「ブルガリアのホテルに日本の地図が掲げられている理由 etc」(明治時代の海外旅行記:坪谷善四郎『世界漫遊案内』)


 こちらは明治時代の編集者、政治家だった坪谷善四郎が明治40年(1907年)に欧米各国を訪れたときの旅行記(『世界漫遊案内』)で、興味深かった記述や当時の社会の様子が窺える記述をまとめた記事です。

 なお、引用箇所の一部には現代の基準だとあまり良くない表現がある場合もありますが、歴史的記述であることを尊重し一切手を加えていません。


<坪谷善四郎>

坪谷 善四郎(つぼや ぜんしろう、文久2年2月26日(1862年3月26日) - 昭和24年(1949年)3月24日)は日本の出版人、編集者、政治家。号は水哉(すいさい)。

東京専門学校(現・早稲田大学)邦語政治科在学中、博文館に入社。編集局長を経て1918年取締役就任。1895年には雑誌『太陽』の創刊にあたり初代主筆、編集主幹としてこれに従事した。政治家としては1901年以来7期にわたって東京市会議員を務め、1907年開館の東京市立図書館(現・日比谷図書文化館)建設につくした。

坪谷善四郎

参考文献:坪谷善四郎 『世界漫遊案内』 1909年 博文館


<アンケート>

 読者の方からこの明治時代の旅行記の記事について、「1冊1記事」ではなく「1テーマ1記事」にしてほしいという要望を頂きました。この件についてどちらの希望が多いかツイッター上でアンケートを取っているのでよろしければご協力お願いします。
関連記事
【宣伝】暇劇の同人誌(『幕末・明治期の西洋人が見た日本(絵画篇)』)が完成しました。
【宣伝】暇劇の同人誌第二弾(『幕末・明治期の西洋人が見た日本(入浴文化篇)』)が完成しました。

[PR] 暇は無味無臭の劇薬のYouTubeチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UC_yC7ccaessdpgHzsoPD7Yw

明治時代の海外旅行記で面白かったところのまとめ
https://www.youtube.com/playlist?list=PLuw-ZwMGqW3ZcmQICv8NxZpn0uiUzy1SM




●こちらはブルガリアのホテルの壁に日本の地図が掲げられていることについての記述です。
不思議な事には、壁間に掲げた二箇の額を見ると、日本を中心とした朝鮮及露領沿海州の地圖(ちず)と、極東の地圖とである。

(中略)

終に日露の大戰役と爲(な)り、露國は此の方面にも失敗して、日本が極東の新興國と爲た。で、勃牙利(ブルガリア)人は、大いに日本を尊敬し、常に自ら近東の日本たらんことを望んで居るとは、是れ同國人の語る所である。成程然うであらう。

其れで始めて、國民に露西亞風俗の多いのも、ホテルの壁間に日本や極東のを掲げて居るのも、詳(つまびら)かに理由が分つた。

坪谷善四郎 『世界漫遊案内』 1909年 博文館 pp.412-416

【要約】
 ブルガリアのホテルに日本を中心とした地図と極東の地図が掲げられているので坪谷善四郎が不思議に思っていたところ、ブルガリア人がロシアを破った日本を目標としてそうしているとブルガリア人から聞いて納得したという内容です。

【備考】
 「(中略)」の部分は長かったので省略したのですが、簡単に言うとロシアがブルガリアに干渉していた歴史について説明されていました。

 先日取り上げた長谷場純孝の「欧米歴遊日誌」でも触れましたが、日露戦争の結果特に東欧諸国で日本の勝利を歓迎されたという記述を当時の旅行記では頻繁に見かけます。

 アメリカ合衆国や西洋諸国でも同じように歓迎されたという記述を見かけはするのですが、文章から伝わってくる熱量のようなものが東欧諸国だと全然違っているのが特徴の一つです。

ブダベストは、バルガン半島の新興國にして、其國風人種稍(やや)我國と類似する所あるを以て、戰爭以來、特に同情を我國に傾注せし、關係(かんけい)あるを以て、余等の其地に至るや、市民は拍手喝采して歡迎し、或は走り来りて握手を要(もと)め、又は萬歲を唱ふる者多かりき。

長谷場純孝 『欧米歴遊日誌』 1907年 長谷場純孝 p.119
関連記事
「日露戦争後、ロシア人が日本人に好意的だった理由 etc」(明治時代の海外旅行記:『欧米歴遊日誌』)

 このブルガリアの記述に関連して、1916年に発刊された「巴爾幹半島」では当時発展したブルガリアについて次のように述べられているので、上記の記述と合わせると「近東日本」という言葉は当時のブルガリアにおける標語のようなものだったのかもしれません。
勃國は又「近東日本」てふ名を取るに至つた

長瀬鳳輔 『巴爾幹半島』 1916年 通俗大学会 p.107

てふ」:…という。
「とい(言)ふ」の変化したもの。中古に入ってから、和歌に多く用いられる。



●こちらは外国人から不思議に思われている日本人の料理の注文の仕方についての記述です。
外國人は、何所までも獨立自由主義で、銘々料理目録を熟視して、好きな物を命じ、決して他人に雷同する事は無いが、日本人は能(よ)く氣が揃ふて、『君の其れは何?旨し相(おいしそう)だナア、では僕も其れとしよう』などと、二人も三人も同じい物を飲み食ひするのは、外國人から奇異(ふしぎ)に思はれて居るらしい。

坪谷善四郎 『世界漫遊案内』 1909年 博文館 p.17

※「旨し相」の「し」は変体仮名です。

【要約】
 外国人は他人と同じものを注文したりしない一方で、日本人の場合他人の注文した美味しそうなものを自分も注文して何人も同じものを食べることを外国人が不思議に思っている様子だという記述です。

【備考】
 この場合は他人の注文とあえて揃えるというよりは、他の人が注文しているものが美味しそうなので自分も食べたくなり同じものを注文するという感じだと思いますが、そういうことをあまりしない文化圏の人から見れば確かに不思議に見えるかもしれないと読んでいて面白いものでした。

 私がドイツのフランクフルトを訪れ、本場のシュニッツェルを味わおうと地元の料理店に入ったとき、隣のテーブルにいた地元のドイツ人らしき男女四人中三人が同じ料理を食べていたことを思い出しました。普段であれば他の人と同じ料理を注文することもあるのですが、海外旅行中はなるべく色んな料理を体験するために他の人とは別の料理を注文するようにしているので、余計にその様子が印象に残っています。

 なお、坪谷善四郎はこの「料理目録」について全てフランス語で書かれていて、世界ではどの国でもメニューはフランス語で書かれているものだと聞いて先行きを案じていました。実際、シアトルのホテルに滞在した時も坪谷善四郎は「料理目録が、普通は佛蘭西文だから、仲々讀めない」と愚痴をこぼしています。

 これがどこまで一般的なものだったのかは不明ですが、フランス語が主流なのが外交の場だけではないという可能性は興味深いものでした。



●こちらはアメリカ合衆国とイギリスの船の中の雰囲気の違いについての記述です。
是より前、米國に在る間は、宛(さな)がら俄(にわか)分限の家に在る如く、事物の豪華と壯大とは、目を驚かすものは多いが、嫺雅(かんが)優美の趣味は之を缺(か)き、人は盡(ことごと)く貨幣の奴隷と爲て動止する様な咸(かん)があつたが、一歩英國船に入れば、筋目正しき舊家(きゅうか)に入た如く、乘客までも其の擧止を愼しみ、給仕ボーイも皆な品位を増せるかと思はれ、日本人に對する擧動など、殊に奥ゆかしい事が多い。

坪谷善四郎 『世界漫遊案内』 1909年 博文館 p.182

【要約】
 アメリカ合衆国では優雅さがなく拝金主義な雰囲気があったのに対して、イギリスの船に入った途端雰囲気が一変し品位が増したように感じたという内容です。

【備考】
 アメリカ合衆国とイギリスの違いを雰囲気の差によって感じたという内容ですが、こういう雰囲気の違いについての言及は旅行記の中では定番ともいえるもので、例えば先日取り上げた「欧米遊記」の中でも記事では紹介しませんでしたが、上記と似たような記述があります。

只、不思議に咸じたことは、乘客中、米人が、沈黙主義の英人の乘り合はして居るので、其邊に、遠慮せられて、禮儀正しく、靜にして居たことである。英國に近づくに從ひ、世界の人々を、無言の中に、品位を顧慮させる老帝國の威風は、今に尊大なものである。

川田鉄弥 『欧米遊記』 1908年 高千穂学校 p.109
関連記事

 こちらは、イギリスに向かう船の中で、イギリスが近づくにつれて段々アメリカ人がイギリス人のように静かで礼儀正しくなっていったので「老帝國の威風」に感じ入ったという内容です。

 実際各国を旅行していると言葉では表現しにくいその国独特の雰囲気というものがありますし、同じ国の中でも都市によって雰囲気が全く違うということはあるのでそういう雰囲気を肌で味わうことが出来るのも旅の醍醐味だと思います。

 私が今まで行った中で一番雰囲気の違いで印象に残っているのはオランダのロッテルダムとアムステルダムでした。ロッテルダムはどちらかというとビジネス街という感じであまり観光という雰囲気ではなかったのですが、アムステルダムは観光客で溢れかえっていて雰囲気としては京都の観光地に近いものを感じました。



●ドイツと日本の新酒の宣伝方法が似ているという記述です。
市中所々の軒先に、直径二尺許りなる緑葉の輪を吊り下げる家がある。聞けば是れサイダー酒の新醸成れるを廣告(こうこく)して賣(う)る看板な相だ。日本の酒屋で、新酒が出来たとき、杉の葉の看板を軒先に吊すと似て居るので面白い。

坪谷善四郎 『世界漫遊案内』 1909年 博文館 p.496

【要約】
 ドイツ、フランクフルトで新しく酒を醸造したときに「緑葉の輪」を吊り下げて宣伝する方法が、日本の酒屋で新酒が出来たときに「杉の葉の看板」を軒先に吊るす様子と似ているという内容です。

【備考】
 おそらくこの「緑葉の輪」というのはキヅタのことだと思われます。古代ローマの酒の神バッカスがキヅタの冠を身に着けていることからヨーロッパでは古くから酒屋の宣伝に使われています。

 日本の酒屋だと杉の葉で作った球体の「杉玉(もしくは酒林)」を吊るすことで新酒ができたことを知らせるようになっています。

 ※杉玉
 800px-Uda_Matsuyama06s3872

 現代の雑学本などでは、上記の類似点を紹介していることが時々あるのでご存じの方も結構多いのではないでしょうか。



●こちらはオランダの陶器についての記述です。
日本の陶器は、曾(かつ)て長崎へ来る蘭人に學(まな)んで、改良したる所が多い相で、デルフト陶器には専ら藍色のみの燒附が、日本の物と似て居るが、光澤(こうたく)は頗る美しく、値段も頗る高い。

坪谷善四郎 『世界漫遊案内』 1909年 博文館 p.519

【要約】
 日本の陶器はオランダ人から学んだ知識で改良したところが多い事と、オランダのデルフトの陶器が日本の陶器と似ているという内容です。

【備考】
 あまり陶磁器には詳しくなく、デルフトの陶器がどのようなものか気になったので調べてみましたが、陶器の写真を見る限りでは日本の陶器というよりは中国の陶器に近いような印象を受けました。

デルフト陶器(デルフトとうき、蘭: Delfts blauw)は、オランダのデルフトおよびその近辺で、16世紀から生産されている陶器。

オランダ黄金時代には、オランダ東インド会社によって、17世紀初頭の中国磁器がオランダに大量に輸入されていた。オランダにもたらされた、このような中国磁器の優れた品質と精密な絵付けが、デルフトの陶器職人にも大きな影響を与えている。

800px-DelftChina18thCenturyCompanieDesIndes

デルフト陶器

 2000年7月発行の「石川県立美術館だより」第201号でデルフト陶器について解説されているのを見つけましたが、それによると江戸時代に「紅毛趣味」が流行した時にオランダから数多く輸入された陶器がこのデルフト陶器だそうです。

 当時の他の文献でもデルフトの街について言及されている中では陶器についても言及されており、1921年発刊の「欧洲写真の旅」での記述を読む限りでは、日本でもデルフトが陶器の街だったことは有名だったようです。

デルフト町には日本支那風の陶器製造場などあり、陶器の産地として有名な場所ですが、

三宅克己 『欧洲写真の旅』 1921年 アルス pp.249-250


附近から産する粘土で造る陶器は、日本及び支那の法を傳へ、デルフトウェアとして歐洲に有名である。

小田内通敏 『欧羅巴 趣味乃地理 前編』 1909年 三省堂 p.226



●こちらはドイツは尚武の気風という記述です。
學生の面には決闘の創痕(きずあと)多く、軍人は最も尊敬を受け、小學校の生徒は、男女ともに軍人の様な背嚢(ランドセール)を負うて行くなど、國民の風俗を一言で盡(つく)せば、勤儉尙武の四字に歸す。

坪谷善四郎 『世界漫遊案内』 1909年 博文館 p.529

【要約】
 学生の顔には決闘による傷跡があり、軍人が尊敬され、小学生は「背嚢(ランドセール)」を背負っていることから尚武の気風があるとしている内容です。

【備考】
 決闘による傷跡や軍人が尊敬されていることについては当時のドイツの記述ではよく見かけるもので特に目新しいものではなかったのですが、ドイツ人の小学生が「背嚢」を背負っているという部分で「背嚢」のルビが「ランドセール」となっていて、それに軍人らしいイメージがあるという点が大変興味深かったです。

 以下は1920年頃のドイツの小学生の写真です。日本で見かけるランドセルと比べると横長ではあるものの、形状が統一されていることから既にランドセルとしての形が完成していたことが分かります。

 
 ランドセルに軍人らしいイメージがあるというのは現代では既に存在しないと思いますが、1929年発刊の「桜咲く国の天子様 聖徳童話」ではランドセルはどこからやってきたのかという話題の中で登場人物は次のような会話をしています。
「僕はドイツだらうと思ふよ。」
「どうして?」
「でもあの形は軍人の背嚢のやうだらう。日本の陸軍のはじめはドイツに見ならつたのだといふのだから あの鞄もきつとドイツから、はやつて来たのだらうと思ふのさ。」

樋口紅陽 『桜咲く国の天子様 聖徳童話』 1929年 日本お伽学校出版部 pp.228-229

 ここでも「軍人の背嚢」とランドセルのイメージを軍人と結び付けていることから、当初はそういうイメージが普通だったのではないかと思われます。

 以下が大日本帝国陸軍で使用されていた背嚢とのことで、この写真を見て軍人の背嚢がランドセルの原型であったことがよく分かりました。



 記述内での当時のドイツ人の学生に決闘による傷跡が残っていることについては以前取り上げた戸川秋骨の「欧米紀遊二万三千哩」の記事でも触れた通りで、決闘をして顔に傷跡を作り、それによって男らしさを自慢するためのものであり、命を懸けるようなものではなかったということは当時の他の文献などでよく言及されています。
フランスの決闘と比較して面白いのはドイツの決闘である。ドイツ人は非常に虛榮心が强くつて空威張りをすることが好きだ。

この決闘はフランスに於けるが如く生死の決闘ではなくて、何れか自慢の鼻を折ればよいのである。そこで切合ひをするのであるが、その切り合ひたるや、眼をかくし、咽をかくして命には障りがないようにしておいて、何れかの頬さきにかすり傷が出来ればそれで満足するのである。これは重に學生間に行はれるので、この刀傷は教育を受けたといふ印になるのである。

五来欣造 『仏蘭西及仏蘭西人』 1915年 富山房 pp.18-19
関連記事



●こちらはスウェーデンでは他国と違って日本人が中国人と間違われないという記述です。
各國を旅行するに、英米諸國の外には、歐洲大陸の何れの國に行くも、常に日本人を見て支那人と呼ばるるが常なるに、此國のみは、日本人を熟知し、尊敬することが厚い。

不思議と思ひしに、是れ抑(そもそ)も故あり。彼等は露西亞を以て不倶戴天の仇となし、日露戰役中、目の前なる露國のバルチツク艦隊の全滅をも知り、また此國の舊領地なる芬蘭(フィンランド)が、此の戰役中に、露國より自治を承認せられたるを見て、甚だしく喜び、露國の戰敗に乗じ、機會(きかい)あらば、日本に依頼して、自ら宿昔(しゅくせき)の怨恨を報ぜんと欲するの念は、全國民の腦裏に勃々たりし故、偖(さて)は日本人を知ること極めて切なりしものといふ。

坪谷善四郎 『世界漫遊案内』 1909年 博文館 p.583
【要約】
 他の大半の欧米諸国と違ってスウェーデン人が日本人と中国人の区別をすることが出来るのは、スウェーデンが不倶戴天の敵とみなしていたロシアを日本が日露戦争で破ったことを大変喜び、機会があれば日本と協力してロシアに報復したいと思っているので日本人について詳しくなったためという内容です。

【備考】
 欧州諸国では日本人は中国人と思われるのが大半であるのに対して、スウェーデンでは日本人のことをよく知っているという内容なので、スウェーデンで日本人は中国人と間違われなかったということなのだと思われます。

 当時のスウェーデン人が日本人と中国人を区別することが出来たというのはとても興味深い記述でした。スウェーデン人が日本人と中国人を判別出来るというのは、日本人でいえば外見だけでスウェーデン人、フィンランド人、デンマーク人、ノルウェー人の区別が出来ることに相当すると思うのですが、私ではそんなことは全くできない自信があるので感服するほかありません。

 後半の「日本に依頼して、自ら宿昔の怨恨を報ぜんと欲するの念」という部分がいまいちよく分からなかったのですが、前後の文脈からこの箇所は「ロシアの敗戦を奇貨として、日本と協力しロシアに復讐したいと考えている」という風に解釈しました。ただ、間違っている可能性は十分にあるので、もし間違っている場合はご指摘ください。



●こちらはロシアでは冬期凍った川の上を電車が走るという記述です。
若しも日本で、東京灣が全然氷結し、隅田河の水面の氷上に、鐵道(てつどう)を敷いて電車が走ると言はば、人は皆な法螺を吹くにも大抵にせよと言ふであらう。が、今我等の着いた露西亞の國都聖彼得堡(サンクトペテルブルク)では、其れが法螺で無く、全然事實(じじつ)だ。

坪谷善四郎 『世界漫遊案内』 1909年 博文館 p.596

【要約】
 ロシア、サンクトペテルブルクのネヴァ河は冬期に凍り付き、その氷上を電車が走るという内容です。

【備考】
 流石にこの記述だけで電車が凍った川の上を走行しているとは鵜呑みに出来なかったので、他の旅行記も読んでみましたが確かに同じような記述が見つかりました。
同伴せるU君ネヴを指して曰く、此河冬期は氷結して上に電車を通ず、

徳富蘆花 『順礼紀行』 1906年 警醒社 p.410

 また写真も探してみたところそれらしきものも見つかりました。

※凍ったネヴァ川の上を走行するトラム

 冬期、川が凍り付いた期間しか運航できないにもかかわらず、あえて氷上で電車を運行するということはそれだけ交通需要があったということだと思いますが、記述を読んでも半信半疑で上の写真を見て初めて本当にそうだったのだと飲み込むことが出来ました。

 海外掲示板を覗いているとオランダ人は道路や川が凍るとスケートで通勤通学するとネタにされていることがあるのですが、この記述を読んでまず連想したのがそのことについてでした。

※関連動画



●こちらは日露戦争で亡くなったロシア人画家についての記述です。
露國近世の名工ウヰルス、チヤーギンの戰爭畫(せんそうが)は、世界無比として露人は誇る。此の人は日露戰役中、旅順に居て、マカロフ提督と共に軍艦ペトロパウロスク號(ごう)で沈んで死だ。

露人は之を惜んで、軍艦は今後も幾らでも出來るが、マカロフ提督とウヰルスチヤーギン畫伯を失ふたのは、恢復(かいふく)すべからざる露國の損害で、また實に世界の損害だといふ。余等は其の作品を觀るに及んで、實に道理ある事と思ふた。

