れたときの旅行記(『半球周遊』)で、興味深かった記述や当時の社会の様子が窺える記述を取り上げた記事です。

 なお、引用箇所の一部には現代の基準だとあまり良くない表現がある場合もありますが、歴史的記述であることを尊重し一切手を加えていません。


<杉村楚人冠>

杉村 楚人冠(すぎむら そじんかん、明治5年7月25日(1872年8月28日) - 昭和20年(1945年)10月3日)は、新聞記者、随筆家、俳人である。本名は杉村 廣太郎(すぎむら こうたろう)。

杉村楚人冠


参考文献:杉村楚人冠 『半球周遊』 1909年 有楽社


※先日、読者の方から「1冊1記事」ではなく「1テーマ1記事」にしてほしいという要望を受け、ツイッター上でアンケートを取ったところ70%で「1テーマ1記事」が支持されたのでこの記事から実験的にその形式にしています。(ツイッターでのアンケートのご協力ありがとうございました!)
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明治時代の海外旅行記で面白かったところのまとめ




●日本人の好みはイギリス人から見ると変わっているという記述です。
或日一周會(かい)の人々を連れて、寶石(ほうせき)商の店に買物に行つたことがある、買物の翌日此處の主人は四方八方(よもやま)の談(はなし)の次手(ついで)に盛(さかん)に日本人の趣味の高きを賞(ほ)めた。

『初(はじめ)は田舎のお客と侮つて、夫れに相應した品物が賣(う)れる積りで居たが、買ふ物も買ふ物も飾り氣のない淡泊な物ばかり、寶石入のピン一つと言つても、寶石は一つだけ入つたのよりは取らず、時計の鎖にしても簡単な物簡単な物と選る。夫で居て値段の張ることは一向厭はぬ。實(じつ)に妙にひねくれた好みを持つて居る。』と言つて笑つた。

其の時僕は、日本で普通羽織の表が木綿でも、裏には大抵絹地を使ふといふ話をしたら、主人は思はず之れある哉と言つた様な顔で、小膝を打つた。

杉村楚人冠 『半球周遊』 1909年 有楽社 p.153

【要約】
 イギリス人の宝石商が日本人は簡素な品物ばかり選ぶのに値段が高い事には頓着しない様子を見て「妙にひねくれた好み」をしていると述べ、杉村楚人冠がそれに対し日本人は表が木綿で裏が絹の羽織を着ると言ったところその宝石商から「なるほど!」と言われたという内容です。

【備考】
 前半部分も後半部分も現代の日本人が共感出来る部分は結構多いのではないでしょうか。

 何となくのイメージですが西洋人と比べると現代の日本人も割合簡素なものを好んでいて、宝石がゴテゴテと飾り付けられたものはどちらかというと悪趣味で成金的なイメージがあるような気がします。

 現代宝石店での売れ筋ランキングのようなものがあれば参考になるかと思いちょっと探してみましたが、残念ながら見つかりませんでした。もし宝石商のような人と知り合うことが出来たら日本人の好みの装飾品の傾向など是非聞いてみたいところです。

 また、後半部分の見た目は簡素でも実はしっかりした品物という点も結構日本人好みの様な印象を受けました。少なくとも見た目が派手ではあるものの質は良くないという品物との比較であったら前者を選ぶ日本人は多いのではないでしょうか。


 ただこの記述の場合、杉村楚人冠ら一行が訪れた店が宝石商であるという点もある程度考慮に入れておかないといけないかもしれません。明治時代の日本人は宝石というものにあまり関心を向けない傾向があったというような記述を眼にすることが多いからです。

 この「半球周遊」の中でも上記に先立って、杉村楚人冠は次のように述べていますが、ここからも当時の日本人が宝石という物に対してさほど価値を置いていなかったことが読み取れます。

西洋の女は能く數珠(じゅず)玉のやうなものを身體(からだ)一面につけてぎらぎらと光らせて歩くが、夫れが何で面白からうか。

日本でも貴婦人といふ手合には、衣物や襟に仰々しい寶石をちりばめて得意がつて居る者が大分出て來たが、斯ういふ貴婦人に限つて、多くは役者狂ひを事として居る奴原(やつばら)であるといふことを、僕は貴婦人の仲間中から聞いた。

杉村楚人冠 『半球周遊』 1909年 有楽社 p.152

 杉村楚人冠がこの時欧米を旅行したのは明治41年(1908)年で、明治の後半にもなると日本人の間でも大分宝石が流行し始めており、そのことは上記の「寶石をちりばめて得意がつて居る者が大分出て來た」という部分からも読み取れますが、幕末や明治の初めの頃だと日本人の宝石への関心の薄さは特に顕著で、当時来日した西洋人が日本人が宝石などに興味をほとんど示さないことに驚いている記述をよく見かけます。

 例えば、江戸/明治時代に来日したメイランやフィッシャーによる次のような記述からでも、当時の日本人の宝石に対する見方が窺えるのではないかと思います。

日本人たちには、我々が宝石と名付けているものについての概念がまったくない、というよりはむしろ、それに対してまったく何の価値も認めていないことは特異なことである。彼らの目の中では一片のガラスと磨かれたブリリアントカットのダイヤモンドの間に、何の違いもないのである。また宝石を装飾に用いるという習慣もほとんどないのである。

G・F・メイラン 『メイラン日本』 2002年 雄松堂出版 pp.114-115

西欧人にとって宝石に当たるものは、日本人にとっては金色漆塗りの製品である。宝石には日本人はたいして金を出そうとしないし、女性ですらあまり高く評価していない。(わたしは彼女たちのそうした考えは、たいへん価値あるものと思う)

アドルフ・フィッシャー 『明治日本印象記 オーストリア人の見た百年前の日本』 2001年 講談社 p.86




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「頑迷なイギリス人がシルクハット着用をやめた理由」(明治時代の海外旅行記:杉村楚人冠『半球周遊』)


  こちらは明治時代の新聞記者だった杉村楚人冠(杉村廣太郎)が明治41年(1908年)に「朝日新聞主催世界一周會附特派員」として欧米各国を訪れたときの旅行記(『半球周遊』)で、興味深かった記述や当時の社会の様子が窺える記述を取り上げた記事です。

 なお、引用箇所の一部には現代の基準だとあまり良くない表現がある場合もありますが、歴史的記述であることを尊重し一切手を加えていません。


<杉村楚人冠>

杉村 楚人冠(すぎむら そじんかん、明治5年7月25日(1872年8月28日) - 昭和20年(1945年)10月3日)は、新聞記者、随筆家、俳人である。本名は杉村 廣太郎(すぎむら こうたろう)。

杉村楚人冠


参考文献:杉村楚人冠 『半球周遊』 1909年 有楽社


※先日、読者の方から「1冊1記事」ではなく「1テーマ1記事」にしてほしいという要望を受け、ツイッター上でアンケートを取ったところ70%で「1テーマ1記事」が支持されたのでこの記事から実験的にその形式にしています。(ツイッターでのアンケートのご協力ありがとうございました!)
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明治時代の海外旅行記で面白かったところのまとめ




●イギリスでシルクハットが着用されなくなったという記述です。
本家本元の英吉利人は、物堅いと云はうか、頑冥と云はうか、何處までも舊來(きゅうらい)の慣習を守りつめる。苟も紳士と自稱(じしょう)する輩は、明けても暮れてもシルクハツトを頭から放さぬ。午後六時になれば、宅(うち)に居てもちやんと燕尾服を着る。白シヤツの胸を突出して大得意である。晝間(ひるま)は又決して燕尾服を着ないが、フロックコートを屹度(きっと)着て居る。

(中略)

とうとう又倫敦(ロンドン)に来た。やツ是れは稀代、滿街のシルクハットが何時消え失せたか影も形も無い。全(まる)で無いことも無いが、非常に尠(すくな)い。從つてフロックコートも從來九分有つたのが、一分位に減つた。そして其の缺(けつ)を補つたものは、モーニングコートにダービー(山高帽)だ。

(中略)

それにしても如何(どう)して此の頑固な英吉利人が其の大切な甲冑を脱いだか、不審で堪らぬ。

独り考へて見ても分らぬから、英吉利人に質問と出掛けたら、それは人間が道楽になつて、窮屈な風をすることを厭ふやうになつたからさと答へた。聞けば両三年前倫敦の夏が非常に暑くて、如何(いか)な英人もシルクハット、フロックコートを着て居られぬ事があつたさうで、其の時を境に此の甲冑を脱ぎ棄てた者が多いさうだ。