坪谷善四郎 『世界漫遊案内』 1909年 博文館 pp.603-604

【要約】
 戦争画で名高い「工ウヰルス、チヤーギン」が日露戦争で従軍しているときに亡くなり、ロシア人が彼とマカロフ提督の死を惜しんだということについて、坪谷善四郎がその作品を観て納得したという内容です。

【備考】
 この画家のことは知らなかったので調べましたが、おそらく「ヴァシーリー・ヴァシーリエヴィチ・ヴェレシチャーギン(Василий Васильевич Верещагин)」のことだと思われます。

 1907年年に発刊された斎藤信策の「芸術と人生」の中でヴェレシチャーギンの訃報に対する追悼文が掲載されていますが、それを要約すると彼は当時の世界の戦争主義や帝国主義を批判するために戦争等の醜い部分を写実的に描いた画家であったというものでした。
(斎藤信策 『芸術と人生』 1907年 昭文堂 pp.95-100)

ヴァシーリー・ヴァシーリエヴィチ・ヴェレシチャーギン(ロシア語:Василий Васильевич Верещагин、ラテン文字転写の例:Vasilij Vasil'evič Vereščagin、1842年10月26日 - 1904年4月13日)は、ロシアの画家。

ロシア帝国の中央アジア征服や露土戦争に従軍して戦場をテーマとした作品を数多く残す。日露戦争で取材のため乗っていた戦艦が沈没し死去。

432px-Vasili_Vereshchagin

1024px-Apotheosis

ヴァシーリー・ヴェレシチャーギン


ステパン・オーシポヴィチ・マカロフ(ロシア語:Степа́н О́сипович Мака́ровスチパーン・オースィパヴィチュ・マカーラフ;ラテン文字転写の例:Stepan Osipovich Makarov、ユリウス暦1848年12月27日(グレゴリオ暦1849年1月8日) - ユリウス暦1904年3月31日(グレゴリオ暦4月13日))は、ロシア帝国の海軍軍人、海洋学者。ロシア帝国海軍中将。ロシア帝国科学アカデミー会員。海洋学に造詣の深い名将であったが、日露戦争において戦死した。

SO_Makarov_01

ステパン・マカロフ




キャプチャ


「日本の軍艦がスエズ運河を通行して世界中で評判になった話 etc」(明治時代の西洋読本:池辺義象『世界読本』)


 こちらは明治時代の国文学者である池辺義象が欧米各国を旅行/滞在した時の経験から書いた「世界読本」で、興味深かった記述や当時の社会の様子が窺える記述をまとめた記事です。

 なお、引用箇所の一部には現代の基準だとあまり良くない表現がある場合もありますが、歴史的記述であることを尊重し一切手を加えていません。


<池辺義象>

池辺 義象(いけべ よしかた、文久元年10月3日(1861年11月5日) - 大正12年(1923年)3月6日)は、国文学者、歌人。

肥後国(現熊本県)生まれ。号は藤園、知旦。東京大学古典講習科卒。小中村清矩の養子として小中村義象を名乗るがのち復姓。1898年から1901年までパリに留学。帰国後、東京帝国大学講師、御歌所寄人などを務める。主著に『日本法制史書目解題』、『日本文学史』、萩野由之と共編とした『日本文学全書』がある。

池辺義象


参考文献:池辺義象 『世界読本』 1902年 弘文館


<アンケートのご協力お願いします>

関連記事
【宣伝】暇劇の同人誌(『幕末・明治期の西洋人が見た日本(絵画篇)』)が完成しました。
【宣伝】暇劇の同人誌第二弾(『幕末・明治期の西洋人が見た日本(入浴文化篇)』)が完成しました。

[PR] 暇は無味無臭の劇薬のYouTubeチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UC_yC7ccaessdpgHzsoPD7Yw

明治時代の海外旅行記で面白かったところのまとめ
https://www.youtube.com/playlist?list=PLuw-ZwMGqW3ZcmQICv8NxZpn0uiUzy1SM




●こちらは日本の軍艦がスエズ運河を通過して話題になったという記述です。
ここの深さは二十八尺半だから、船の喫水が二十三四尺までは、平氣に通行が出来る。然るに先年我が帝國軍艦富士號(ごう)が、二十六尺六寸の喫水でありながら、ここを通ろうといふから、世界航海者の注目する處となつた。

新開の日本國、海事に熟練ならざる日本士官が、どうして通行が出來やうなど、あざけり半分に思つた奴もあつたと云ふことであるが、その時の回航委員は敏腕揃ひであつて、平氣に安々と、大手をふつて通行した。そこで世界中の大評判となつて、日本海軍士官は、實(じつ)にえらいものだといふことになつたが、考へて見れば無理もない。

池辺義象 『世界読本』 1902年 弘文館 pp.217-218

【要約】
 日本の軍艦富士がスエズ運河を通行しようとした際許容喫水ギリギリだったため、世界中の船乗りからスエズ運河を通行できないだろうと思われていたものの、海軍士官が熟練揃いであったため簡単に通行することが出来、世界中で日本の海軍士官が評価されたという内容です。

【備考】
 1尺は10/33m(30.3030cm)で、1寸は1/33m(3.0303cm)なので「二十八尺半」は約8.6m、「二十三四尺」は約6.9-7.2m、「二十六尺六寸」は約8.06mになるので、許容喫水が約8.6mのスエズ運河を、喫水約8.06mの軍艦富士が通過したということになります。

 あまり船や船の航行に関する知識はないのですがそれでも喫水限界が8.6mのところを、喫水8mある船が通行するのはギリギリだということは分かるので、船に詳しい人からすれば驚きもさらに強いものだったのではないでしょうか。

 現在のスエズ運河の喫水限界について調べてみましたが、スエズ運河を通行できる最大の船のサイズのことは「スエズマックス」と呼ばれているそうで、それによれば現在の限界喫水は約20mとのことでした。つまり現代に置き換えて考えてみれば喫水約18.7mの船が通行するようなものだと思われます。これがどのくらい凄いことなのか詳しい人の意見を伺ってみたいです。

 この軍艦富士がいつスエズ運河を通行したのか特定したかったので、軍艦富士に言及している文献を片っ端から漁ってみたところ1941年に発刊された「加藤寛治大将伝」の中でその出来事が紹介されており、更に富士の回航委員であった三浦大佐の記録が引用されていて、その記述を統合した結果スエズ運河を通行したのは明治30年9月7日だと特定することが出来ました。
新造戰艦富士が英國を發(はっ)して歸航(きこう)の途に上つたのは前節に述ぶる如く明治三十年八月十七日であつたが、其の歸航に際して、最も歐州列國人の賞讃を博したるものは、「スエズ」運河を難なく通過した一事であつた。

當時(とうじ)「スエズ」運河の水深は二十五尺で、然も多くの屈曲部ありて、富士の如き一萬頓(いちまんとん)以上を有する大戰艦の通過を危惧するの時代であつたから、果して日本の海軍の手を以て其の大艦が無事通過し得る乎否乎が、最も興味深き問題として、歐洲列國に於ける海軍専門家の注目する所と爲つたことは勿論、遂には歐洲人の間に賭事と爲るまでに當時の新聞を賑はせたものであつた。

加藤寛治大将伝記編纂会編述 『加藤寛治大将伝』 1941年 加藤寛治大将伝記編纂会 p.326


※以下は『加藤寛治大将伝』で紹介されていた富士の回航委員であった三浦大佐の記録で、スエズ運河を通行する直前の記述です。

九月五日午前六時、愈々(いよいよ)艦首をスエズ運河に向けた。世界の物笑ひとなるか、日本海軍の名誉を博することを得るか、二つに一つ孰れか決すべき立場に立てる予の眼には、是日の朝暾(ちょうとん)常よりも紅に、其の光鋩が亦た常よりも輝いてゐた。

加藤寛治大将伝記編纂会編述 『加藤寛治大将伝』 1941年 加藤寛治大将伝記編纂会 pp.328-329

「朝暾」:朝日。朝陽。
朝暾(ちょうとん) の意味

 明治30年というと1897年のことであり、日清戦争の3年後、日露戦争の7年前となります。日露戦争以降の旅行記を読んでいると日本海軍が大変評価されている様子が散見されますが、この当時は日清戦争後ではあるものの記述内の「新開の日本國、海事に熟練ならざる日本士官が、どうして通行が出來やう」という箇所は、当時はまだ日本海軍の評価が低かったことが分かり興味深いものでした。

富士(ふじ)は日本海軍の戦艦。 富士型戦艦の1番艦。日本海軍が初めて保有した近代的戦艦の1隻。 日本海軍の軍艦で最高厚の舷側装甲を持つ(最高457mm。後の大和型戦艦でも410mm厚)。 旧式化により海防艦へ類別変更。その後、練習艦として使用された。

吃水     8.1m(26ft6in)

IJN_Fuji_2



スエズマックス(英語: Suezmax)は、積み荷を搭載した状態でスエズ運河を通航することのできる船の最大サイズを示した言葉で、ほぼタンカーに対して用いられる。

スエズ運河には閘門がないので、重要な制限要素は喫水と、スエズ運河橋があることから高さだけである。

2009年に、深さは18 mから20 mに浚渫されたものの、2010年時点の運河の通航路深さは最大20.1 mまでであり、満載状態のスーパータンカーは喫水が深すぎて通航できず、一部を他の船に移し替えるか、パイプラインを使って輸送するか、喜望峰を迂回しなければならない。




●こちらは西洋のエレベーターについての記述です。
昇降機は箱の大きいやうなもので、中には椅子も備へてある。だから例へば一階から四階に上らんとする時には、その旨をいつて、その入口の戸をあけて、中の椅子に腰かけをれば、ズンズンと獨(ひと)りで持上りて、そのとどまる處にて戸をあくれば、早く自分の望んだ場所に來てをるのである。

池辺義象 『世界読本』 1902年 弘文館 p.4

【要約】
 エレベーターに乗る際は自分で扉を開けて入り、エレベーターの内部には椅子も設置されているという内容です。

【備考】
 特に変哲の無いエレベーターについての説明ですが、エレベーターの内部に椅子があることが一般的であるかのように書かれていることには注意を引かれました。

 1900年頃のエレベーターの内部について特に条件を限定せずにググってみたのですが、椅子がないエレベーターも多々あったものの、椅子やソファのようなものが設置されているエレベーターのイラストや写真も多く見かけたので当時は結構一般的だったのだと思われます。

 ※関連画像
 5428e0-20171208-elevatorcartwo

 415c2c-20171208-elevatorcar

 1890-Victorian-elevator

 elevator-unsafe

 現代でもエレベーターに椅子やソファが設置されている所も一応は存在するようでした。
 1f614046853bb49af8c342dd4c55eecb

 ただ「エレベーター」と「椅子」だけで調べると検索結果に表示されるものは大半が以下のような画像でした。
 10619ff8ae6bdff387ffb3309190fd56



●こちらは日本と西洋での家庭についての記述です。
夫婦に一人の子供位の處ならば日本では、必ず下女と猫と位は附屬(ふぞく)してるのが當(あた)りまへで、又そうでなければ、行はれぬのであるが、西洋では家屋の構造から、食物などの工合が簡便に成つてをるから、その位の家では、妻君が中働きもやり、臺所(だいどころ)もするといふので、水入らずに暮してをる。

池辺義象 『世界読本』 1902年 弘文館 p.13

【要約】
 日本の家庭では女性のお手伝いさんがいるのが一般的であるのに対して、西洋では家事が簡便なので奥さん一人で全てやってしまうという内容です。

【備考】
 書生や下女が一般的だった明治時代とはいえ、使っているのは裕福な家庭だけだという勝手なイメージがあったのでこの記述では夫婦と子供がいる家庭では下女がいるのが当たり前といった感じで書かれていたのが興味深かったです。

 当時は貧しい家庭の娘が下女として他人の家で奉公していたのですが、1907年に発刊された「家庭下女読本」の中では我儘を言った下女が奉公先から暇を出され、新しい奉公先が見つからなかったため「茶屋女(遊女)」として売られてしまったという例が紹介されていました。
(墨堤隠士 『家庭下女読本』 1907年 大学館 pp.1-3)

 前後の文脈から多少この例は状況が特殊であった可能性はありますが、下女という仕事から、上記の文献内で「人間の職務の内で、一番下等い遊女」とまで言われている「茶屋女」となるしかなかったというのは当時女性が働くことのできる仕事がかなり限られていて、下女という仕事が貧しい家庭の娘にとって一種の社会的セーフティーネットとして機能していたことが窺えます。

 また、1903年に発行された「下女読本」では当時の下女の心構えなどが説かれているのですが、そこでは昔は下女もきちんと教育されていたから「鏡山のお初の様な忠義の女」がいたのに、「近頃では教えと云ふものが亡くなつて奉公する方もされる方も賣物買物の様な気になりました、是れは誠に嘆かはしい事です」と、奉公先と下女の関係がビジネスライクなものになってしまったと嘆いていて面白かったです。
(村井弦斎 『下女読本』 1903年 博文館 p.93)

『鏡山旧錦絵』(かがみやまこきょうのにしきえ)とは、歌舞伎の演目のひとつ。天明2年(1782年)1月に江戸外記座で初演された人形浄瑠璃『加々見山旧錦絵』の一部を歌舞伎として脚色したもの。

鏡山旧錦絵



●こちらは当時のフランスの状況についての記述です。
獨逸に負けて以來は土地もさかれ、金も取られ、今日の繁華はあるけれども、武威はそれほどに揚つてをるとも思はれぬ。内部はそろそろ腐敗しをるとも云ひ、殖民地の政は一向に振はぬ。露西亞にはおじぎする。是を彼の奈破翁(ナポレオン)帝政時代に比べて見たら、その優劣は論ずるにも及ばぬことであらう。

池辺義象 『世界読本』 1902年 弘文館 pp.30-31

【要約】
 フランスはドイツに戦争で負けてから没落気味であり、国として繁栄はしているものの軍事面ではパッとせず、ロシアに尻尾を振っているのでナポレオンの時代とは比べ物にならないという内容です。

【備考】
 こちらはフランスに焦点が当てられた記述ですが、別の箇所でロシアに状況について説明している記述の中では、ロシアから見たフランスについて次のように述べています。
佛蘭西などを妻妾のやうにおもつて、威張つてをるのは、どこにか侮るべからず自ら頼む所があると見える。

池辺義象 『世界読本』 1902年 弘文館 p.126

 当時のフランスがーー少なくとも本書の著者の主観ではーーロシア寄りだったことと、どこか没落気味のイメージを日本人が持っていたことが分かる記述ですが、フランスの没落イメージに関しては先日取り上げた森次太郎の「欧米書生旅行」でも同様のことが述べられているので当時の日本人はフランスに対して一般的にそういうイメージを持っていたのかもしれません。
正直に白狀すれば予は佛國(ふつこく)を輕んじて居たのである、人口は減少しつつある、殖民地は衰微して居る、製造工業は英米及び近來隆々(りゅうりゅう)たる獨逸に及ばざるのみならず天然の富源(ふげん)が少ない、人氣は輕薄にして政治的變動(へんどう)は猫の眼の變ずる如く、革命又た革命は佛国の持病と云ふても差支えない有様であるゆへ、佛國の全盛は百數十年前の夢であつて今世紀の終りには今日の西班牙(スペイン)位のものに零落するであらふと多寡(たか)を括つて居たのである、

然(しか)るに汽笛一聲(いっせい)ロンドンを發(はっ)して佛國に入り、足パリの地を踏み、眼パリの實際(じっさい)を見ると、街衢(がいく)の清麗なると建築物の廣壯(こうそう)なること眞(しん)に天下の盛觀(せいかん)にして驚かざるを得なんだ、

森次太郎 『欧米書生旅行』 1906年 博文館 p.248
関連記事



●こちらはベルリンの辻馬車についての記述です。
ここで一つの感心なのは、辻馬車の中に、二通り種類があつて、一駆けいくらと大凡極(きま)りがあつて、その價(あたい)を払ふのと、一つはことごとく時間極めなのとである。その時間極めの方は、馬車の首即ち御者臺(だい)の傍に、さしわたし五寸ばかりの時計がおいてあつて、人が乗るとすぐにこの針を見、降ると又その針を見て、最も嚴格に價を拂ふやうにしてある。この時計は客の方でも見えるやうになつて居るから、決してうそはつけない。だから詞のわからぬ人でも、又は田舎者でも、危險なく安心して乗られる。

池辺義象 『世界読本』 1902年 弘文館 pp.78-79

【要約】
 辻馬車の料金システムは二通りあり、一つは距離で料金が決まり、もう一つは時間で料金が決まるという内容です。

【備考】
 先日紹介した大橋乙羽の「欧米小観」の中でも馬車の料金システムについての記述がありましたが、そこでは料金計算方法について以下のように言及されていました。
馬車には時間を計算する一つの器械が据付けてあつて、其車の廻轉(かいてん)毎に、線が動くので、例へば十分乗れば幾銭、三十分乗れば幾銭と云ふやうに、直ぐに居ながらにして定價が此器械に現はれて来るが、

大橋乙羽 『欧米小観』 1901年 博文館 p.40
関連記事

 記述によれば馬車の御者は乗客が乗った時間を時計で確認して覚えているということですが、当時の馬車の写真などを見ると結構人が乗っているのでなかなか記憶するのも大変だったのではないかと思いますが、特にその点には触れられていなかったので慣れの問題かもしれません。

※1900年頃のベルリンの馬車。
43405652car

berlin-vers-1900

germanyCWB3C6



●こちらは西洋の公園では椅子に座るときに料金を支払わないといけないという内容です。
好きな椅子に腰かけてをると、若い女か年老(としより)かが、どこからかやつて来て、自分の前にニユーツと立つ。これは小さいカバンを提(さ)げ來て、この椅子の腰掛料を請求するものである。この時にはその定額の錢をやると、請取の小札をくれる。これを持つてをれば、その日だけは、その公園内のどこの椅子にでも腰かけ得る權利がある。

さる時には客は外にゆきたくても、成るべくこらへて請求人が來るまで待つて、錢を與(あた)へて立ち去る。それさへ既に殊勝だが、どうしても請求人が來らず見つからぬ時には、その定額の錢を、その椅子の上において立ち去るといふ美風は敢て珍しくない。

池辺義象 『世界読本』 1902年 弘文館 p.95

【要約】
 公園の椅子に座るのは有料で、料金を回収している人がやってくると支払うシステムになっていて、料金を回収する人が来ない場合は来るまで待ったり、その料金を椅子の上に置いておくという良い習慣があるという内容です。

【備考】
 池辺義象は西洋諸国について述べる中でこの公園の記述をしているので、特定の国についてなのか西洋諸国一般でそうだったのかは判然としませんが、当時ロンドンを訪れた日本人の多くが上記のような公園での有料座席とそれを律義に守っているイギリス人について触れていることが多いので、特にイギリスを意識した記述かもしれません。

 ただ池辺義象は別の箇所で次のように社会階級によって自然と訪れる公園が違っているため公園にも等級があるということについて触れているので、公園によっては事情が違っていた可能性もあるかもしれません。
倫敦では社會(しゃかい)に自然の制裁があつて、紳士の歩く公園には下等な人民はあまり行かず、紳士は下等な方に立よらねば、誰云ふとなく、あの公園は上、あれは下といふ風に區別(くべつ)が出來て居る。

池辺義象 『世界読本』 1902年 弘文館 p.241

※1900年頃のロンドン、ハイド・パーク
990b18e7c5e5782

lnd_rottenrowhydepark_01.1200x0



●こちらはロシア人の信仰深さについての記述です。
宗教は彼の希臘教で、即ち皇帝はその管長である。人民がその熱心な事は、實にすごいほどて、到る處々に、祭壇のない處はない。町の中にも處々にあり、又橋のたもと、人よせの處など、悉く祭壇のあること、丁度我が國で處々に石地蔵堂などがあるやうな工合(ぐあい)、さうして高きも卑しきも、その祭壇の前をとほれば、一々跪きて拜禮してゆく。

池辺義象 『世界読本』 1902年 弘文館 p.121

【要約】
 ロシア人は非常に信仰深く、町中にロシア正教の祭壇があり、そこを通り過ぎる際には一々礼拝していくという内容です。

【備考】
 当時のロシアを旅行した日本人の旅行記では検閲が厳しい事や、上記のように宗教熱心、もしくは迷信深いということについて書かれていることが多く、当時のロシアに対するステレオタイプの構成要素になっているように感じることがあります。