杉村楚人冠 『半球周遊』 1909年 有楽社 pp.142-145

【要約】
 伝統を墨守するイギリス人がシルクハットとフロックコートを着用しなくなっていることを不思議に思いイギリス人に理由を尋ねてみた所、二、三年前にロンドンの夏が酷暑となって脱ぎ捨てられて以降、そっちの方が面倒ではないのでそのようになったと言われたという内容です。


【備考】
 こちらの記述は杉村楚人冠によるものではなく、彼の同行者の一人である土屋元作による記述です。
土屋 元作(つちや もとさく、慶応2年6月3日(1866年7月14日) - 1932年(昭和7年)5月18日)は、戦前日本のジャーナリスト。豊後国日出藩出身。維新後東京、大阪の学校を転々とし、徳島県等に出仕した後、アメリカ合衆国に渡り、美術品の取引に関わった。帰国後時事新報、毎日新聞、朝日新聞等で記者を務め、渡米経験を活かして精力的に海外取材を行った。

1908年(明治41年)、1909年(明治42年)の2度世界一周旅行を行った。


 先日取り上げた川田鉄弥の「欧米遊記」で、当時のロンドンの風俗の変化が四つ挙げられていますが、その中でもこのシルクハットがあまり着用されなくなったことに言及されています。

 川田鉄弥が欧米を訪れたのも杉村楚人冠の一行と同じく明治41年(1908年)のことですが、その記述の中でもシルクハットが着用されなくなったのは「近時」とされているので、ちょうどこの頃イギリスからシルクハットやフロックコートが消えて行ったと考えて間違いないのではないかと思われます。

近時、其風俗が、以前に比べ、稍々(やや)移り変つたらしい。
(一)婦人の間に、喫煙の兆しあること、
(二)男女手を携へて、往来する風習減少せること、
(三)衛生上、接吻の害を説き、日本流のお辞儀を必ずしも非認せざること、
(四)シルクハツトを濫用せざることなどは、以前に比べ、著しい相違であるさうだ。

川田鉄弥 『欧米遊記』 1908年 高千穂学校 p.133
関連記事
「日本人とアメリカ人では散歩観が違っている etc」(明治時代の海外旅行記:『欧米遊記』)


 実際に写真で見ると変化が分かりやすいと思い、1890年/1900年/1905年/1910年/1920年のロンドンの写真を調べて以下に掲載しました。

◆1890年のロンドン
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◆1900年のロンドン
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◆1905年のロンドン
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◆1910年のロンドン
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◆1920年のロンドン
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キャプチャ
https://www.youtube.com/watch?v=tlEOEamaRiQ


 数枚程度の写真では当時の風俗の変化を追うのには不十分ではありますが、シルクハットが着用されているかどうか程度の判別であればここからでも十分に見て取れるのではないかと思います。

 特に1890年のロンドンの写真と1920年のロンドンの写真を比較すればシルクハットが着用されなくなっていることが一目瞭然となっています。

 1905年頃前後を境にシルクハットは少なくなっているもののまだ着用している人が少数いる事からも記述内で言及されているように丁度この頃がイギリスのファッションの変化の端境期だったのではないでしょうか。


 この頃にはイギリスではシルクハットやフロックコートは着用されなくなっていたようですが、当時の日本の書籍を読んでみると、むしろちょうどこの頃からシルクハットやフロックコートがよく使用されるようになっていたようで、例えば1913年に発刊された「現代礼儀作法図説」では次のように記述されています。

フロツクコート
紳士の小禮服とも見るべき服にして通常の訪問並に饗宴に際して着用す、我が國に於てはこの服の用ひらるる場合尤も多くして普通に袴羽織を着する場合にも今は大抵これを用ふるに至れり、即ち婚禮式葬儀、その他公私の集會には殆んど着用せざるは無き程なり、

近藤正一 『現代礼儀作法図説』 1913年 博文館 p.106

 内容を要約すると「最近の日本では大半の人が冠婚葬祭でフロックコートを着用している」といった感じになります。


 イギリスでは着用されなくなったシルクハットやフロックコートが、当時の日本では一般的になっていたため、1912年に発刊された「京城雑筆」では来日したイギリス人が日本で見た中で一番珍しいと思ったものに、イギリスではほとんど目にすることのなくなったシルクハットとフロックコートを挙げたという話が紹介されています。

近頃日本を歴遊して後朝鮮に来り、これから西比利亞線を經由して歸國せんとする或英國人に會つた時、日本と朝鮮とで見たものの中、何が一番珍しかつたか聞いた處、其答は頗る意外であつた、曰く絹帽子とフロックコート!