 1884年に発刊された「海外日録」の中でも次のような記述がありますが、この記述からも当時のロシア人の信仰深さ、迷信深さというものを垣間見ることが出来ます。

 なお、記述の内容を要約すると、クレムリンの門に設置されている神の像がタタール人を撃退したとロシア人に信じられており、この門を通る時には帽子を脱ぐ習慣になっていて、そうしない人は罰として五十回の拝礼を強制されるというものです。
クレメラン城郭に五ヶ所の門あり此中ポルトジュソボールと稱する門には樓上に神像を掲く一千五百二十六年に韃靼人當府を圍みしとき此神の威力韃靼軍を退去せしめしことありとて後來人民甚た之れを尊信し内外諸人の此門を通過するに當りては必す帽を取りて過くるを常とす若し或は帽を取らさる者ある時は其罰として更に五十回低頭せされは通過するを許さす今に至りても尚ほ此習慣に從はされは動もすれは其不敬を咎められ或は其地の人より不意の妨害を蒙ることありと云ふ

浅野長勲 『海外日録』 1884年 pp.527-528



●日本と西洋の芝居の時間についての記述です。
我が國では芝居見物と云ふと殆ど一日半はかかるが、西洋では大抵午後八時から十二時までが普通で、最も日の長短にもよるが、夕食後四時間のものと極(きま)つてをる。

池辺義象 『世界読本』 1902年 弘文館 pp.259-260

【要約】
 日本では芝居を観るのに一日半かかる一方で、西洋では四時間程度で見ることが出来るという内容です。

【備考】
 当時の文献を読んでいると、単に「芝居」と書かれている場合、歌舞伎を指していることが大半なのでこの記述の「芝居見物」も歌舞伎観劇のことだと思われます。現代の歌舞伎について少し調べてみましたが1部大体四時間程度ということなので当時と比べるとかなり時間短縮されているようです。

 西洋と日本での芝居の違いというのは当時の日本人の旅行記ではよく取り上げられる話題で、例えば1901年に発刊された「欧米管見」においても日本の芝居が長いことに触れられており、その点を西洋の芝居と比較しています。
日本人が芝居を見に行くのは、樂しみに行くのか苦しみに行くのか、兎に角研究す可(べ)き問題である、朝から晩まで大切な一日を潰して怒つて……泣(ない)て、眼を脹(はら)して歸(かえ)る

大岡育造編 『欧米管見』 1901年 大岡育造 p.154



●こちらは日本と西洋でのお釣りの出し方の違いについての記述です
此に注意すべき事は、西洋では釣錢をくれるのに、必ず數(かず)の少ない方から出して、遂に大に及ぼすので、我が習慣とは全く反対である事がある、例へば二圓(えん)二十五錢の品をかふに五圓を出して釣を求むれば、必ず先づ五錢を出し七十錢を出し二圓を出すといふやうなやりかたである。だから日本人は一寸(ちょっ)とまごつくやうな場合がないともいへぬ。

池辺義象 『世界読本』 1902年 弘文館 pp.303-304

【要約】
 日本では釣銭は額が大きい方から出していくのに対して、西洋では小さい方から出していくという違いがあるので日本人は少し困惑するかもしれないという内容です。

【備考】
 お釣りの出し方が西洋と日本では反対という例として、西洋では2円25銭の品物を買う時に五円を出した場合、5銭→70銭→2円の順番でお釣りを出すということなので、これを裏返せば日本では2円→70銭→5銭の順番でお釣りを出すということになります。

 お釣りの出し方ということに今まで注意を払ったことがなかったのですが、この記述を読んで現代の日本ではどうなのかということを考えた際、多くの場合「まず大きい方から」、つまり紙幣からお釣りを出して、その後小銭を渡すことが多いことに気付き、当時と現代でそれが変わっておらず、しかもほとんど無意識のうちにそれがされていることに驚きました。

 西洋を旅行した時はどうだったかを思い出そうとしてみたのですが、大半の場合クレジットカードを使用していて、その上お釣りを出す順番に全く注意を払っていなかったので記憶が曖昧です。ただフランスでパンの屋台を利用した時小銭から渡された記憶が薄っすらとあります。(記憶違いかもしれません)



●こちらは日本と西洋での商品の価格設定についての記述です。
物品に掛値をいふことは、西洋にはあまり无(な)い。けれども土耳古(トルコ)人やチユニース人は之をいふのを當りまへと心得てをる。支那人もさうである。これは時も費(つい)へ、かつ物品の信用に關(かん)することで、あまり好ましからぬ風俗とおもふ。我が國にも随分掛値は流行だが、こんな事も、将来は改むべきものの一つとおもはれる。

池辺義象 『世界読本』 1902年 弘文館 p.311

【要約】
 西洋では商品価格に掛値をすることはあまりない一方で、トルコやチュニジア(?)、中国では当たり前のように掛値がされ、日本でも一般的にされているという内容です。

【備考】
 日本の歴史における掛値については教科書的な知識しかなく、江戸の呉服店である三井越後屋が元禄(1688~1704年)の頃に「現金掛け値なし」を始めたということしか知らなかったため、てっきりそれ以降は掛値はされなくなっていったというイメージがあったので明治の終わりごろになっても掛値が一般的にされていたというのは興味深い記述でした。

 この掛値がどの時期まで一般的だったのか調べてみましたが、1916年(大正5年)に発刊された「現代式小売店顧客待遇法」で正札と掛値について論じている個所では、まだ日本で掛値文化が残り続けていたと推察できる記述があります。
第一にお話ししたいのは正札と云ふ事である。これは私が茲(ここ)で云はない迄も誰しもよく知つて居る事であるが、サテこれが却々(なかなか)實行(じっこう)出來ない。正札厘毛引なしと書いてあつても、矢張り客から攻められると少し位は引くと云ふ處がある、組合の規約で正札にはして居るが秘密に割引して居ると云ふ處がある。どうも嚴格には行はれて居ない。

清水正巳 『現代式小売店顧客待遇法』 1916年 佐藤出版部 p.118

 また1931年に発刊された「貨殖百物語」では、戸井福三という人物が大阪で「トイシン洋品店」を開店した頃の様子について「その頃の大阪の商賣は、いづこの店も掛値の商賣であつた。」と記述されていることから、「貨殖百物語」が発刊された頃(1931年:昭和6年)には少なくとも大阪では掛値が一般的ではなくなっていたと考えられます。
(谷孫六 『貨殖百物語』 1931年 春秋社 pp.150-154)

 果たしてこれが大阪だけの話なのか、日本全国的にそうだったのかというのは更に踏み込んで調査する必要がありますが、大体昭和の初期頃には掛値は一般的ではなくなっていたのではないかと思われます。




キャプチャ

「石橋を叩いて渡る日本人、鉄橋を叩いて渡るイギリス人 etc」(明治時代の海外旅行記:井口丑二『世界一周実記』)


 こちらは長崎新報の新聞記者だった井口丑二が明治28年(1895年)に記者として欧米各国を訪れた時の旅行記(『世界一周実記』)で、興味深かった記述や当時の社会の様子が窺える記述をまとめた記事です。

 なお、引用箇所の一部には現代の基準だとあまり良くない表現がある場合もありますが、歴史的記述であることを尊重し一切手を加えていません。


<井口丑二>

井口 丑二(いのくち うしじ、1871年 - 1930年)は、日本の宗教家、政治家。

1890年-1898年、『長崎新聞』編集に従事。

1916年、廃仏毀釈の徹底した同村に大日本神国教(神国教)を創始、尊徳の思想の普及に努めた。

井口丑二


参考文献:井口丑二 『世界一周実記』 1904年 経済雑誌社
関連記事
【宣伝】暇劇の同人誌(『幕末・明治期の西洋人が見た日本(絵画篇)』)が完成しました。
【宣伝】暇劇の同人誌第二弾(『幕末・明治期の西洋人が見た日本(入浴文化篇)』)が完成しました。

[PR] 暇は無味無臭の劇薬のYouTubeチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UC_yC7ccaessdpgHzsoPD7Yw

明治時代の海外旅行記で面白かったところのまとめ
https://www.youtube.com/playlist?list=PLuw-ZwMGqW3ZcmQICv8NxZpn0uiUzy1SM



●イギリス人が最新のものを取り入れることに慎重であるという記述です。
商店新規開業を衒(てら)はず、老舗を誇る、一切の事業に經驗を重んずるが爲なりとはいへども、抑々(そもそも)人心新を好まず舊(きゅう)を愛するに因(よ)るもの多し或は當國(とうこく)の造船所にて軍艦水雷艇等を造る、其最新式は露國の注文、日本の注文等にして、英國自身の艦艇は却つて其後を追ふこと多し、是れ或は偶然なるべしと雖も、亦英人の氣風に因つて然るものなしと謂ふべからず、むかし日本の入念者は叩いて而して後石橋を渡れり、英人は鐵橋(てっきょう)を猶叩いて渡る

故に鍛冶屋を潰して製造所を造らず、船大工を亡ぼして造船所を起さず、製鐵所は鍛冶屋の成長したるものにして、造船所は船大工小屋の擴張(かくちょう)せられたるものなり萬事(ばんじ)概して斯(かく)の如く、改良擴張をば之をなせども、滅多に根本的改革をなすことなし

井口丑二 『世界一周実記』 1904年 経済雑誌社 p.446

【要約】
 イギリス人は新規事業を好まず、造船所で最新式の軍艦を作る時も他国の軍艦を作ってから自国の軍艦を作り始めるという内容で、これは偶然の可能性もあるもののイギリス人の国民性によるところもあるのではないかと推測し、日本では石橋を叩いて渡ると言われるのに対してイギリス人は鉄橋叩いてからようやく渡るような国民性だと述べています。

【備考】
 イギリスが保守的/伝統重視という記述はよく見かけるものですが、最新式の軍艦を建造する際に外国から先にして自国の軍艦はその後建造するという傾向からそれを見出すのは独特の切り口で参考になる内容でした。

 勿論、井口丑二が指摘するように偶然の可能性はありますが、他国と比較して有意なものであれば十分に検討の余地があるので議論の出発点という意味ではとても良い着眼点だと思います。



●こちらはフランスのホテル等の接客についての記述です。
ホテル商店等言葉づかひ頗る丁寧なり日本人が外國人を馬鹿にする如くならず

井口丑二 『世界一周実記』 1904年 経済雑誌社 p.126

【要約】
 マルセイユ(フランス)のホテルや商店などの接客が丁寧であるところが、外国人を馬鹿にする日本人とは違っているとする内容です。

【備考】
 以前の記事で大橋乙羽の「欧米小観」を取り上げた際、日本では帝国ホテルの従業員ですら外国人を軽蔑しているという内容の記述を紹介しました。
見よ、日本第一と云ひ、東洋第一と誇れる帝國ホテルに使はれてゐる、彼の料理人より給仕人等に至るまでが、悉く外國人を目して、今も猶(なお)毛唐と云ひ、碧眼紅髭の奴と呼んで、輕蔑の眼を以て遇するが如きは、實に其心事が解せられぬ程不心得なことと思ふ、此等は實に小人國的の小感情の頗(すこぶ)る卑しむべきものである、

大橋乙羽 『欧米小観』 1901年 博文館 p.11
関連記事
「日本とフランスでの芸術家の社会的地位の違い etc」(明治時代の海外旅行記:『欧米小観』)

 この記述だけだと内容が主観的もしくは限定的である可能性は十分にあったと思うのですが、今回の記述でもおおよそ似たようなことに言及されていることから情報としての純度が高くなったように感じています。

 新しい事実に触れるというのも知的好奇心が刺激されるので楽しいものですが、このように既知の事実ではあっても事例を蓄えたり、反例を見つけ出すという作業は情報の純度を高めるために重要なことなので疎かにできない大切な作業だと思います。



●こちらはイギリスで道を尋ねることについての記述です。
其繁忙いはん方(かた)なければ、路人に道を問ふは第一の禁物(他の妨げをなすとまた一方には奸徒の乗ずる所となる處あるを以てなり、ゆえに問ひたきことは先づ巡査、巡査なくんば郵便夫、何もなくんば店に入つて問へと定めらる)

井口丑二 『世界一周実記』 1904年 経済雑誌社 p.138

※「言はむ方無し」:何とも言いようがない。格別だ。「いふかたなし」「いふべきかたなし」とも。
いはむかたなし


終始徒歩するは、只郵便電信の集配人にして、是はまた意外なる程悠長なり(路を問ふに巡査なくんば郵丁に問へとは前に記せり)就中郵便集配人は番號(ばんごう)の入りたる赤襟の制服を着け、前後に眉庇(まびさし)ある制帽を頂き、恰(あたか)も大黒天のの様な白の大袋を肩にかけ、トボトボと歩いて居る、是れでどうして間に合ふか、其受持區(く)比較的に狭く別言すれば集配人の數(かず)多きを以て、毫(ごう)も遅延する様のことなきのみならず、猶匇卒(そうそつ)急忙より起る諸多の過失を防止するを得るなり

井口丑二 『世界一周実記』 1904年 経済雑誌社 p.238

※「眉庇」:帽子のひさし。

※「匇卒」:忙しく慌ただしいこと。あわてて事を行うこと。また,そのさま。

【要約】
 前半部分はイギリスで道を尋ねる場合、忙しい他人の迷惑になったり厄介事に巻き込まれる可能性があるので普通の通行者に尋ねるのは禁物で、警察や郵便配達人もしくは商店に入って尋ねた方が良いという内容です。

 後半部分はイギリスの郵便配達人は担当区域が狭く人も多いことに加えて、慌てて配達することによって起きる間違いを防止するためにのんびりとてくてく歩いて配達しているという内容です。

【備考】
 当時の旅行記を読んでいるとイギリスの場合他国と比べて警察官に道を尋ねた方が良いという記述や実際の体験談が書かれていることが非常に多いです。

 他国の場合も警察官に道を尋ねることはそれなりに見かけはするのですが、当時イギリスの警察官の評判の高さに触れられることが多かったので、その点も言及される回数の違いに関係していたのだと思われます。

 最初、郵便配達人に道を尋ねるという内容にピンとこなかったのですが、後半部分のイギリスの郵便配達事情を読んで納得できました。現代だとバイクが一般的ということもあり道を尋ねる相手として郵便配達員はまず最初の候補には挙がらないことが多いと思うので、この点は時代や社会環境の違いが現れていて興味深かったです。

 当時の日本の郵便配達事情についても少し調べてみたのですが、1914年(大正3年)に発刊された「五円までゞ出来る営業開始案内」によれば健脚家や自転車に乗れる人物は電報配達業務に回されているということなので、一般的な配達員は徒歩で配達業務をしていたと思われます。
(社会救済会本部編 『五円までゞ出来る営業開始案内』 1914年 営業紹介社 p.50)

 言われてみれば当然なのですが、電報は現代だとほとんど絶滅危惧種なので納得感も大きいものでした。なお1913年(大正2年)に発刊された「無職者無資本者の顧問」の中では郵便配達夫の勤務時間についても触れられていますが朝6時から夜10時までの16時間勤務とのことでした。(休憩時間も多いという但し書きも一応ありましたがなかなかエグイ勤務時間です)
(岩崎徂堂 『無職者無資本者の顧問』 1913年 戸取書店 p.162)

※当時の日本の「郵便配達夫」
キャプチャ
出典:佐藤緑葉編 『ポケット忠孝百話』 1911年 日吉堂 p.299
 


●こちらはイギリスの議会の様子についての記述です
我邦人は日常の談話に於ても口角泡を飛ばすなど申すことあり、當(とう)國人は演説討論に於ても其静かなる會話(かいわ)の如し、但し議場激励の時は如何なる現象を呈すべきか、予は未だ之を見ずと雖も、恐らく我々の如く勢急ならざるべきを信ず

井口丑二 『世界一周実記』 1904年 経済雑誌社 p.161-162

【要約】
 日本人は普段の会話でも大きい声を出すのに対して、イギリス人は議会の演説でも静かという内容です。また、議論が白熱した場合でも日本ほどではないだろうと推測しています。

【備考】
 このイギリスと日本の比較だと当時の日本の議会は随分と騒々しいように感じますが、先日取り上げた長谷場純孝の「欧米歴遊日誌」ではフランスと日本の議会について次のように言及しています。
紀律の上からいひますれば、日本の議會(ぎかい)よりは餘程(よほど)不紀律のものであつて、我々の目から見ると、甚だ亂雜(らんざつ)なものであります、演説の佳境に入れば拍手喝采をする、又いやな所に行くとノーノーの言葉を發(はっ)する、一度に立って手を叩くと云ふ有様、

長谷場純孝 『欧米歴遊日誌』 1907年 長谷場純孝 p.176


議場が少しく騒ぐと、議長は卓子の上を笏みたやうなもので叩く、叩くと大概鎮まるが、若しそれで鎮まらぬと、机の上にある鈴を取つてチリンチリンと鳴す私が三時間觀て居る中に笏を取つたこと七回、鈴を振つたこと二回か三回あつた、其一般を見ても畧(ほ)ぼ御推察が出來ようと思ひます、

其点に於ては日本の議場の方は、誠に神聖である、議長の卓子に鈴は据えてあるけれども、殆ど二十二議會を開いて此鈴を鳴したことは實に唯一回である、まさしく是は良い事であらうと考へる、

長谷場純孝 『欧米歴遊日誌』 1907年 長谷場純孝 p.213
関連記事

 上記では日本の議会の様子と比べるとフランスの議会は実に騒がしいといったことが書かれているので、この二つの事例だけを考慮したならば議会の騒々しさはフランス>日本>イギリスということになると思いますが、他の文献なども読んでいると観察者によってこの点表現に違いがあり正確に比較するのはなかなか難しいところです。



●ロンドンでの下宿についての記述です。
自室の喫煙は禁止せらる、日本人には是れが一番窮屈なり

井口丑二 『世界一周実記』 1904年 経済雑誌社 p.176

【要約】
 ロンドンの下宿先は室内禁煙で日本人にはこれが一番辛いという内容です。


【備考】
 日本だと禁煙禁煙ということは比較的最近になってから言われだしたことだと思うのですが、イギリスでは当時から禁煙ということが言われていたというのは興味深いものでした。

 明治時代に来日した外国人による旅行記を読んでいると、日本人はよく煙草を吸っているという記述を見かけることが多いです。

 1905年に発刊された「海国史談」によれば天文13年(1544年)にポルトガル人から大友氏に煙草の種子が献上されたのが日本の煙草の歴史の始まりで、慶長10年(1605年)に再び煙草が日本に持ち込まれそこから喫煙が広まっていき、慶長14年(1609年)には煙草が有害であるために初めて喫煙禁止令が出されたとのことでした。
 (足立栗園 『海国史談』 1905年 中外商業新報商況社 p.254)



●こちらは日本人がイギリス人からよく尋ねられることについての記述です。
最初の挨拶、貴方がたは誠に大國民となられましたといふは男子にして、貴方は倫敦(ロンドン)を如何思召しますか或は倫敦は貴方に適當(てきとう)する様で厶(ござ)いますかなどいふは寧ろ女子なり、

日本にも汽車がありますかなど問はるることもあり、貴方がたは志那語は無論お使ひなさるであらうといはれたること珍しからず、甚だしきは貴方がたは阿片烟(あへんえん)をお上りなさらうと問はれたることさへあり、日本の暑いといふこと(或は熱帯の看をなすものさへあり)景色の好いといふこと、大海軍を有すといふこと(眼の前にて多數の軍艦を造り居る故)は知らぬものなく、其他皇帝をミカドと申し奉ることは概ね承知し、人力車とレデイ(藝妓)の衣装は見世物さては芝居にて見たりといふもの多し

日本に絹多き事は有名にして、予等の粗末なる半巾さへに馬耳塞(マルセイユ)よりして羨稱せられしが、當地にても日本人は悉く絹を着て居ると思ひ居るもの多きが如く、婦人語りて日本人の風俗に至れば毎に其絹衣の美を稱す