(中略)

が、其英人が呵々大笑して後眞面目になつて語るを聞けば成る程道理である、其の言ふ所によれば、絹帽子とフロックコートが、倫敦は元より欧米の諸都會では最早時代遅れの遺物となつて、之を見る場合は頗る稀である、然るに日本や朝鮮へ來て見ると盛にこれが著用されてある。然も其様式が甚だ多くて、時としては三四十年も前に流行した様式のものを著用して得々として居る人を見ることもある。

山県五十雄 『京城雑筆』 1912年 内外出版協会 pp.127-128

 本家本元のイギリスでは着用されなくなったシルクハットやフロックコートが、日本では流行していたというちょっとした面白話のようなものですが、インターネットが発達した現代であっても西洋で流行っていたものが日本で遅れて流行したり、逆に日本で流行ったものが西洋で遅れて流行していることは時折見かける事ではないかと思います。




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「アメリカと日本では散髪の仕方がかなり違ってる」(明治時代の海外旅行記:杉村楚人冠『半球周遊』)


  こちらは明治時代の新聞記者だった杉村楚人冠(杉村廣太郎)が明治41年(1908年)に「朝日新聞主催世界一周會附特派員」として欧米各国を訪れたときの旅行記(『半球周遊』)で、興味深かった記述や当時の社会の様子が窺える記述を取り上げた記事です。

 なお、引用箇所の一部には現代の基準だとあまり良くない表現がある場合もありますが、歴史的記述であることを尊重し一切手を加えていません。


<杉村楚人冠>

杉村 楚人冠(すぎむら そじんかん、明治5年7月25日(1872年8月28日) - 昭和20年(1945年)10月3日)は、新聞記者、随筆家、俳人である。本名は杉村 廣太郎(すぎむら こうたろう)。

杉村楚人冠


参考文献:杉村楚人冠 『半球周遊』 1909年 有楽社


※先日、読者の方から「1冊1記事」ではなく「1テーマ1記事」にしてほしいという要望を受け、ツイッター上でアンケートを取ったところ70%で「1テーマ1記事」が支持されたのでこの記事から実験的にその形式にしています。(ツイッターでのアンケートのご協力ありがとうございました!)
https://twitter.com/drazuli/status/1272825038161362944
関連記事
【宣伝】暇劇の同人誌(『幕末・明治期の西洋人が見た日本(絵画篇)』)が完成しました。
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明治時代の海外旅行記で面白かったところのまとめ




●日本とアメリカ合衆国の散髪の違いについての記述です
先づ頭から刈り始めた。ぢやきぢやきと十分もかからぬ内に、何時しか頭の方は濟んで仕舞ふ。日本なら早くて三十分はかかる所を、亞米利加だけに恐ろしい早い。その代りぞんざいなことも迚も比較にはならぬ。今度は顔を剃りにかかる。紫色のクリームを顔一面に引いて、忌といふ程刷毛で擦り廻すと、ねつとりとした細かい白い泡が顔中一杯になる。時分はよしと幅の廣い剃刀をあてて、じゆうじゆう刃音をたてながら剃り下す。之は二分間程で濟んだ。世界中何處へ行つても、日本程斬髪(ざんぱつ)の丁寧な所はないが、亞米利加ほど早い所も亦珍らしい。