井口丑二 『世界一周実記』 1904年 経済雑誌社 pp.179-180

【要約】
 前半部分はイギリス人男性からはロンドンで何をするかということをよく聞かれ、イギリス人女性からはロンドンの感想をよく聞かれるという内容です。

 またよく質問されることとして汽車があるか、中国語を使うか、阿片を吸うかということがあり、日本についてよく知られていることは暑さ、景観、精強な海軍、人力車、芸妓、絹で、日本人は誰もが絹を着ていると思われていることが多いというのが後半部分の内容です。


【備考】
 男性と女性で頻繁に尋ねられることが違っているというのは中々興味深いものでした。よく日本人は外国人に日本の感想を尋ねるということがネタにされていますが、イギリス人女性がロンドンの感想をよく尋ねてくるというのはそれと似たところがあって面白かったです。

 日本と中国が混同されているというのは現代でもよく耳にすることなので特に目新しいことではありませんが、「日本人は悉く絹を着て居ると思ひ居るもの多き」という箇所は当時の日本に対するイメージがよく反映されていると思います。マルコポーロの時代が「黄金の国ジパング」だとしたら、この時代ではさしずめ「絹の国ジャパン」といったところでしょうか。

 私がヨーロッパ旅行をした時タクシーの運転手と話していると「日本は科学技術が進んでいるイメージがある」と言われたことが何度かあったのですが、会話の中で沢山ボタンの付いているトイレの話題を振られたことがありました。

 コペンハーゲンの人魚像を見に行くときにタクシーを利用した時、運転手の方から実際に日本にはボタンが沢山あるトイレは存在するのかと聞かれたので、自宅にあるトイレは確かに色々ボタンがついていますと答えると嬉しそうに笑っていました。

 海外掲示板を覗いているとボタンが沢山ついた日本のトイレが時折話題になっているのを見かけるのですが、実際に外国の人(場所はコペンハーゲンでしたが中東系の顔立ちでした)からその話題を振られると「ほへー」という感じでした。

※関連画像
maxresdefault
※「WTF」は「は?」といった感じの意味です。



●ロンドンの公衆トイレと屋内トイレについての記述です。
倫敦の便所。邦人始めて歐羅巴(ヨーロッパ)に來りて第一に困るは便所なるが、當地は歐洲中此點(このてん)に於ては最良と稱せられざるに拘はらず、左程不便もなかりけり

(中略)

是等の種類の便所は若し其標文を讀(よ)み得ざるものと雖も、場所の模様にて推測し得べし、最も困るは屋内の便所なり、日本の家は間取りの模様にて分れど、洋館は中々左様に参らず、主人の寝室の戸も便所の戸も同様にして、或は便所の入口に大時計かけたる家さへあり、推測を以て之を知ること頗る困難なり、

井口丑二 『世界一周実記』 1904年 経済雑誌社 p.212

【要約】
 ヨーロッパで日本人がまず最初に不便に思うのが公衆トイレであることと、日本家屋の場合間取りからトイレの位置を推測できるものの西洋の家ではどこにあるか推測できず、これといった特徴もないので見つけるのが難しいという内容です。

【備考】
 現代でもヨーロッパ旅行で困ることに公衆トイレが有料であることを挙げる人は多いのではないかと思います。料金自体は1ユーロ前後なので大した負担ではないのですが移動中常にその分の小銭を保有していないといけないと意識するのはちょっと負担でした。

 トイレが有料な割にはそれほど綺麗ではないことが多いというのが正直な感想です。勿論、ピッカピカのトイレに入った経験も何度かありますがどちらかといえば少数派に属します。

 記述後半部分の日本の家では感覚的にトイレの位置が分かるのに対して、西洋の家だとトイレの位置が分かりにくいというのはとても共感できました。トイレの案内が日本と比べて明確ではないということに加えて、公衆トイレでもどれがトイレか初見だと分かりにくいということもあるのでトイレの位置に注意していた方がいざという時慌てなくて済みます。



●こちらは西洋人の宗教観についての記述です。
曰く君の新聞は基督教主義か、曰く否な、佛敎主義か、曰く否な、神道主義か、曰く否な、然らば君等は何の宗教か、曰く何の宗教にてもこれなし(氏稍々驚けるの色あり)曰く何等の宗教を授くるか、曰く何等の宗教をも授けず、亦何等の宗教をも傷けず、我等の主義は只自由なり云々、

依つて予は今日の日本に於て政治と宗教の混同すべからざる所以を説きしに、氏稍々了解したるが如くなれど、猶中々に満足せず、更に詢々として宗教の人生に必要なる所以を説く、如何にも予等の無宗教、乃至宗教無關係主義は、當國人には奇異の咸を與ふべく思はる

井口丑二 『世界一周実記』 1904年 経済雑誌社 p.223

【要約】
 新聞記者である井口丑二がユーゼンストツクという学者と会った時、その新聞はキリスト教系か仏教系か神道系かと尋ねられ、井口丑二が特に宗教系の新聞ではなく特定の宗教を褒めたりも貶したりもしないと答え日本の事情を説明したところ、一応納得はされたもののなお判然としない様子だったという内容です。

【備考】
 こういう宗教の存在を大前提とする考え方は大変西洋人らしいもので興味深い記述でしたが、これを読んで新渡戸稲造が「武士道」の序の中で武士道について書くきっかけとして、外国人から宗教教育が無いことに驚かれ、日本人はどのように道徳教育をするのかと尋ねられたことを回想していたことを連想しました。
宗教問題に渉るや、老教授予に問ふあり、『君の説の如くんば、日本學校に於ては、宗教教育を施すこと無き乎』と、予乃ち答ふるに其の之れ無きを以てするや、氏は愕然として、猛かに其歩を停め、『噫、宗教無き乎。然らば徳育を奈何にかする』と咨嗟するもの數次なりき。

當時予は此質問に窮し、直ちに以て答ふるの辭を知らざりしもの、又た故無きに非らず。予の少年にして學びたる道徳の教訓は、之を學校に於てせず。而して善惡邪正の自家の概念を成せる、種々の原素を分析するの日に至りて、始めて、此概念を予の鼻腔に吹き入れたるものの、惡に武士道なりしことを知れり。

新渡戸稲造 『武士道』 1908年 丁未出版社 pp.9-10

 現代でも西洋人と日本人では宗教観が違っていてカルチャーショックということはよくあることですが、当時は特に顕著だったようで日本人と西洋人どちらの旅行記においても宗教観の違いに言及していることが多いです。

 更に現代の日本人と当時の日本人では宗教観が共通している部分もある一方で、随分異なっている個所も多いので一粒で二度美味しい経験を味わうことが出来ます。



●こちらはイギリスのよく分からないところについての記述です。
當地の所謂市は古代の市、何百年前の市か、今は實際(じっさい)倫敦市街の一小部分たるに過ぎざるに、猶其部分に限りて市名を冠し、世にも仰山なる大市長(寧ろ大臣以上の榮職なり)ありて之を治む、萬事理屈ツぽき日本人の頭腦には、誠に譯(わけ)の分らぬ様なはなしなるが、英國人の特性なるもの、概ね這般(しゃはん)の點に在りて存せり

井口丑二 『世界一周実記』 1904年 経済雑誌社 pp.229-230

※「這般」:《「這」は、中国宋代の俗語で「此」の意》(多く「の」を伴って)これら。この辺。このたび。今般。「這般の事情により」

【要約】
 ロンドン市はロンドンの一部でしかないのに「ロンドン市」となっていることが理屈っぽい日本人には分かりにくいという内容です。


【備考】
 井口丑二がロンドン市は名称と実態が合致していないという例を挙げて、「萬事理屈ツぽき日本人」には分かりにくいと述べているのは大変興味深いものでした。

 日本人が理屈っぽいかそうでないかは大いに議論の余地があり、なかなか結論を出すのが難しい問いだとは思いますが、それはひとまず横に置いて、日本でもこのような名称と実態が合致していないという例は探すと結構あるような気がします。

 現代の日本だとサウザンドリーフ県にあるにもかかわらず東京の名を冠しているネズミー王国などの例もあったりするのでロンドン市のような例はむしろ可愛いレベルかもしれません。

シティ・オブ・ロンドン(英: City of London)は、イングランドのロンドン中心部に位置する地区である。周辺地域とコナベーションを形成し、現代のメトロポリス・ロンドンの起源となる地域で、範囲は中世以降ほとんど変わっていない。

750px-City_of_London_in_Greater_London.svg

シティ・オブ・ロンドン



●こちらはイギリス人、アメリカ人、フランス人のそれぞれに対する批評についての記述です。
倫敦人の曰く
米國人は英語を知らず、米國人は取り外づしのカフスを用ゐる程ケチなり

米國人の曰く
英國人は土鼠(もぐら)の如く地下を潜り(地下鐵道を指す)鳥の如くに馬車の屋根の上にとまりてゆられてゆく程(バスを指す)呑氣なり

倫敦人の曰く
巴里は寺院の軒下に妖婦が住む様な所なり

巴里人の曰く
倫敦の公園を散歩すれば霧の中より盗賊現はれ、上衣を後ろに押しまくりて、ポケツを攫つて去る、倫敦は左様な所なり(上衣を後ろにまくれば、手を動かす能はざるなり)

井口丑二 『世界一周実記』 1904年 経済雑誌社 pp.244-245

【要約】
 ロンドン人はアメリカ人のことを英語が下手でありケチと考えて、パリは教会の近くに娼婦がいるような場所だと思っており、アメリカ人はイギリス人のことをモグラのように地下に行く(地下鉄)と考え、パリ人はロンドンは強盗が多い場所だと考えているという内容です。


【備考】
 当時の各国のステレオタイプのようなものが垣間見れるとても興味深い記述でしたが、何気に井口丑二が「モグラ」のことを「土竜」ではなく「土鼠」と書いているという事実も面白いものでした。

 当時の他の文献などを調べてみたところ「土鼠」よりも「土竜/土龍」と書かれることの方が相対的に多かったようですが(例:堀正太郎、藤田経信 『新撰博物示教』 1896年 富山房 pp.140-141)、一応両方使われていたようです。

 現代ではモグラのことを「土鼠」と書かれることはないので、この百年余りの間にモグラは「土の鼠」から「土の竜」へ完全な進化を遂げたことになりますが、これはひょっとすると鯉から竜への進化に匹敵するほどのものかもしれません。

 

●こちらはサンフランシスコで悪口としてよく知られている日本語についての記述です。
彼等日本人さへ見れば助平と呼ぶ、事のもとをたづぬるに、是は當國の船乗りが橫濱(よこはま)かにて此一語を學んで歸(かえ)りしが、漸次(ぜんじ)流傳(るでん)して今日にては一般流行の惡口とはなれるなりとぞ

井口丑二 『世界一周実記』 1904年 経済雑誌社 p.385

【要約】
 サンフランシスコの人間が日本人を見ると「助平」と言うのは、アメリカ人の船乗りが横浜でこの言葉を学び帰国してこれを広め、よく使われる悪口となったためという内容です。

【備考】
 海外掲示板を覗いていると英単語化している日本語をよく見かけますが、最近見た中で面白かったのは以前このサイトでも紹介した「isekai」が動詞として使われていることでした。
 関連記事
 「英語圏で『ISEKAI(異世界)』が動詞として使われる」海外の反応

 ちなみに記述内の「助平」に関してですが、海外掲示板(特にアニメ関連)で「sukebe」として使用されているのをちょくちょく見かけます。ただ記述内のように悪意を込めて使っているという感じは特にありません。

 ※関連画像
 baka-ecchi-sukebe
 ※「Harem MC」は「ハーレム主人公」という意味です。




キャプチャ


「ドイツ海軍士官による日本とドイツの海軍力比較 etc」(明治時代の海外旅行記:『黒白集』)


 こちらは明治33年(1900年)から六年間ドイツに留学した泉谷氐一による欧州諸国の旅行記/滞在記(『黒白集』)で、興味深かった記述や当時の社会の様子が窺える記述をまとめた記事です。

 著者の泉谷氐一がどういう人物かについては調べましたが詳しいことは分かりませんでした。

 なお、引用箇所の一部には現代の基準だとあまり良くない表現がある場合もありますが、歴史的記述であることを尊重し一切手を加えていません。

※国立国会図書館のデータベースでは著者は「泉屋氐一」となっていましたが、本文内の署名では「泉谷氐一/泉谷黒白」となっていました。この記事では表記を「泉谷氐一」で統一しています。


参考文献:泉谷氐一 『黒白集』 1908年 泉谷氐一




●こちらはドイツ海軍大尉による日本とドイツの海軍力の比較を泉谷氐一が引用した箇所です。
人は偶然にも此の兩艦の比較を試み、同時に日獨兩國海軍と對照するの意を生じた。専門家が筑波に對して受る大なる印象は、其最も威力ある備砲と之に反して比較的低き舷側にあつた。

此の筑波とドイチランドとの主要なる比較の結果は、一般公衆をして明らかに此の日本の一巡洋艦が我最强力なる戰鬭艦と比較して大なる遜色なきを知らしめる。

(中略)

次ぎに吾人は眼を轉(てん)じて兩國海軍の現狀を觀察しやう。但し之を戰鬭艦と巡洋艦との二種の比較に限らう。何となれば此の兩種の艦型は、抑(そもそ)も唯一の海軍戰鬭力を表示するものであるからだ。

戰鬭艦の艦數に於ては、獨國海軍は日本の其れよりも多い。然もそれは只數(かず)に於てのみ然りで、尚精細なる觀察の結果は吾人は日本戰鬭艦の數學上の下位は、優に其の実質に於て競争し得べき事を認識する。

泉谷氐一 『黒白集』 1908年 泉谷氐一 pp.145-146

【要約】
 上記は明治40年(1907年)「七月十九日發行の獨國陸海軍雜誌ユーバーアル第四十三號」に掲載されていた文章を泉谷氐一が引用したものであり、署名はないもののおそらく「海軍大尉伯爵レヴエントロー氏」によるものだろうと泉谷氐一は推測しています。

 ドイツの都市キールの港に日本の巡洋艦「筑波」とドイツの戦艦「ドイッチュラント」が停泊していた時にこの両艦を比較したものであり、更に日本とドイツの海軍力の比較もしています。

 前半部分では「筑波」と「ドイッチュラント」を比較し、日本の巡洋艦がドイツ最強の戦艦と遜色がないことに言及しています。

 後半部分では「海軍力」を巡洋艦と戦艦によるものであると定義したうえで、日本とドイツを比較し、戦艦の数ではドイツが上回るものの実力の面では伯仲しているとしています。


【備考】
 あまり軍事方面の知識には明るくないので「筑波」と「ドイッチュラント」について調べてみたのですが、素人目線で見ると外観だけだと「ドイッチュラント」の方が戦艦らしい物々しさや重厚感が感じられたので「筑波」と比較して「一般公衆をして明らかに」、「大なる遜色なきを知らしめる」としているのは意外でした。

 ただ、「筑波」は全長144.78m、全幅22.86mで、「ドイッチュラント」の方は全長127.6m、全幅22.2mなのでサイズ的には結構近いのでその点が関係しているのかもしれません。

 後年「筑波」と同型艦の「生駒」がワシントン海軍軍縮会議において戦艦と定義され廃棄処分になったという事実から見ても「遜色」ないものだったのだと思われます。

 ※「筑波」
 Japanese_cruiser_Tsukuba_2
 関連:筑波 (巡洋戦艦)

 ※「ドイッチュラント」

 戦艦と巡洋艦をどう定義するかというのは時代によっても違いが出ると思いますが、1915年発刊の「現代海上の兵備」によれば、1906年(明治39年)頃までは排水量が15000トン前後、速力17-18ノット、主砲として12インチ砲を四門備えているものを一般的に戦艦と定義していたと書かれていました。

 後半部分では戦艦と巡洋艦が海軍力であると定義されていますが、当時の海軍事情が窺えて興味深い記述でした。現代であれば空母(打撃群)やイージス艦が海軍力の定義というイメージが個人的にはあるのですが軍事知識に明るい方からすれば違っているかもしれません。

 上記の比較の中では戦艦の排水量、速力、艦砲の大きさや口径に特に焦点が当てられて比較がされていることから当時はこの三要素が軍艦で重要だったということがよく分かります。ミサイルなどが発達した現代だとむしろ搭載されているシステムやステルス性の方が重要になっているのではないかと思うですが、こちらは軍事知識に明るい方の意見を聞いてみたいところです。



●こちらはイギリスと日本の艦砲比較をした記述です。
武装の種類に關しては、各國海軍ともに相異なつて居る。例へば英國海軍が其の新戰鬭艦ドレツドノートの如く、單(たん)に一様に三〇、五珊(サンチ)砲の最重砲を並列せるに拘はらず、日本は中型砲にも重きを置けるは、何等か適切なる理由のあるべきことを信ずるに足るべし。

泉谷氐一 『黒白集』 1908年 泉谷氐一 p.156

【要約】
 上記も先ほど同じく「獨國陸海軍雜誌ユーバーアル第四十三號」に掲載されていた「海軍大尉伯爵レヴエントロー氏」(推定)による文章を泉谷氐一が引用したもので、イギリスの軍艦が大型の艦砲を搭載することを重視している一方で、日本は中型の艦砲も重視していることを取り上げそこには何か理由があるのだろうと推測しているという内容です。

【備考】
 果たして当時の日本海軍が実際に中型の艦砲も重視していたかという点については色々文献を紐解いてみたのですが判然としませんでした。

 ただ、1908年(明治41年)に海軍編輯局が発刊した「軍艦生活」では大砲と装甲がいたちごっこで強化された結果重量が重くなりすぎて操縦性に問題が生じ、大砲の威力を上げることによる有効性も認められなくなったことから12インチ砲が上限になっていったと書かれていました。



●こちらはイギリスの地下鉄の切符についての記述です。
チユーブ卽ち地下鐵道(てつどう)は實(じつ)に便利であることは言はずもであるが然し入口で切符を買てさて大陸のそれの如く改鋏(かいきょう)されるかと思ふと左様でない、唯番人の立てる横にある木箱中に各自唯投げ込むで構内に入るので自分の少々危險だと思ふのは一人宛の時は勿論惡い事は出来ないが若し同勢多數(たすう)の場合は切符を一括して投げ込む故其監督の道がない、

イヤ是れが所謂英國流卽(すな)はち世界の紳士國で紳士は惡い事はせぬものといふ原則から割り出されてあるのだ、

※「改鋏」:駅などで係員が乗客の乗車券にはさみを入れること。入鋏 (にゅうきょう) 。
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E6%94%B9%E9%8B%8F/

泉谷氐一 『黒白集』 1908年 泉谷氐一 pp.28-29

【要約】
 イギリスの地下鉄では改札で切符を木箱に投げ入れるシステムになっていて、複数人が一緒に通る場合はまとめて切符を投げ入れるので不正が出来るようになっているものの、紳士はそんなことをしないという信頼からこのような仕組みになっているという記述です。

【備考】
 イギリスでは切符がただ乗りを防ぐ為のものではないということは、当時旅行した日本人がよく言及していることであって、先日の記事では紹介しなかったのですが田村哲の「外遊九年」の中でも次のように触れられています。
英國に於いては、電車内で切符を売り付けるが、乗客は之れを賣ふと直に捨てて仕舞ふ。之を知らないで、下車する時、日本流に切符を車掌に渡すと、車掌は妙な顔をして見て居る位だ。此の切符は何人乗車したかを知る爲の切符で、唯乗りを拒ぐ爲のものでない。

日本の電車で切符を賣るのは唯乗りを拒ぐ爲で、つまり乗客を馬鹿にした仕打である。又此の頃は乗かへ切符などは一層嚴しくなつて来た。これといふのも日本人に唯乗りするものが多いからだ、即ち公徳心に欠けて居るからだ。

田村哲 『外遊九年』 1908年 目黒書店 p.132
関連記事

 現代のドイツでも改札が無かったりするのでこのような経験をしたことがある方もいると思いますが、イギリスで電車や地下鉄を利用した時はどこも改札がありきっちり切符(交通系電子カード)は管理していたので、これをあえて意地の悪い見方をすれば当時と比べると紳士が減ったということになるでしょうか。