杉村楚人冠 『半球周遊』 1909年 有楽社 pp.26-27

【要約】
 日本だと散髪は30分くらいかけて丁寧にされるのに対して、アメリカ合衆国だと10分もかからず散髪が終わってしまうという内容です。


【備考】
 「散髪」と比べると「斬髪」という単語からはなかなかのパワーを感じますが、明治時代にはどっちの言葉も使われていたようです。

 ただ、公文書などでは「散髪」が使われていたようなので、「斬髪」の方はより砕けた言葉だったのかもしれません。(例:外史局編纂 『明治四年 布告全書 八 明治辛未』 年 山中市兵衛)

 現代だと「散髪」の読み方は「さんぱつ」ですが、1873年に発刊された「童蒙心得草」や1879年に発刊された「今体必用報知用文」では、「散髪」に「ざんぎり/さんきり」とルビが振ってあるのを見つけました。

 明治時代の旅行記を読んでいるといつも感じる事なのですが、現代の感覚で漢字を読んでいると読み方が実は全然違っていて、後から気付いて焦ったりすることがよくあります。

 例えばこの「半球周遊」では別の箇所で「莞儞々々」という漢字が何度か出てきますがそこには「にこにこ」とルビが振られていました。

にっこりと笑うさま。ほほえむさま。「莞爾として笑う」


 以下は当時のアメリカ合衆国の散髪屋の様子です。

※1900年代のアメリカ合衆国の理髪店
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Rapp+Barber+Shop,+20's

※ニューヨークの理髪店の外観
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 散髪屋の内部の様子は、現代日本の散髪屋の様子とそこまで大きな違いはないと思いますが、一つ大きな違いを挙げるとすれば椅子の前に洗面台があるかどうかという点でしょうか。

 私はアメリカ合衆国で散髪屋を利用した経験がないので詳しいことは分からないのですが、現代のアメリカ合衆国の散髪屋の画像を調べる限りでは椅子の前に洗面台が無いところが多いようなので、洗面台があるかどうかというのは時代の違いというよりは国の違いによるものかもしれません。

 日本とアメリカ合衆国での散髪の違いについては1901年発刊の「米国漫遊雑記」でも言及があり、日本とは「剃る」「刈る」の使い方が違っていることについて触れられています。

米國では、剃るといへば唯だ顔や襟足を剃る丈けで、日本のやうに額や眉などの邊を剃らぬ、而して髪も洗はぬ、洗ふには又其の注文せねばならぬ、刈るといへば又頭髪を刈る丈けで、顔を剃りもせねば髪を洗ひもせぬ

松井広吉 『米国漫遊雑記』 1901年 博文館 pp.130-131

※ニューヨークの理髪店
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 記述内の「亞米利加だけに恐ろしい早い」という部分からは、アメリカ合衆国では散髪だけではなく物事一般が手早く済まされるというニュアンスを読み取ることが出来ますが、事実、当時の旅行記などを読んでいるとアメリカ人が物事を手早くすることについてよく言及されていて、更にはアメリカ人がそれを誇りにすら思っていたという記述に巡り合うことがあります。

 例えば、1920年に発刊された「戦後欧米見聞録」では、イギリス人が朝の身支度に三十分はかけているのに対して、アメリカ人が自分たちはそれを十分程度で終わらせるとよく自慢していることについて言及している記述があります。

多忙にして迅速を尚ぶ米人は身邊の修飾に頓着する邊なし、英國人は鏡に向ひて身裝を整うるに三十分を要すれど我々は朝起きて顔を洗ひ髪を梳り着物を着替へ了る迄十分間あれば足れりとは米人の屡誇らかに語る所なり、

近衛文麿 『戦後欧米見聞録』 1920年 外交時報社出版部 p.211


 理髪店の代名詞ともなっている赤青白のサインポールですが、1901年に発刊された「仏国風俗問答」ではフランスの散髪店について言及している中で「我國にも用ふるごとく赤白のねじり棒を出し、更に看板に散髪と記しあり」としていることから当時の日本でも既にこのサインポールが使われていたことが分かります。
(参考文献:池辺義象 『仏国風俗問答』 1901年 明治書院 p.105)

 このサインポールの起源については諸説あるようですが、1887年に発刊された「工商技芸看板考」では赤が動脈、青が静脈、白が布を表しているという説が紹介されていました。この動脈、静脈説は現代でも割と一般的に聞く説ではないでしょうか。
(参考文献:坪井正五郎 『工商技芸看板考』 1887年 哲学書院 pp.81-82)




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