●こちらは道路で倒れている酔っ払いに対するイギリス人警察官の対処の仕方についての記述です。
驚いたのは下等婦女の飮酒癖で試みに夜バアの表より覘いて見ると随分澤山(たくさん)ウヰスキーの立食をやつて居る、殊に土曜日の夜遅くなどは屡々(しばしば)路傍に行き倒れとなつて居るのを目撃した、すると又例の六尺巡査が其第一義たる所謂人民保護者として殆んど終夜側らに護衛して覺醒する迄去らないといふ、自分も巡査の立て居るのは確かに見た、これも大陸と違う所だ、

泉谷氐一 『黒白集』 1908年 泉谷氐一 p.29

【要約】
 イギリスで下層階級の女性がよく酒を飲むことに驚き、道端でそういった女性の酔っ払いが倒れている時に警察官がその人物が目を覚ますまで近くで一晩中立って見守っていたところを目撃したことを挙げて、イギリスのこの点はヨーロッパ大陸の国とは違っているとしています。

【備考】
 現代日本であれば酔っ払いが道端で倒れていた時は警察は声をかけ、帰宅が困難な場合は一時的に保護房に入れるというのが一般的だと思うのですが、上記ではイギリスの警察官が特にそのようなことはせず泥酔者が目を覚ますまで一晩中傍らで見守っていたというのがちょっと面白かったです。

 最初単にこの警察官がそうした対応をしただけなのかもしれない可能性も考えましたが、泉谷氐一がこのことをヨーロッパの各国とが違う点として言及していることから当時のイギリス警察は一般的に泥酔者に対してはこのような対応をしていたのかもしれません。

 ちなみに当時の日本の警察官が泥酔者に対してどのような対応を取っていたのかも興味があったので調べてみたのですが、1918年(大正7年)発刊の「警察実務書式」では泥酔者にはまず帰宅するように声をかけ、一人で帰宅することが困難なようであれば一時的に「檢束(※拘束の意)」すると書かれていたので大体現代と同じだったようです。

 ちなみにこの時警察官は行政執行法第一條を適用すると書かれていたのですが、行政執行法第一條で泥酔者(およびその他)への対応が規定されているのは当時の実情が反映されているようでなかなか面白いものでした。現代ではこれに代わるものは行政代執行法ですが第一条では適用範囲が定められています。

第一條 當該行政官廳ハ泥醉者、瘋癩者自殺ヲ企ツル者其ノ他救護ヲ要スト認ムル者ニ對シ必要ナル檢束ヲ加ヘ戎器、兇器其ノ他危險ノ虞アル物件ノ假領置ヲ爲スコトヲ得暴行、鬪爭其ノ他公安ヲ害スルノ虞アル者ニ對シ之ヲ豫防スル爲必要ナルトキ亦同シ



第一条 行政上の義務の履行確保に関しては、別に法律で定めるものを除いては、この法律の定めるところによる。




●こちらは日曜日のイギリスの様子についての記述です。
英國の日曜日は吾々の閉口する事で無論宗教上誰が何といはうが駄目ではあるが、先(ま)づ商店の店を鎮(と)ぢるは兎も角として料理店の休むには往々飯を食ひ外づす奇觀を生ずる、

次ぎにチト極端だと思ふは交通機關の運轉(うんてん)休業卽(すな)はち郵便はまだしも鐵道(てつどう)が休みで滊車が出ないなどは吾々の最も不愉快に咸じた所だ、そこで萬民衆庶も教會行が濟むとゾロゾロ公園へ出掛ける、

泉谷氐一 『黒白集』 1908年 泉谷氐一 p.29

【要約】
 イギリスでは日曜日に店や飲食店が閉まり、更には汽車などの交通機関まで運行しなくなるので大変不便であり、イギリス人は教会が終わったら公園に向かうという内容です。

【備考】
 当時西洋諸国を旅行した日本人はこのように日曜日に店が閉まっているのは不便だとよく旅行記で愚痴をこぼしています。

 ただ店が閉まっていることについての言及はよくあるのですが交通機関まで運行しなくなるという記述はあまり見かけなかったのでその点でこの記述は興味深いものでした。

 現代でもドイツなどには閉店法があったりしますが、結構緩和されてきているという話題を海外掲示板では見かけることがあります。ヨーロッパを旅行した時、日曜日に交通機関が運航していないという経験はしませんでしたが、ひょっとしたらそういう国もあるのかもしれません。

ドイツにおける閉店法(へいてんほう、独:Ladenschlussgesetz、LadSchlG)とは、小売店の閉店時間を規制するドイツ連邦法である。閉店法が現在の制度として制定されたのは1956年11月28日からであり、ドイツ労働組合らの圧力によるものであった。

現行の2003年8月2日制定法では、販売部門は以下の時点で閉店する必要がある。

    日曜および公的祝日。
    労働日(月曜から土曜)については、6:00未満もしくは20:00以降
    12月24日では、この日が労働日である場合は6:00未満もしくは14:00以降

同法では、薬局、ガソリンスタンド、駅、空港については別途個別の規定がある。




●こちらはスウェーデンの電力、電話事情についての記述です。
第一スカンヂナビヤは細長き國で中央の山脈と海岸とが頗る近く、卽はち土地の高低の激しき所で而して水が馬鹿に多く到る處湖水あり随て川だらけで今全國から湖水を引き去ると尠(すく)なくも三分の一の面積を失ふだらう、

是等の結果水利の便は頗る多くイヤでも此天恵を利用して水力電氣は随處(ずいしょ)に起る、經費は廉(れん)であるから是等文明の利器はドシドシ普及する、恰(あた)かも小田原の漁師家に電燈が點ぜられる理屈で、茲(ここ)に一例を擧(あ)ぐればストツクホルム中流以上の家には其商家と役人たるとを問はず電話が三個宛ある、

電話は官營(かんえい)と民業と二つあるので勢ひ官吏は官營に加入し商家は民業に加入する、かうなると矢張り兩方に加入する必要が起る、加入料は比較的廉(やす)いので大抵二つかける、第三電話は自宅内用で居間や客室や臺所(だいどころ)と無暗に引いてある、

泉谷氐一 『黒白集』 1908年 泉谷氐一 p.77

【要約】
 北欧は土地柄水力発電が盛んで電気代が安いので、小田原の漁師の家に電灯が普及するように電話が普及しやすく、ストックホルム(スウェーデン)の中流以上の家庭では官営の電話と民営の電話と自宅内用の電話の計三台が備えられているという内容です。

【備考】
 中流以上の家庭に電話が三台あるというのも興味深い記述でしたが、水力発電が盛んで電話が普及しやすいのを「小田原の漁師家に電燈が點ぜられる理屈」という風に例えている点は大変興味深かったです。

 以前の記事で仲小路廉の「欧米巡遊雑記 米国之部」を取り上げた時、客室が暗くて苦労した話の時に、1933年に出版された「四半世紀の電気と機械」によれば日本で電球製造の基礎が確立したのが明治38年(1905年)のことで、その頃はまだ暗い夜には提灯を使用していたという記述がある、ということを紹介しましたが、まだまだ当時は普及過程の段階だった中で早くから普及していたのが上記のような事情で「小田原の漁師家」だったことは当時の様子が窺える大変参考になる記述でした。

関連記事

 昔こち亀を一気読みした時、PHSと携帯では通話できないためそれぞれ一台ずつもっているというエピソードを読んだことがあるのですが、この当時のスウェーデンの中流以上の家庭では電話を三台持っているという記述はそれを連想させる話でした。

 この携帯とPHSの二台持ちというのはてっきり昔の話だと思っていたのですが、ググってみると結構最近までそうしていたという話がちらほらあったので意外でした。かつては二台持ちが一般的というのも間違いないようなのですが、その「かつて」が大体どの年代なのかということまでは分かりませんでした。

 ウィキペディアによれば1997年9月に総計約数710万台でピークを迎えてからは減少傾向となり、2004年に500万台を割ったようなので大体その頃なのではないかと思います。
 関連:PHS



●こちらはスウェーデンでは車掌が配達をしていることについての記述です。
今一つ他国にない便利は市中の廣場(ひろば)に毎日市場がたつ、肉あり野菜あり生活用品一切ある、然るに此各箇の屋臺(やたい)店へ中央の大電柱から無數の電線が下りて居る、自分は始め電燈線だと認定して居たらそうでない、

皆電話線で、方々から電話で肉一斤野菜若干を注文し品物は直ぐに何町角の電車停留所迄届けろといふ、すると荷造りして送り狀をつけて電車の車掌に渡す、車掌は一面乗客の世話を燒くと同時にポツケツトに澤山の送り狀を入れて居て一々荷物の送り先きを現品と照り合はせて調べてきて指定の停留所に来ると誰も居ないのに無言で荷物と送り狀とを路傍に置き去りにしてズンズン進行する、

注文主はよい加減の時分に停留所に下女を派して澤山轉(ころ)がつて居る荷物の中から勝手に取り出して持て歸(かえ)る、取りに来なければ何時迄も轉がつて居る譯全く日本否東洋では想(おもい)もよらぬ事柄である、尤も此電車送達は市内繁華な所ではやらないらしく自分の實地見たのは丁度神戸から須磨といふ如き市外の別荘地である、

泉谷氐一 『黒白集』 1908年 泉谷氐一 p.78

【要約】
 市場の屋台に電話線が引いてあり、注文があるとそれを荷物としてまとめ送り状をつけて車掌に渡し、車掌が各駅でその荷物と送り状を置くと注文した家のお手伝いさんがその荷物を取りにくるという内容です。

【備考】
 車掌が通常業務に加えて、駅までとはいえ配送業務も担当していたというのは随分忙しいのではないかと思ったのですが、記述の後半部分で市内の人が多いところではこのようなことはしておらず「神戸から須磨」のような市外の別荘地でされていると説明されていたのでこういう業務が可能な程度には乗客が少なかったのかもしれません。



●こちらはベルリンと日本の給水事情についての記述です。
全体伯林市上水の設計は最初の水源地テーゲル湖と此所とで市民の使用量一人一日百リートルとして人口二百五十萬人に對する準備になつて居るが實際は平均百リートルは多年の經驗上要らないそうであるから市の人口が豫定(よてい)以上に増加しても大丈夫である、

これ等壯大の設計を見るにつけ我日本のそんじよそこらの水道が冬の内から毎日斷水などと騒いで居るのは實(じつ)に耻(はず)かしい次第で、學校では人は萬物の霊長なりなどやつて居るけれど事實の上に於て其尊(たっ)とき人間の死活問題に對(たい)しては頗る冷淡である、イヤ日本人はまだ野蠻(やばん)などいはれても吾々は全く辨解(べんかい)することが出来ない、

泉谷氐一 『黒白集』 1908年 泉谷氐一 p.96

【要約】
 ベルリンでは250万人が1日100リットルの水を使用できるようになっているのを、日本では冬に毎日断水しているのと比較している内容です。


【備考】
 断水というのは夏によく起きているというイメージなので、この記述では断水が起きる時期として冬を挙げているのが少し不思議でした。

 念のために調べてみたところ、一つの例として1904年に横浜市水道局が発刊した「横浜市水道誌」には明治23年から明治34年までの12年間の給水事情についての記述があるのですが、そこでは大体6月から9月にかけて給水制限もしくは断水を実施したという記述がちらほらあり、冬の間に断水をしたという記述は見かけませんでした。

 上記の記述では「冬の内から」という文章なのでおそらくは夏に断水が起きるのは当然のことで、冬にも起きているということを強調するためにこういう書き方をしているのではないかと思います。




キャプチャ
其競争につれて艦砲も幾變化(へんか)した。そして威力の大なるものを欲した結果、十九世紀の半頃から非常な發達をして、主砲として用ゐられるものは、十吋(インチ)十八頓(トン)砲といふ巨大なものになり、更にそれが進歩して、十二吋二十五頓砲となり、更に更に進歩して十七吋百四頓砲といふやうな絕大なものをさへ搭載するやうになつたのである。

参考文献:「海軍」編輯局編 『軍艦生活』 1908年 光村出版部 p.12


「大和」が世界最大という根拠は「排水量」になる。排水量とは、船の大きさではなく重さであり、つまり「大和」が「世界で最も重い戦艦」だったことを示している。重量がかさんだ原因のほとんどは、18インチ砲のためだ。3連装砲1基で通常の駆逐艦ほどの大きさがあり、それを3基も搭載している。

第20回 戦艦大和の防御構造に学ぶ効率的な守り方(前編) (1/3)

「唇の動きで外国人だとヘレンケラーに気付かれた話 etc」(明治時代の海外旅行記:『外遊九年』)


 こちらは明治時代の気象学/海洋学者である田村哲が明治31年(1898年)から明治39年(1906年)までアメリカ合衆国の大学に在籍し、欧米各国を数か月訪れた時の旅行記/滞在記(『外遊九年』)で、興味深かった記述や当時の社会の様子が窺える記述をまとめた記事です。

 なお、引用箇所の一部には現代の基準だとあまり良くない表現がある場合もありますが、歴史的記述であることを尊重し一切手を加えていません。


田村哲 『外遊九年』 1908年 目黒書店
関連記事
【宣伝】暇劇の同人誌(『幕末・明治期の西洋人が見た日本(絵画篇)』)が完成しました。
【宣伝】暇劇の同人誌第二弾(『幕末・明治期の西洋人が見た日本(入浴文化篇)』)が完成しました。

※YouTubeにも動画としてアップしました(https://youtu.be/xZtwOcohjko)
[PR] 暇は無味無臭の劇薬のYouTubeチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UC_yC7ccaessdpgHzsoPD7Yw

明治時代の海外旅行記で面白かったところのまとめ
https://www.youtube.com/playlist?list=PLuw-ZwMGqW3ZcmQICv8NxZpn0uiUzy1SM




●こちらは田村哲がヘレンケラーと初めて会った時、唇の動きで外国人であることに気付かれたことについての記述です。
予が嬢と會談した時も、予の話しは、指先を吾が唇に觸(ふ)れて理解し、夫れから返答した。

ベル博士が予の姓名を告げず、唯だ若き友として予を嬢に紹介された時、予は I am glad to meet you(御目に掛つて嬉しう存じます)と云ふた處、嬢は同様の返事をして、さていふ様「あなたは米國人ではおありなさらないでせう」と、予は非常に驚いて、日本人であると答へたるに、嬢は微笑して、So you are a Japaneseの數語(すうご)を洩した。

嬢は予が談話中、唇の運動と、口から出る空氣の振動とに、米國人のそれに異る處あることを指先で咸じたのである。

田村哲 『外遊九年』 1908年 目黒書店 pp.210-211

【要約】
 田村哲が電話を発明したグラハム・ベル博士の自宅でヘレン・ケラーを紹介された時、ヘレン・ケラーは相手の唇に自分の指を触れて何を話しているかを理解する触指法によって挨拶を交わし、田村哲の唇の動きと空気の振動だけで彼がアメリカ人ではないことを見抜き、それに田村哲が驚いたという内容です。

【備考】
 ヘレンケラーが聴覚、視覚を幼少期に失った人物で、彼女が相手の唇に触れて話していることを理解していたということをご存知の方は多いと思いますが、唇の動きや空気の振動だけで相手が外国人であることを判別できたということを知っている人は少ないのではないでしょうか。

 私はこのことは初耳であり、唇の動きだけで外国人かどうかを判別することが出来るということには驚きましたし、図らずもヘレンケラーという歴史上の有名人の逸話を新しく知ることが出来たことも嬉しい驚きでした。

 読唇術はこれと似たような技術だと思うのですが、ひょっとしたら唇の動きを見るだけで外国人かどうかを判別できる人がいるかもしれないかと思うと、事実は小説よりも奇なりと言う言葉を思わずにはいられません。



●こちらはアメリカと日本の教育機関の違いについての記述です。
米國には、一定の教育制度といふものはない。日本に於いては、文部省といふ一機關があつて、大學より小學校に至るまで、官立私立を問はず世話をして居る。

然るに、米國の如き文化の盛なる國に文部省といふ如きものはないのである、唯だ米國中央政府の内務省に、教育局 Bureau of Education といふ一局があるのみで、而(し)かも其の事業は、米國の教育を司るのでなく、ただ教育上の統計を取るのが主な仕事である。

田村哲 『外遊九年』 1908年 目黒書店 pp.49-50


米國教育の精神は、個々の特性を十分に發達させると同時に、常識に富んだ圓滿(えんまん)なジェントルマンを養成するにあるのである。

故に亂暴(らんぼう)な子供でもジェントルマンなる一語の前には大人しくなる、女子も同様である、そんな風ではレデイになれないというて叱れば、直(す)く立派になる事でも明らかである。

田村哲 『外遊九年』 1908年 目黒書店 p.53

【要約】
 ①日本では文部省が小学校から大学までを管轄しているのに対し、アメリカ合衆国では文部省に相当するものが存在せず、ただ教育局が統計を取っているにすぎないという内容と、②アメリカでの教育は個性を伸ばすことと紳士淑女を育てることを重視しているという内容です。

【備考】
 一応アメリカ合衆国でも1979年に教育省が誕生し、全国の統一的な基準をある程度定めてはいるようですが、英語版ウィキペディアでも教育省が全国の学校の管轄権を有していないことに触れられていました。
 関連:United States Department of Education
   :https://www2.ed.gov/about/what-we-do.html

 現代でも日本では統一的な指導要綱があるのに対して、アメリカ合衆国では州や学区によってカリキュラムがバラバラだということはよく知られていることだと思います。そのためアメリカ合衆国では教科書が分厚いものばかりで、授業では内容の一部にしか触れられないことが多いのですが、海外掲示板を覗いているとそういう話題がちょくちょくされているのを見かけます。
 関連:ELI5: Why are college/high school textbooks so thick but aboutonly a third is taught/being lectured?

 アメリカの教育目的に関する記述の方は、あくまでも田村哲の観察により導き出したものであるので公式的なものではないと思うのですが、その分推察には実際の様子が反映されていて当時の様子が窺えるもので興味深いものでした。



●こちらはアメリカ人の労働観についての記述です。
幾多の雇はれ人は、種々の仕事に從事して居る。突然其の中より起つて、嬉々として手を振り、予に近ついて来る一人の百姓がある。誰かと思うてよく見れば、外のものではない、予の親友である。顔は眞黑に日に燒けて、夏休み前の紅顔は跡形もない。

日本などでは、一豪家の子で、大學生だなどといへば、高く止まつて、我家の雇人にすら言葉を交はさぬ位である。

然るに、米國は平民國だけありて堂々たる大學の秀才が、然かも富貴の家に生れ乍ら、雇人等と一處になりて、勞働に從事して居る。これカーライルの所謂勞働の神聖をよく理解するものであると、深く咸嘆せざるを得なかつた。

田村哲 『外遊九年』 1908年 目黒書店 p.115

【要約】
 田村哲が大学の友人に誘われて友人の実家(豪農)を訪ねたところ、友人が他の労働者と一緒になって働いている様子に感銘を受け、それを日本の様子と比較している内容です。

【備考】
 当時アメリカ合衆国に渡った日本人は、このように実家が裕福であるにもかかわらず肉体労働などに精を出しているアメリカ人を見て感銘を受けたり、労働観の違いに言及していたりする記述をよく見かけます。

 先日の記事でも三上久満三が「欧米新旅行」でアメリカ人の労働観について触れている記述を紹介しましたが、そこでは紹介しなかったものの彼は次のような経験をしてアメリカ人の労働観が日本人とは違っていることについて触れています。
関連記事
「フランス人の不思議な国民性 etc」(明治時代の海外旅行記:『欧米新旅行』)
或年私は此土地に参りまして、海水浴をして居る間に、一人の青年と懇意になりました所が、其青年は私に向て日本人の店で人を求むる所があつたら世話して呉れと申すますので、聞き合して見ると、丁度いい具合に口があつて其男を周旋したのでありましたが、段々聞て見ると其男の家は相当の財産家で、兩親と一所に避暑に来て、或立派なホテルに宿まつて居るのですが、徒然の餘りに勞働するのだと云ふことでありました。こう云ふ具合米國人は勞働すると云ふことを少しも耻辱とは咸じないのであります。

三上久満三 『欧米新旅行』 1908年 精華堂書店 p.76



●こちらはアメリカ人が肌を焼くことについての記述です。
米国の夏場では、男女に関らず、顔面の白きを以て恥と考へて居る。

田村哲 『外遊九年』 1908年 目黒書店 p.121

【要約】
 アメリカ人は夏休みになると海水浴やキャンプに出掛け、肌をこんがり焼いた状態にして白い肌を嫌がるという内容です。

【備考】
 これを読んだ時驚いたのですが、それは何故かというと現代でもアメリカ人が日焼けをすること好むことは何かと海外掲示板などでネタにされているからです。

 例えば質問サイトなどでは以下のようにアメリカ人が何故日焼けを好んでいるのかといった質問がいくつもされています。
 Why do Americans want to have tanned skin while Asians what to have pinkish white skin?
 Why do you think Americans are obsessed with being tan when the rest of the world seems to prefer lighter skin?
 
 この質問に対するアメリカ人の答えは様々なのですが、よく見かけるところだと「健康的なイメージがあるから」とか「休暇にアウトドアを楽しめるくらい裕福というイメージがあるから」といった回答をされることが多い印象です。

キャプチャ

関連記事
外国人「女性の身体に残った『日焼け跡』を堪能できる画像を貼っていく」海外のまとめ



●こちらは日本とアメリカでの男女交友の違いについての記述です。
近くて遠きは實(じつ)に米國男女の間である。公然人目に觸れる場所では、男女接近して居つても、人目を避けて密會(みっかい)するといふ事は、例令(たとえ)何等の意味なくても非常に戒めて居る。之を要するに、自由ではあるが、日本に於ける青年男女間の如く放漫でないのである。

日本に於いては、男の間では、勿論のこと奥様、お嬢様と呼はるる女の前でも、何に憚らず卑猥な談話をする、女子の方でも、平然(?)として聞かぬ振りで聞いて居る。米國で、卑猥な話、卑陋(ひろう)な行でもしたら最後で、死刑の宣告を受けたも同様である。

米國で日本人が不評判になるのは、多くこんな失敗から起る。


日本では、男子は女子の下宿屋を尋ねて行つて、其の私室に入る、女學生も亦平氣で、男學生の下宿に行つて、其の私室に這入るといふことは。米國では、夫婦、親子、兄弟の間柄でなければ、男女が共に私室に居ることを許さぬ。


ここに親しい間柄の男女があると假定(かてい)する。女の方で非常に男を戀(こ)ひ慕つて居る場合には、日本の女子ならば、女子の方より男に口説いて結婚を申し込む、日本の小説を讀んでも、演劇を見ても左様に見える。

然し米國に於ては、如何に女子の方より男子を戀ひ慕うて居つても、女が男に向かつて、アイ、ラヴ、ユー(私は貴下を愛します)と言ひ寄ることが出来ない習慣、即ち不文法になつて居る。

田村哲 『外遊九年』 1908年 目黒書店 pp.124-126

【要約】
 ①日本ではアメリカと違い女性の前でも普通に猥談がされること、②日本ではアメリカと違い男女が異性の下宿先の部屋に平然と入ること、③日本では女性から男性を口説くのに対して、アメリカでは男性から女性を口説かないといけない、という内容です。

【備考】
 明治時代の日本での男女交友については漠然としたイメージしか持っておらず、てっきり女性は消極的でないといけないという風潮があるものだと思っていましたが、この記述を読む限りでは女性が男性の部屋に行ったり、女性の方から男性を口説くのが一般的なことのように描写されていたりとなかなか積極的な面があったことが意外で大変興味深い記述でした。

 1909年出版の「現代男女の研究」でも西洋と日本の男女交友を比べると、日本では若い男女は割と自由に会ったりできるので「寧ろ交際の自由を得て居る」としています。
(参考文献:覆面野史 『現代男女の研究』 1909年 現代社 pp.70-71)

 勿論男女交際に限らず当時の日本人女性に不自由な所が多かったことは他の文献を紐解くとよく言及されていることであり、ナチュラルに女性を下に見ている記述も多いのですが、一方で当時の日本の男女関係にこういった側面があったことは取り上げられるに値することだと思います。



●こちらはアメリカ合衆国と西洋での女性の地位の違いが、男女に呼びかける言葉に現れているという記述です。
米國で男女の前で演説する場合には、Ladies and Gentlemen!(貴女紳士諸君よ)と、女の方を先きに呼ぶ様になつて来るのだ。

佛國、獨逸(ドイツ)、伊太利(イタリア)等に於いては、社會(しゃかい)に於ける女子の位置は餘程(よほど)卑しくなる。例へば公會演説などのときに、佛國では紳士貴女諸君よMessieurs et dames!といひ、獨逸でも紳士貴女諸君よMeune-Herren und Damen!と叫び出すだ、

田村哲 『外遊九年』 1908年 目黒書店 p.145

【要約】
 アメリカでは女性を重視する傾向が男女に呼びかける言葉に現れており、それはフランスやドイツ、イタリアとも違っているという内容です。

【備考】
 言葉の使い方から文化の違いを探り出すというのは割と一般的な手法の一つですが、この記述でもそれを利用してアメリカ合衆国では女性の社会的地位が高く、フランス、ドイツ、イタリアなどでは女性の地位が低くなるといったことに言及しています。

 実際西洋諸国で「餘程卑しくな」っていたかについてはある程度議論の余地があるかと思いますが、当時は西洋諸国と比べるとアメリカ合衆国では女性に対する礼儀が社会一般的に厳しかったという記述はよく見かけます。

 以前紹介した三上久満三の「欧米新旅行」の中でもアメリカ合衆国で男子学生が女子学生と一緒に授業を受けることを嫌がる風潮があることに言及がありますが、その理由の一つとして挙げられていたのが次のようなことでした。
第二の理由は米國の風習として假令(たとえ)學生でも婦人に對しては社交場の禮儀(れいぎ)を守らねばならぬことになつて居る故、夫れを面倒臭く思ふのである。

三上久満三 『欧米新旅行』 1908年 精華堂書店 pp.36-37
関連記事
「フランス人の不思議な国民性 etc」(明治時代の海外旅行記:『欧米新旅行』)

 「淑女」が「紳士」より先に使われていることがその文化圏での女性の地位を実際どの程度反映しているかは一つの課題となるかもしれません。中には単に語感で、「紳士」を先に持って来たり「淑女」を先に持って来たりしている可能性もあるからです。とはいえこのような言葉の使われ方の違い自体は示唆に富むものであり興味深いものでした。



●こちらはイギリスとフランス、ドイツの大学の違いについての記述です。
英國大學は品性修養を重じて居るので、學問の研究を第二として居る傾あるから、英國の學者必ずしも大學の出身ではない。

佛國に於いても大學が研究を重せず、智識の普及を主として居るから、大學教授必ずしも研究家でないのだ、研究者は多く佛國学士院に居るのである。

然しながら獨逸に於いては之と全く反對で、大學以外に學者は居らないのである、

田村哲 『外遊九年』 1908年 目黒書店 p.169

【要約】
 イギリスの大学では人格を養うことが第一で研究は二の次で、フランスでも研究はあまり重んじられておらず、ドイツの場合はこの二国とは違って研究が重んじられているという内容です。

【備考】
 この各国の大学の違いについても以前紹介した三上久満三の「欧米新旅行」の中で次のように触れられていました。
獨逸(ドイツ)の大學(だいがく)は學術の硏究所であつて、人格とか品格とか云ふことは大學の關(かかわ)り知らぬ所である。

是に反して英國の大學――主としてケンブリツチ、オクスホルド兩(りょう)大學を云ふ――は其目的とする所國士を養成するにあつて、學問の研究と同時に、大に徳義の修養に意を用ゐるのである。
関連記事
「フランス人の不思議な国民性 etc」(明治時代の海外旅行記:『欧米新旅行』)

 こちらでもドイツでは研究重視で、イギリスでは人格修養を重視しているということについて触れられていましたが、全く別の人がおおよそ共通したことに言及していることは主観的な要素によって変動が起きる余地が小さかったことを仄めかしているのでとても参考になると記述だと思います。



●こちらは日本でドイツの学者が重んじられている風潮があることについての記述です。
獨逸學風に醉(よ)はされた日本の學者は獨逸一點張(いってんば)りだ。獨逸の國では何といふ、獨逸の博士は何と言つたと、一から十まで獨逸獨逸といはねば仲々承知しない。普通の人々も、それを難有(ありがた)がつて謹聽(きんちょう)して居るといふ有様。然しながら獨逸の學者計(ばか)りが偉らいのではない、佛國にも、英國にも、和蘭(オランダ)にも偉らい學者は數(かず)多く居る。

田村哲 『外遊九年』 1908年 目黒書店 p.178

【要約】
 当時の日本の学術界ではドイツ人学者を重んじられており、一般的な日本人もそれに追随している傾向があったという内容です。

【備考】
 内容としては立派な学者はドイツだけではなく、フランスやイギリス、オランダにもいるといった当然と言えば当然の内容ではありますが、ここで田村哲が「アメリカ合衆国」を加えていなかったところは着目に値すると感じました。

 田村哲は八年以上アメリカ合衆国に滞在し、アメリカ合衆国の大学の長所についても多く紹介していたにもかかわらず、ここで「亜米利加にも偉らい學者は數多く居る」としなかったのは一見不自然のような感じがするからです。

 勿論、この『外遊九年』の中では紙面の多くを既にアメリカ合衆国の大学に割いていることから再度言及するまでも無いと判断した可能性もありますが、田村哲は別の箇所でアメリカ合衆国の大学はまだ欧州の大学に及んでいないというニュアンスの記述(より具体的に言うと「アメリカ合衆国の大学が今の調子で発展していけば欧州の大学を追い抜くだろう」という内容)を引用しているのでその点からも省かれた可能性があるかもしれません。

 現代だとアメリカ合衆国の大学は世界でもトップクラスであるという認識が一般的だと思いますが、当時はまだ欧州の大学に追いつこうとしていた様子が窺える興味深い記述でした。




【結語】
 この『外遊九年』は著者の田村哲が、九年間アメリカ合衆国の大学に在籍した際の経験から書き綴られたということもあり、単に数か月旅行したような旅行記と比較するとその観察の深さが際立っているので、これまでに読んだ旅行記/滞在記の中でもかなり良い内容でした。

 田村哲がどのような人物かを調べた時詳しい情報が残っていなかったので、これほどの学識を有していた方が無名ということを訝しんでいたのですが、1906年に日本に帰国してから3年後には亡くなっていたようです。詳しい事は不明なのですが1909年11月発刊の「科学世界」の中で「雨及日本の雨」という田村哲の遺稿が掲載されているのを確認しました。

 田村哲の『外遊九年』を読むと、彼の優れた人格と教養が文章の狭間から窺えるので、赤貧の中勉学で身を立てた彼が志半ばでこの世を去ったことは残念でなりません。現在既に2020年で、彼の死後から100年以上経っていますが、田村哲と言う人物と『外遊九年』をこのサイトの読者の皆さんに紹介できたことを嬉しく思っています。




キャプチャ


「日露戦争後、ロシア人が日本人に好意的だった理由 etc」(明治時代の海外旅行記:『欧米歴遊日誌』)


 こちらは明治時代の政治家である長谷場純孝が明治39年(1906年)に欧米各国を訪れた時の旅行記(『欧米歴遊日誌』)で、興味深かった記述や当時の社会の様子が窺える記述をまとめた記事です。

 なお、引用箇所の一部には現代の基準だとあまり良くない表現がある場合もありますが、歴史的記述であることを尊重し一切手を加えていません。


<長谷場純孝>

長谷場 純孝(はせば すみたか、嘉永7年4月1日(1854年4月27日) - 大正3年(1914年)3月15日)は、日本の政治家。

1890年の第1回衆議院議員総選挙で鹿児島県から当選し、以降11回連続当選。のち政友会設立に関わる。1908年から1911年にかけて1度目の衆議院議長を務めた。

長谷場純孝


参考文献:長谷場純孝 『欧米歴遊日誌』 1907年 長谷場純孝
関連記事
【宣伝】暇劇の同人誌(『幕末・明治期の西洋人が見た日本(絵画篇)』)が完成しました。
【宣伝】暇劇の同人誌第二弾(『幕末・明治期の西洋人が見た日本(入浴文化篇)』)が完成しました。

※YouTubeにも動画としてアップしました(https://youtu.be/-47_XCRBXhc)
[PR] 暇は無味無臭の劇薬のYouTubeチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UC_yC7ccaessdpgHzsoPD7Yw

明治時代の海外旅行記で面白かったところのまとめ
https://www.youtube.com/playlist?list=PLuw-ZwMGqW3ZcmQICv8NxZpn0uiUzy1SM




●こちらは日露戦争後にもかかわらずロシア人が日本人に好意を抱いていたことについての記述です。
露国の人民は、我日本人に対して悪感情を有するの状なきのみならず、却(かえ)つて敬意を表し居るは誠に愉快の至に御座候、

長谷場純孝 『欧米歴遊日誌』 1907年 長谷場純孝 p.110


或る日本の役所の人が、丁度我々の着する前に、或所を通行して居つたら、其の所に同盟罷工の人達が、三百人計(ばか)り集つて居つて、其内の一人は、例に依つて露西亞の乞食見たいな事を云つて、日本人に無心を言ひ掛けた、そうした所が其内の一人が、飛び出して来て汝止め止め、此れは日本人である、日本人は我々の恩人である恩人に對(たい)し無禮(ぶれい)の事をしてはよくないから、それ丈(だけ)は止め止めと云ふて、其仲間から制したと云ふ事も事實(じじつ)であります、

何故それはそう云ふやうな事實になつて居るか、だんだん聞いて見ますれば、日露戰役に於て、八萬(まん)に近い兵が露西亞の各州、各軍團(ぐんだん)から日本の捕虜になつて居つた、そうして戰爭後日本から歸(かえ)つて露西亞の各州に散在し、而して日本の風景の美なる事、日本國民が露西亞の捕虜に對し、待遇の信切なる事に就て、非常に賞賛して話しをした、それから一つは、例の黨勢擴張(とうせいかくちょう)の爲めに、革命黨員等は特更に日本を賛賞すると云ふ、事實もあるやうに見受けました、

長谷場純孝 『欧米歴遊日誌』 1907年 長谷場純孝 pp.190-191

 要約するとロシア人が日本人に好意的なのでそれが何故かを尋ねたところ、戦争中日本の捕虜になっていたロシア人が親切にされたことに感銘を受けて帰国後にそれを話してまわったことと、反体制側のロシア人が戦争に敗けた政府を批判して日本を持ち上げていたことによるという内容です。

 一般的には戦争している/いた国に対しては悪感情を抱くことが普通だと思いますが、日露戦争からそれほど時が経っていない頃にロシアを訪れた長谷場純孝がロシア人が日本人に対して全体的に好意的だったと記述していたのは、その理由に彼が触れるまでは結構意外なもので興味深かったです。

 ただ長谷場純孝によればこの傾向は社会の階級によって違いがあって、このように日本人に対して好意的だったのは中流階級以下のロシア人であって、中流階級以上のロシア人は日本に対して報復の念を心の中に抱いているようだったと書き綴っています。

 たまたま以前、日露戦争中に日本の捕虜になったロシア人将校であるF・クプチンスキーがその体験を綴った「松山捕虜収容所日記」という本を読んだことがあるのですが、ロシア人から見た当時の日本の様子の一端を垣間見ることが出来てとても興味深い内容でした。

 以下は「松山捕虜収容所日記」でF・クプチンスキーが日本人について幾つか言及した箇所の引用です。
戦争で狂暴になった日本兵の捕虜取り扱いは必ずしもいいわけではない。平静をとりもどした彼等が優しい配慮を示すようになるまで、捕虜たちは耐えるしかない。
(中略)
日本人医師の気配りがある。昼夜枕もとにつきっきりで肉体的苦しみを患者とともに分かちあう日本女性の暖かく優しい看護がある。

F・クプチンスキー 『松山捕虜収容所日記 ロシア将校の見た明治日本』 1988年 中央公論社 p.20


日本人はだうたい礼儀正しく、よく気がついて、丁寧だった。特に将校がそうだった。しかし不思議なことに疑い深く、杓子定規だった。路上の見物人たちはとても控え目で、もの静かで、行儀が良かった。
(中略)
この人々がロシアで呼ばれている「非文化的なアジア日本」の民だとはどうしても信じられなかった。

F・クプチンスキー 『松山捕虜収容所日記 ロシア将校の見た明治日本』 1988年 中央公論社 p.72



●こちらは長谷場純孝がマレー半島のジョホール王国の宮殿を訪れた時の記述です。
宮殿内に飾り付けある花瓶の如きは、我國の製造品多く、九谷燒、伊萬里燒の如く、中には薩摩燒の贋物をも奇麗に並べ立て有之候(これありそうろう)、

長谷場純孝 『欧米歴遊日誌』 1907年 長谷場純孝 p.48

 要約するとジョホール王国の宮殿を訪れたとき、日本の焼き物が宮殿内に並んでいたという内容です。ジョホール王国について詳しい事を知らなかったので調べたのですが、1528年にマレー半島に建国された港市国家で、マレーシア、ジョホール州の前身であり現在も世襲によって王位が継承されているそうです。
 関連:ジョホール王国

 当時のジョホール王国はイギリスの傀儡となっていて、国王は贅沢な暮らしをイギリスにさせてもらってはいるものの実際は形式的な王位でしかないことに長谷場純孝は触れており、「實に憐れむ可き者なり」と結んでいます。

 そんなジョホール王国の宮殿に日本の焼き物があったというのはなかなか興味深い記述でした。当時の東南アジアで日本の焼き物がどれほど人気があったのかは寡聞にして知らず、一応調べてはみたもののよく分からなかったのですが、宮殿に置かれるほどだったというのであれば相当程度の地位を築いていたのではないでしょうか。



●こちらはハンガリーの首都ブダペストを訪れた時の記述です。
ブダベストは、バルガン半島の新興國にして、其國風人種稍(やや)我國と類似する所あるを以て、戰爭以來、特に同情を我國に傾注せし、關係(かんけい)あるを以て、余等の其地に至るや、市民は拍手喝采して歡迎し、或は走り来りて握手を要(もと)め、又は萬歲を唱ふる者多かりき。

長谷場純孝 『欧米歴遊日誌』 1907年 長谷場純孝 p.119

 要約するとハンガリー人は日露戦争では日本を応援していたので、長谷場純孝がハンガリーを訪れた時大変歓迎されたという内容です。

 以前の記事で森次太郎が「欧米書生旅行」の中で船旅の最中にポーランド人から日露戦争勝利を祝われたことに触れている箇所を紹介しましたが、当時の旅行記を読んでいると東欧でこのように日本人が祝われることが多く、特にその中でもハンガリー人の歓迎が熱烈だったということが複数の旅行記から窺うことが出来ます。

関連記事
「アメリカの都市を日本の都市で例えると etc」(明治時代の海外旅行記:『欧米書生旅行』)
彼等は日本の戰勝を非常に喜びつつ彼等自身のポーリツシであることを白狀した、予は面白半分に『君達は露西亞人であるゆへ予の敵でないか』といふたら彼等は『ポーリツシは露國人でも露國政府の敵である、日本の勝利を心より喜ぶ』といひ又(ま)た『波蘭土(ポーランド)人の戰場にあるものは鐵砲(てっぽう)を日本軍に向けて放たず空を射て居るのである、日本軍の大將黑木は波蘭土の英雄クロウスキーの末裔である』など眞面目に信じて居て話すのが可笑しい

森次太郎 『欧米書生旅行』 1906年 博文館 p.135

 日本人とハンガリー人が似ているという記述も当時の他の旅行記のどこかで読んだような記憶があるので、そのような記述も探したのですが探し方が悪かったようで見つかりませんでした。もし発見したらこちらに追記しようと思います。



●こちらは長谷場純孝がナイアガラの滝を観光した時の記述です。
流石は世界屈指の瀑布にして、其莊嚴雄大余をして覺(おぼ)へず快哉を叫はしむ、即ち國詩一首を口吟す。

ナイアガラ白羽の征箭の百千筋戰ふさまのすさましきかな

長谷場純孝 『欧米歴遊日誌』 1907年 長谷場純孝 pp.152-153

 要約するとナイアガラの滝を見てとても感動したといった内容ですが、長谷場純孝はこの時「ナイアガラ白羽の征箭(そや)の百千筋戰ふさまのすさましきかな」と短歌を一首詠んでいます。

 明治時代の日本人が著した旅行記には現代の日本人から見ると色々な特色があるのですが、その特色の一つとして著者が旅行中に詠んだ短歌や俳句が掲載されている事が多いということを挙げることが出来ます。勿論、全ての旅行記でそうだというわけではないのですが、体感的には10冊旅行記を読んだらそのうち3冊くらいには著者の詠んだ短歌や俳句が掲載されているような印象です。

 既にこのサイトで紹介した旅行記の中だと、大橋乙羽は「欧米小観」の中でオーストリア、ウィーンを訪れた時に次のような短歌を詠んでいます。
野の山に さざ波のごと 連りて ふねならなくに 塔の先見ゆ

大橋乙羽 『欧米小観』 1901年 博文館 p.90
関連記事
「日本とフランスでの芸術家の社会的地位の違い etc」(明治時代の海外旅行記:『欧米小観』)

 また森次太郎はアメリカ合衆国の自由の女神像を見学した時に次のような俳句を詠んでいます。
今朝の秋 女神の腹を くぐりけり

森次太郎 『欧米書生旅行』 1906年 博文館 p.85
関連記事
「アメリカの都市を日本の都市で例えると etc」(明治時代の海外旅行記:『欧米書生旅行』)

 現代の日本でも短歌や俳句はある程度馴染みあるものではすが、短歌や俳句を旅行記の要所要所で詠んでいるものは見かけた記憶があまりないので、当時は短歌や俳句を詠むことに対する距離感が今よりもずっと近かった様子が窺えて興味深いです。

 明治時代に日本にやってきた外国人も日本人がよく詩を詠むことに言及していて、例えばロシア人の「スパルウヰン」は日本の詩について次のように述べています。
短歌を作ることは、ヨーロッパで詩を作るのとはわけが違ふ。ヨーロッパで詩を作ることは才能上の仕事であるか、または職業上の仕事である。
日本に於ける短歌は個人の要求であり,環境に對する自己の關係を表白する形式である。

スパルウヰン 『横眼で見た日本』 1931年 新潮社 p.265

 彼の指摘は当時の西洋人の指摘の中では割とよく見かけるもので、西洋では一部の人間だけが詩作をするのに対し、日本人の場合は身分の上下を問わず詩を作る、と言った感じで触れられることが多いです。



●こちらはリヨンで日本の羽二重が人気であることについての記述です。
里昻(リヨン)は我が國の福井縣(けん)が最も華客先(とくいさき)でもあるから、あすこに行けば日本の羽二重と云ふものを知らぬものは、女子供でもないやうで御座ります、

長谷場純孝 『欧米歴遊日誌』 1907年 長谷場純孝 p.173

 要約するとリヨンは福井県のお得意様なので、福井県の織物(羽二重)のことを子供や女性まで知っているという内容です。

 羽二重については詳しくないので調べてみたところ以下のように解説されていました。
生糸は、蚕(かいこ)の作った繭を水で煮て紡ぐことでつくります。このため、生糸には撚りがありません。これを経糸(たていと)と緯糸(よこいと)にし、交互に規則的に製織したのが絹織物です。
このうち、筬(オサ:たて糸の位置を整え、よこ糸を織りこむのに用いる織機の部品)の一羽(ひとは)に縦糸を2本を通した織物を「羽二重」とよびます。普通は平織りですが、綾羽二重や絞り羽二重などもあります。

福井と羽二重

 リヨンと羽二重の関係は初耳だったのでより詳しい事を調べてみたのですが、明治33年7月23日に出された官報第5116号にはリヨンで羽二重の需要が大変あったという領事館の報告が掲載されていました。

 リヨンと福井県に深い繋がりがあったということが窺える大変興味深い記述だったので、現代でもそのような関係が何かしらの形で残っているのか気になり調べてみたところ、以下(PDF)でフランスのローヌ・アルプ地方(リヨンが存在する地方)と福井県の繊維産業を比較して体質が似ている事と、2001年からローヌ・アルプ地方と福井県で技術交流がされている事が書かれていました。
 関連:https://cs2.toray.co.jp/news/tbr/newsrrs01.nsf/0/2AE8572931ADBBD54925838C002C1D60/$FILE/tre_a040.pdf

 リヨンと福井県が昔から繋がりを維持し続けてきたのかどうかまでは分からなかったのですが、福井県の方はこういったリヨンと福井県の歴史的背景を耳にしたことがあるのか大変気になる所です。



●こちらはフランスの議会での演説の長さについての記述です。
其の時の演説は、寔(まこと)に長い演説でありまして、日本の國務大臣のやうな、短い演説ではなかつた三時間聴いて居つたが、更に止める模様もなかつたから、私は歸(かえ)つて来ましたか、後にて聞けば其の演説は、六時間も續(つづ)いてやつたそうで御座います、

長谷場純孝 『欧米歴遊日誌』 1907年 長谷場純孝 pp.175-176

 要約するとフランスの議会を見学した時三時間たっても演説が終わらないので帰ったところ、後からその演説は六時間もかかったということを聞いたという内容です。

 最長演説記録について調べたところ、インド人の政治家であるV. K. Krishna Menonが1957年に安全保障理事会でカシミール地方に対するインドの権利を主張する演説を八時間行ったというギネス記録があるそうです。
 関連:V. K. Krishna Menon

 日本での最長演説記録は、枝野幸男による内閣不信任決議案の趣旨弁明の演説で二時間四十三分と言う記録になっていますが、これは当時ニュースなどで話題になっていたので記憶されている方も多いのではないでしょうか。
立憲民主党の枝野幸男代表は20日の衆院本会議で、安倍内閣不信任決議案の趣旨説明を2時間43分にわたって行った。長時間演説による抵抗戦術「フィリバスター」で、衆院によると記録が残る1972年以降で最長の演説だった。

立憲・枝野氏 抵抗戦術2時間43分 衆院最長記録 2018年7月20日

 当時の旅行記を読んでいると西洋諸国の国会演説が長いということに言及しているものはちらほら見かけますが勿論国によって違いがあり、例えば明治時代の政治家である田川大吉郎はアメリカ合衆国で代議士と会った時に演説の時間について次のような会話をしています。

 要約するとアメリカでは基本的に五分間しか演説できないので日本の政治家が十五分演説できるのを羨ましがられたという内容です。
 ワシントンで某代議士に逢ふたとき、日本人は大層長い演説をするさうなと問はれた。無論、議會の演説の話である。僕は、譯(わけ)が分からずに、そんな事はないと答へたら、何分間話すのか、その規定はどうなつてゐるのかと問はれた。そこで、規定も何にもない、米國にはあるのかと問ふたら、大凡五分間、それが一般の習ひと爲つて居るとの答へであつた。
 それから僕が、日本のは、凡そ十五分間くらいであらうか、或は十分間くらいのもあると語つたら、彼は羨んで、十分間なれば澤山(たくさん)だ、必要な議論は、それで遺憾なくやれると語つてゐた。

 彼は更らに、日本で長い演説は何時間位かと問ふたから、僕が二時間位であらうかと答へたら、彼は微笑し乍(なが)ら、米國には長いのがある、七時間、八時間やつたのもあつた。最も長いのは二十七時間も續(つづ)けたといつてゐた。こんなのは極端の例であらう。普通は五分以内に、簡明に述べ去るものと見える。彼は、僕等の十五分を羨んだに對し、僕は、彼等の五分を羨んだ。

田川大吉郎 『欧米都市とびとび遊記 』 1914年 二松堂書店 pp.270-271



●こちらはフランスの議会の様子についての記述です。
紀律の上からいひますれば、日本の議會(ぎかい)よりは餘程(よほど)不紀律のものであつて、我々の目から見ると、甚だ亂雜(らんざつ)なものであります、演説の佳境に入れば拍手喝采をする、又いやな所に行くとノーノーの言葉を發(はっ)する、一度に立って手を叩くと云ふ有様、

長谷場純孝 『欧米歴遊日誌』 1907年 長谷場純孝 p.176


議場が少しく騒ぐと、議長は卓子の上を笏みたやうなもので叩く、叩くと大概鎮まるが、若しそれで鎮まらぬと、机の上にある鈴を取つてチリンチリンと鳴す私が三時間觀て居る中に笏を取つたこと七回、鈴を振つたこと二回か三回あつた、其一般を見ても畧(ほ)ぼ御推察が出來ようと思ひます、

其点に於ては日本の議場の方は、誠に神聖である、議長の卓子に鈴は据えてあるけれども、殆ど二十二議會を開いて此鈴を鳴したことは實に唯一回である、まさしく是は良い事であらうと考へる、

長谷場純孝 『欧米歴遊日誌』 1907年 長谷場純孝 p.213

 要約するとフランスの議会は騒々しくて長谷場純孝が三時間見学している間に、議長が合計十回も笏や鈴を使ってそれを鎮めたということについてで、長谷場純孝はこれと比較して日本の議会は二十二回開かれたうち、議長が騒ぎを鎮める為に鈴を鳴らしたことが一度しかなかったことを良い事であると考えたという内容です。

 ただ長谷場純孝はフランスの議会が騒がしかったということを必ずしも悪い事であると考えていたわけではなく、別の箇所では「議員が熱心に己れが信ずる所に依つて、或は手を拍つとか、或はノーの聲(こえ)を發するとか、夫はそう云ふ場合もありませう」として、良く見れば「活発」で、悪く見れば「秩序が無」いようであるとしています。

 現代の日本の議会では「静粛に」はどれくらい言われているのか気になったので今年(令和二年)の衆議院本会議で議長乃至副議長が何度「御静粛に」と言ったか数えてみました。
 参考:本会議の会議録議事情報一覧

 6/4までの時点で令和二年の衆議院会議録は第22号まであり、そのうち議長乃至副議長が「御静粛に」と発言したのは以下の通りとなります。

 第2号(6回)、第4号(1回)、第8号(1回)

 全22回のうち三つの本会議で「御静粛に」という発言がされており、発言回数は合計で8回となっていました。イメージとしてはもっと多いかと思っていたので意外と少ないというのが正直な印象でした。



●こちらは日露戦争後に変わったことについての記述です。
一體(いったい)歐羅巴(ヨーロッパ)の有様は、日本が今度の戰に勝つた寔(まこと)に豪(えら)い事をしたと云ふ觀念を有して居ると云ふことは事實であります、それに就て日本人は、製作場、或は製造場と云ふやうなものを見る事は、是から甚だ六ヶ敷(むつかし)くなる事であらうと思ひます。

如何(いか)なれば、日本人は支那人と違つて頭が鋭敏である、日本人に機械を見せると、直くそれを見て拵(こしら)いて仕舞ふ、是は油斷のならぬ國民であるからと云つて、現に今歐羅巴に行って居る人々で、或る製造場に行つて、是迄は見せ居つたものを、拒絶されたことは幾度もある、

長谷場純孝 『欧米歴遊日誌』 1907年 長谷場純孝 pp.197-198

 要約すると以前まで日本人はヨーロッパの工場を見学出来ていたにもかかわらず、日露戦争に勝利した後はヨーロッパ人からの日本人の評価が上がったために工場見学を断られることが多くなったという内容です。

 日露戦争による影響の一つと言えますが、実際当時の旅行記を読んでいると日露戦争後はヨーロッパで工場見学が以前ほど簡単に出来なくなったという記述をちらほら見かけます。

 長谷場純孝は別の箇所で「大きな声では言えないものの」と前置きしつつ、ヨーロッパの工場を見学するために日本人技術者が自身の職業を偽装して訪れていたという例も紹介していました。




キャプチャ

英BBC放送によると、バーコウ氏が在任中に「オーダー」という言葉を発したのは1万4000回近くにのぼっています。バーコウ氏が議長に就任してから発言回数は急増し、EU離脱交渉が下院で審議されるようになってからその回数はハネ上がりました。

「オーダー(静粛に)」1万4000回 あの下院議長は「EU離脱は大戦後、外交上最大の過ち」と断言した

p0578mbk

「日本人とアメリカ人では散歩観が違っている etc」(明治時代の海外旅行記:『欧米遊記』)


 こちらは明治時代の教育者である川田鉄弥が明治41年(1908年)に欧米各国を訪れた時の旅行記(『欧米遊記』)で、興味深かった記述や当時の社会の様子が窺える記述をまとめた記事です。

 なお、引用箇所の一部には現代の基準だとあまり良くない表現がある場合もありますが、歴史的記述であることを尊重し一切手を加えていません。


<川田鉄弥>

土佐群初月村(高知市)出身。川田惣七・丑子の長男。 7歳の時に実父が死去し、坂本牛太郎が川田家をつぎ、その養子として育てられる。1892(M25)高知県尋常中学校(追手前高校)卒業後、上京して東京帝国大学分科大学に入り1899(M32)卒業。 同年9月文部省に入り、翌年1月陸軍幼年学校教官となり、東京専門学校(早稲田大学)講師を兼任。 教員生活で一貫教育の必要を痛感して退職し1903(M36)4月東京帝国大学卒業生として初の東京府小学校教員の免許を受け高千穂小学校を創立し、校長に就任。

川田鉄弥


川田鉄弥 『欧米遊記』 1908年 高千穂学校
関連記事
【宣伝】暇劇の同人誌(『幕末・明治期の西洋人が見た日本(絵画篇)』)が完成しました。
【宣伝】暇劇の同人誌第二弾(『幕末・明治期の西洋人が見た日本(入浴文化篇)』)が完成しました。

※YouTubeにも動画としてアップしました(https://youtu.be/cAZ741AKSfs)
[PR] 暇は無味無臭の劇薬のYouTubeチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UC_yC7ccaessdpgHzsoPD7Yw

明治時代の海外旅行記で面白かったところのまとめ
https://www.youtube.com/playlist?list=PLuw-ZwMGqW3ZcmQICv8NxZpn0uiUzy1SM




●こちらはアメリカ人と日本人の散歩の捉え方の違いについての記述です。
彼の國の人は、散歩に誘ふと、格別の差支がない限りは、必ず一處にやつて来る。元來運動のため、躓の向く處に逍遥するのであるから、理屈ばつた話などせずに、あたり障りない快活な話などしながら、歩いて歸(かえ)る。行先を聞いてから、それなら今日はよしませうなど云ふやうな人はない。

川田鉄弥 『欧米遊記』 1908年 高千穂学校 pp.46-47

 こちらはアメリカ人の散歩は気楽なもので、日本人の散歩は理屈ばったところがあるという記述ですが、川田鉄弥が日本人は散歩をする時、目的地を尋ねてそれが自分の行きたいところと合致していなかった場合行くのを止めてしまうという指摘は当時の日本人の散歩感のようなものが垣間見れて面白かったです。

 あえて川田鉄弥がこのような例を挙げたということは、おそらく当時の日本では誰かを散歩に誘った時にこのような断られ方をするのがある程度一般的なものだったのではないかと推測できますが、もし仮にこれが当時の日本で一般的だったのであれば、現代とは散歩に対する考え方が随分違っているのではないでしょうか。

 現代の日本だと散歩というのは大抵の場合、特に目的地を定めることなくぶらぶら歩くというものとイメージされていると思うので、「外に出るのが億劫だから」という理由で断られることはあっても散歩の目的地を尋ねて断るということはあまりない気がします。子供の場合は散歩の目的地を聞いてきたりすることもありそうですが、大人の場合はそのようなことはまず無さそうなイメージです。

 この当時の日本人の散歩の捉え方について興味を覚えたので、他の文献も紐解いてみたところ、1902年発行の「家庭の和樂」では散歩について以下のような記述があるのを見つけました。こちらを見ても当時の日本人は散歩は用事があるからこそするものだという考え方が一般的だったのではないかと推測することが出来そうです。

用事もないにさうぶらぶらと歩かれる者ではない、とはよく聞く言葉であるが、それは矢張り籠城主義から割りだした考へで、散歩の必要を知らず、散歩の習慣を作らぬからである、用事のないに、ぶらぶらと歩くこそ散歩が面白いので、其面白みを覺えて來れば、少しの間を盗んでも、ツイちようと出て見たくなるものである。

堺枯川 『家庭の和樂』 1902年 内外出版協會 p.379



●こちらは海外旅行前に川田鉄弥が他の日本人から事前に注意された外国でのマナーについての記述です。
出發前先輩諸氏に注意せられたる事項二三を左に示さん。

其一 乘船切符購入の際、職名身分を詳(つまびらか)に申し出づべし。
其二 食卓着席順は、事務長の定むる所なるが、船長の右第一を上席とし、左第一を次席とし、身分に從ひ、交互順次に席順を定むる事と心得べし。
其三 料理店・旅館等に飲食物を持ち込まざるは、紳士の所爲(しょい)なるべし。船も一種の浮旅館なれば、ボーイなどに、日切料二十五錢乃至五十錢ほど與(あた)ふべき習ひなど思ひ合せば、バアーにて、欲しき飲料を買ふ方、却(かえっ)て經濟なるのみならず、紳士の體面(たいめん)を保つものと知るべし。
其四 邦人の打ち集ひて洋食せるを、外人より見れば。鳥の水を飲むが如く、頭を上下するが故に、體裁(ていさい)見苦し云々とかや。されど、上品に、行儀よく食すれば、本元の外國人に優ることあり。

川田鉄弥 『欧米遊記』 1908年 高千穂学校 pp.27-28

 こちらは川田鉄弥が欧米を訪れる前に日本人から気を付けた方が良いと注意された海外でのマナーなどについての記述で、①が身分証明について、②がテーブルでの上座と下座について、③がチップについて、④が洋食マナーについての内容になっています。

 あえて上記のような注意を事前に受けたということは当時このような失敗をする日本人が多かったということなのでしょう。①②③は特に言及する内容ではないかと思いますが、④は当時の日本人がまだ洋食の際のマナーに不慣れだった様子が垣間見れて興味深い記述でした。

 食べる際に「頭を上下する」というのはスプーンを口元に持って行かず、顔を皿の方に近づけて食べていたということなのでだと思うのですが、現代だと日本の料理文化に洋食はかなり溶け込んでいるので十分浸透しているマナーと言えると思います。

 当時の洋食の作法がどんな感じだったのか興味が出たので色々調べてみましたが、1901年発行の「普通礼式」の洋食マナーの項目では「魚中心の日本料理とは違い、西洋料理では鶏肉などがよく出るのでちゃんと噛まないと消化不良を起こしてしまいます」といった感じのことから説明されていて、まだ洋食が一般的でなかった当時の日本の様子がよく分かり大変面白かったです。

 参考文献:香雲軒 『普通礼式』 1901年 盛林堂 p.50



●こちらは航海中の船内での日本人の様子についての記述です。
兎角(とかく)、日本人は、航海中も、船室に引込んで、内氣に流れるが、外人は甲板で、輪投げをやつたりして快活に活發(かっぱつ)に、善く遊んで居る。
今後、外人と共に、事業を營むことが増加するであらうが、或程度迄は同化してやらないと、全然性格を異にして居らるるやうに思はれる節がある。

川田鉄弥 『欧米遊記』 1908年 高千穂学校 p.33

 日本人があまり船室から出て来ないという言及は他の旅行記でも見かけることですが、甲板に出て積極的に外国人と交流していたという言及がある記述も同様に多く見かけるので、おそらく外国人と比較すれば日本人は船室に籠りがちだということを川田鉄弥は言っているのでしょう。

 先日の記事で紹介しましたが、仲小路廉は「欧米巡遊雑記」の中で船旅で特に苦労したことについて船室が暗かったことを挙げているので、なかなか船室にばかり籠っているというわけにもいかなかったことだろうと思います。

関連記事
「米国での社会的地位は金で決まる etc」(明治時代の海外旅行記:『欧米巡遊雑記』)
薄暗き「キヤビン」内にて「フラフラ」痛む頭を押へ、「コツコツ」鞄を引き繰り返し底の方より衣服や「シヤツ」を引きずり出し、先づ一通り揃ひたる積りにて、例の如く「シヤツ」を引き被り襟を付け、紐を掛けて見れば這(こ)は如何(いか)に一つ釦(ボタン)が不足なるより更に又鞄を開き、中を掻き囘(ま)はし、漸(ようやく)にして搜し當(あた)れば、又外に不足の物を見出す抔(など)、始終如斯(かくのごとき)苦を爲すには實(じつ)に堪へ難き所にして、之れには流石の一行も染み染み閉口したる所なりき、

仲小路廉 『欧米巡遊雑記 米国之部』 1900年 長谷川友次郎 p.15



●こちらは当時の外国人の日本案内記についての記述です。
概ね皆海外人士の日本遊覧を試みんとする際に、極めて便利なる案内記なり。只惜むらくは、其内容、動(やや)もすれは、日本の実情を写し得ざるものあり。甚だしきは母国に於る忌むべき風儀を針小棒大に記載し、之を繙(ひもと)く者をして、日本、来遊の好奇心を高めしむるが如き事なきを保し難し。

川田鉄弥 『欧米遊記』 1908年 高千穂学校 pp.36-37

 こちらはラフカディオ・ハーンやチェンバレン、シドモアなどの外国人による日本旅行記について内容の一部にちょっとしたことを大袈裟に記述して読者の好奇心を煽っているところがあると言った記述です。

 川田鉄弥がここで取り上げた外国人は当時の日本旅行記を書いた代表的な人物ばかりで、その内容も全体的には高水準な内容なのですが、それでも当時の日本人から見て大袈裟に記述している箇所があるという感想を抱いたというのはとても参考になる記述でした。

 現代の日本人から見てもある程度は分かる部分もありますが、当時の日本人とは随分考え方も違い、様子も様変わりしているので当時の人でないと気付けない違和感は多いはずなので、そういう意味でも外からの視点と内からの視点の両方に目を通すことの重要性を改めて感じました。

 同じことは日本人の海外旅行記についても言えると思いますので、日本人が見た当時の国の様子だけではなく、当時の外国人から見た自国の様子の記述についても触れて行く事が大事だと思いますので、この手の記事でもなるべく拾い上げて行くようにしたいです。



●こちらはアメリカの公園を観た感想についての記述です。
只咸(かん)じたことは、公園内に「入るべからず」など書いた立札の、一つも見當(みあ)たらなかつたことと、彼の國の人々は、日曜などに、うち伴(つ)れて、この公園に遊び、樂しく半日を暮す美風のあることで、兎角、人々が勝手なことをしない。

川田鉄弥 『欧米遊記』 1908年 高千穂学校 p.46

 面白かったのは、川田鉄弥が別の箇所で「日本のやうに、戸毎に、多少の庭園を有せる都市では、比較的公園の必要もないけれども」として、一方で外国では建物が多いので植物が少ないので公園の必要性が高いという風に言及していたことでした。

 勿論、公園が緑を豊かにするという役割を担っていることはいうまでもありませんが、現代だと公園の役割はどちらかと言うと遊んだり、身体を動かしたりする場所と言うイメージをする人が多いのではないでしょうか。

 当時日本人が散歩や外での運動をあまりしていなかったということは外国人がよく指摘していることであり、日本人自身よく散歩をしている外国人を見て言及していることなので、当時の日本人だと「公園」という言葉からは身体を動かす場所というよりは、川田鉄弥のように庭園といった役割を担っている場所というイメージをする人がもしかしたら多かったのかもしれません。



●こちらはネイティブアメリカンについての記述です。
亞米利加印度人が、新大陸に住んでゐたが、其後、續々(ぞくぞく)と歐州文明人士が移住してまゐつたので、優勝劣敗の餘、銅色人種は、西北部に遂ひ込められ、人口も年毎に減少して現今は、二十五万人位になつたのである。博愛主義に豊かな米人は、それを氣の毒に思ひ、彼等の末路に同情を寄せ、一定の地を與へ、特に保留所を設け、保護せられて居る。

川田鉄弥 『欧米遊記』 1908年 高千穂学校 pp.56-57

 こちらはそもそも取り上げるべきかどうかを悩んだのですが、現代的な視点で見ると大分考え方が違うので学術的関心という点で取り上げる価値があると判断して紹介しています。

 辺境に追いやられ人口が減少したネイティブアメリカンに対して、アメリカ人がそれを気の毒に思って保護したという内容ですが、最初これを読んだ時は川田鉄弥によるアメリカ人への極めて痛烈な皮肉なのかと思って前後の文章を何度も読み直したのですがどうやらそのような皮肉ではなさそうでした。

 アメリカ人が博愛主義に富んでいる可能性までを否定する気はありませんが、少なくともネイティブアメリカンを追いやった側であるアメリカ人をこのように評価するのは現代社会であれば炎上が起きることになりそうです。

 果たしてこういった考えが当時どれ程一般的だったからは分からないので、川田鉄弥個人の考えでしかない可能性も十分ありますが、本作を読む限り川田鉄弥は当時の他の日本人と比較して愛国心に若干富むものの充分常識的な範疇の考え方をする人物という印象だったので、かなり衝撃的な部分でした。



●こちらはイギリス人が列を作ることについての記述です。
其門扉の開かるる迄、到着の順序に、斯(かく)の如く、後へ後へと並び、秩序正しく二列になつて居た。是れは、英國の慣習である。上下を通じて、斯くもあるかと、美風を羨ましく思つた。

川田鉄弥 『欧米遊記』 1908年 高千穂学校 pp.125-126

 こちらはイギリスの劇場前でイギリス人がきちんと行列を作って始まる時間まで待っている様子を見て川田鉄弥が羨ましい習慣だと思ったという記述ですが、当時からイギリス人がきちんと行列を作っていたという点と、それを川田鉄弥が羨ましがったという点は興味深いものでした。

 現代の海外掲示板を覗いているとイギリス人はよく行列をつくる国民だとネタにされており、このサイトでも何度か紹介したことがあるのでご存知の方も多いと思うのですが、当時からイギリス人がきちんと行列を作っていたというのは、時代によって変わらないイギリス人の習性が見られるようで面白かったです。

関連記事
外国人「イギリス人は何処だろうと無意識のうちに列を作ってしまう」海外の反応 
76f2239d

 また、川田鉄弥がイギリス人がきちんと行列をつくっている様子を見て羨ましいと思ったことからは当時の日本ではそれが一般的ではなかったということが窺える記述で大変興味深いものでした。

 現代だと海外掲示板などでは日本には列を作る文化があるという指摘はよくされていますし、むしろ旧聞に属する話ではありますがこれが日本では比較的新しいものだというのは意外なものでした。
 関連:Japan Earthquake and Tsunami 2011, a Queue, Crowd Control, How You Can Help



●こちらは当時のイギリスの習慣の変遷についての記述です
近時、其風俗が、以前に比べ、稍々(やや)移り変つたらしい。
(一)婦人の間に、喫煙の兆しあること、
(二)男女手を携へて、往来する風習減少せること、
(三)衛生上、接吻の害を説き、日本流のお辞儀を必ずしも非認せざること、
(四)シルクハツトを濫用せざることなどは、以前に比べ、著しい相違であるさうだ。

川田鉄弥 『欧米遊記』 1908年 高千穂学校 p.133

 当時のイギリスの習慣がそれまでと違い幾つか変わったという指摘ですが、現代から過去を見た場合どうしても時代区分はざっくりと分けるしかなく、当時の風習の変遷なども鈍感になってしまいがちですが現代でも数年経てば流行が全然違っているように、当時であってもそれが変わらないことは文献などを読んでいても明らかです。

 この記述での習慣の変遷はあくまでも「らしい」と伝聞形なので実際は違っていた可能性はありますが、それでも当時のイギリスの様子を窺うことのできる興味深い記述であると感じました。



●こちらはフランス人と日本人の身長についての記述です。
英米二國の人士に比べると、佛國人士の身の長けが、日本人と比べて大差なきに、心を慰めつつ一口に西洋人とは云ふものの、男も女も、米に・英に・佛に・獨に・露に、各々多少の相違あるを認めた。

川田鉄弥 『欧米遊記』 1908年 高千穂学校 p.142

 アメリカ人やイギリス人と比べるとフランス人の身長は日本人と同じくらいで心が慰められたという記述ですが、1900年頃の日本人の平均身長は以下のサイトによれば男性が157.0cm、女性が147.0cmだったとのことなのでフランス人の身長が低めだったということが意外でした。
 関連:https://graphic-data.com/page/sport/001.html

 テュービンゲン大学の研究によると1810-1980年(出生年基準)までのアメリカ人、イギリス人、フランス人の平均身長の推移はこのような感じらしいので、確かにアメリカ人、イギリス人と比較するとフランス人は身長が低いので川田鉄弥が心を慰められたのも理解出来ました。
 キャプチャ
 https://ourworldindata.org/human-height

 現代の平均身長の比較だとフランス人の平均身長はwikipedia(2003-2004年)によれば男性が175.6cm、女性が162.5cmで、日本人の平均身長(2010年)はこちらのサイトによれば男性が171.5㎝で、女性が158.3㎝とのことでした。



●こちらはイタリア人と日本人が似ていることについての記述です
途中の各驛(えき)で、伊國人を見る都度、身の長(た)け、略(ほ)ぼ日本人と同じいばかりでなく頭髪も黒きにつけ、巴里で買物にまゐつた際に、伊國人にやと尋ねられたも、無理でなかつたと思つた。

川田鉄弥 『欧米遊記』 1908年 高千穂学校 p.166

 こちらはイタリア人が日本人に似ているという記述ですが、明治時代の日本人の海外旅行記を読んでいると外国人からイタリア人と間違われたという話や、イタリアを訪れると日本と似ていて驚いたといった記述はよく見かけます。

 また単なる外見的特徴だけでなく文化や習慣などについてもイタリア人は日本人と似ているとされることが多く、例えば1918年に発行された日本青年教育会編の「世界一周」では日本人とイタリア人の似ている所について次のように触れられています。

伊太利という國は頗るよく我が國に似た點が多い。

(中略)

人間やら田舎の家のつくりやら洗濯物を干す工合やら、何から何までよく似通つてゐる。水田が開けてゐ、苗を植ゑたりする有様やら、食べ物なども魚を澤山用ひ、佛蘭西あたりの料理よりも日本人の口に適ふ。又マカロニ―といつて日本の饂飩によく似たものまでも出來てゐる。
火山が多くて地震が頻繁であるなども、よく似てゐるが、言葉までも總べて語尾が母音で終つてゐるので、無意味に聞いてゐると日本語かと怪しまれる。

日本青年教育会編 『世界一周』 1918年 日本青年教育会 pp.107-108

 現代だと日本人とイタリア人が間違われるという話は聞いたことがないので、海外のネットでそういう話は出ているのか軽くググってみましたが特にそう言う話は見つかりませんでした。

 ただ検索したとき予測検索で表示されたのが「japanese italian fusion」で、これは一体何のことかと思ったらイタリア料理的な要素が日本料理に取り込まれたものをそのように呼称しているようです。以下の記事の筆者はそういう料理のことを愛情を込めて「日本のスーパーマリオ料理」と呼称していました。
 関連:Super Mario Cuisine: Italian-Japanese Fusion at its Best!



●こちらはドイツ人が犬を愛好することについての記述です。
犬を伴れて居る紳士淑女の少からぬことである。然るべき家には、必ず犬を飼ひ、其犬に、人間同様の食物を食はせて優待するものと見える。

川田鉄弥 『欧米遊記』 1908年 高千穂学校 pp.187-188

 ドイツ人が犬を愛好するというのは割と有名なことなので知っている方も多いと思いますが、「帰ってきたヒトラー」という映画の中でもドイツ人の犬好きについて触れている部分があり、ドイツではそれほど犬を愛好する文化があるのかと感じ入った経験があります。

 この文化が100年以上前のドイツにも存在していたというのは大変興味深かったです。この歴史については定かではありませんが、ドイツの知識人(ショーペンハウアーなど)は犬を愛好しているというイメージがあるので、結構古い文化なのかもしれません。



●こちらは日本人とドイツ人の移民の特徴についての記述です。
海外至る處の都市に、獨逸(ドイツ)移住民の多いのは、其發展(はってん)驚くべきことであるが、之等の人々は、家族制度の下に生活してまゐつた日本人などとは、大に其趣味を異にして居らるる點(てん)がある。

それは、如何なる點であるかとふと、多少の資本を携へて、海外に出掛け、商店を設け、其の處で多少の利益を見定め、一端落付くと、本國のことはうち忘れ、全くその土地に歸化(きか)した人同様になることである。

川田鉄弥 『欧米遊記』 1908年 高千穂学校 p.190

 ドイツ人は外国に移住したら本国のことをさっさと忘れてしまう傾向があるという内容ですが、川田鉄弥がこれを日本人と対比させているように、当時の文献を読んでいると日本人は移住をしてもなかなかその土地に馴染もうとしないとする言及はよく見かけるので国民性の違いが現われているようで興味深い記述でした。

 当時の日本人の著作を読んでいると海外で働き金銭を得て、それを日本に持ち帰るという意識が全体的に強いのでそういったところも影響しているのではないかと思いました。





キャプチャ

キャプチャ
https://ourworldindata.org/human-height


「鉄道に乗るとイギリス人とアメリカ人の国民性の違いが分かる etc」(明治時代の海外旅行記:『欧米漫遊日誌』)


 こちらは明治時代の実業家である大谷嘉兵衛が明治32年(1899年)に欧米各国を訪れた時の旅行記(『欧米漫遊日誌』)で、興味深かった記述や当時の社会の様子が窺える記述をまとめた記事です。

 なお、引用箇所の一部には現代の基準だとあまり良くない表現がある場合もありますが、歴史的記述であることを尊重し一切手を加えていません。


<大谷嘉兵衛>

大谷 嘉兵衛(おおたに かへえ、1845年1月29日(弘化元年12月22日) - 1933年(昭和8年)2月3日)は、明治、大正、昭和の実業家。製茶貿易業に携わり、「茶聖」と呼ばれた。第2代横浜商業会議所(現在の横浜商工会議所)会頭。貴族院議員。正五位、勲三等旭日中綬章。

1899年(明治32年)10月に開催されたフィラデルフィア万国商業大会に日本代表として臨み、11月8日に当時のウィリアム・マッキンリーアメリカ合衆国大統領と面会を果たし、前1898年(明治31年)から実施されていた日本茶への高い関税についての撤廃を陳情し[1]、また太平洋の海底に電話線を引くことを提案した。その後、ヨーロッパを視察し、1900年(明治33年)2月に帰国、このときの体験を『欧米漫遊日誌』として残している。

大谷嘉兵衛


大谷嘉兵衛 『欧米漫遊日誌』 1900年 大谷嘉兵衛
関連記事
【宣伝】暇劇の同人誌(『幕末・明治期の西洋人が見た日本(絵画篇)』)が完成しました。
【宣伝】暇劇の同人誌第二弾(『幕末・明治期の西洋人が見た日本(入浴文化篇)』)が完成しました。

[PR] 暇は無味無臭の劇薬のYouTubeチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UC_yC7ccaessdpgHzsoPD7Yw

明治時代の海外旅行記で面白かったところのまとめ
https://www.youtube.com/playlist?list=PLuw-ZwMGqW3ZcmQICv8NxZpn0uiUzy1SM




●こちらはアメリカ合衆国とイギリスの鉄道の違いについての記述です。
米國の鐵道(てつどう)は客車を壯麗にし費用を吝(おし)まずして盛に新工風新意匠を凝(こら)すと雖(いえど)も線路の敷設に對(たい)しては割合に無頓着なるが如く余輩素人をして一見危險の咸を起さしむる處(ところ)なきにあらず

之に反し英國の鐵道は我邦(わがくに)のものと畧(ほ)ぼ類似したる列車の構造にして上等室と雖も甚美ならざるに拘らず線路の敷設には費用を投ずること多く頗る安全にして永遠に堅牢を維持せしむるの築造法を執るが如し是れ英米兩國人の氣風を鐵道事業の上に現はし居るものと稱(しょう)して不可なかるべし

大谷嘉兵衛 『欧米漫遊日誌』 1900年 大谷嘉兵衛 pp.144-145

 アメリカ合衆国の鉄道は車両を豪華にして線路にはそれほど費用をかけないので乗っていてヒヤッとすることがある一方で、イギリスの鉄道はあまり豪華ではないものの線路に費用をかけるので安心して乗っていられるという内容ですが、大谷嘉兵衛はここからアメリカ人とイギリス人の国民性が垣間見えると指摘しています。

 先日紹介した仲小路廉の「欧米巡遊雑記」でも列車や船の内装が豪華絢爛であると言及されていたように、アメリカ合衆国では列車だけでなく乗り物一般の内装がかなり豪華志向で作られていたことが窺えます。

此僅かなる航路單に一夜を送る此(この)船舶に殆んど手の及ばん限り豪華を盡(つく)し、階上階下彩紋麗はしく、燃ゆる計(ばか)りの絨氈(じゅうたん)を敷き詰め、天井の裝飾四壁の彫琢(ちょうたく)、五彩煥發(かんぱつ)する所赫燿(かくよう)球を連ねたる電氣燈に映し、音樂室の壯麗、食堂の華美、「浮へる宮殿」とは眞に其名に背かすと云ふ可し、

仲小路廉 『欧米巡遊雑記 米国之部』 1900年 長谷川友次郎 pp.90-91

 現代のアメリカ合衆国で一般的に利用される乗り物(列車、飛行機)の内装がそこまで豪華という風に感じた経験はないのですが、もしこういう風潮が時代の移り変わりによって廃れたものだったとしたら、アメリカ人の意識の変化なども見れて面白そうです。

 列車の内装や線路の敷設で国民性の違いが垣間見えるというのは大変面白い指摘で、似たような例が現代でもないか少し考えてみたのですが最初に思い浮かんだ日本と西洋の電車の違いは音声案内でした。

 日本にいると駅や電車内で到着する電車や到着する駅の案内が音声で流れるのは普通のことですが、西洋諸国を旅行していると電光掲示板での案内はあっても音声案内が無いので降りる駅を通り過ぎそうになった経験が何度かあります。こういう所にもひょっとしたら国民性の違いというのは潜んでいるのかもしれません。

 

●こちらは大谷嘉兵衛がアメリカ合衆国で見たヨットレースの英米対決についての記述です。
元來勝負好みの米人は其勝敗を評判すること恰(あたか)も國家の安危に關する戰爭の如き意氣組を現はし勝敗を賭するの金額數百萬弗(すうひゃくまんどる)に上れり

大谷嘉兵衛 『欧米漫遊日誌』 1900年 大谷嘉兵衛 p.44

 このヨットレースは現代まで続いている「America's Cup」のことで、1899年のレースでは防衛側がアメリカ合衆国「New York Yacht Club」の「Columbia」号、挑戦者側がイギリス「Royal Ulster Yacht Club」の「Shamrock」号でレースが行われました。結果は3-0でアメリカ合衆国側が勝利しています。

 このヨットレースは国際レースですが最初の大会から1983年に敗れるまで132年間に渡ってアメリカ合衆国が勝利し続けてきたレースであり、1899年の段階でも最初の大会から数えて10連勝中だったということもあり盛り上がりも相当だったと思うので、大谷嘉兵衛はそれを「安危に關する戰爭の如き意氣組」と感じたのだろうと思います。

 ※「Columbia」号
 Columbia

 ※「Shamrock」号
 07f82e7176b827d255f9de97153fd13e

アメリカスカップあるいはアメリカズカップ(英: America's Cup)は、1851年より現在まで続く国際ヨットレース。また、その優勝杯の名。その成立は近代オリンピックより45年、サッカーのワールドカップより79年、全英オープンよりも9年早く、継続して使用されている世界最古のスポーツトロフィーとして広く一般に認知されている。

名称の由来は最初の優勝艇の『アメリカ号』の名を冠した『アメリカ号のカップ』であり、決して『アメリカ合衆国のカップ』という意味ではない。しかし、その後132年に亘ってアメリカ合衆国のヨットクラブがカップを防衛してきたため、事実上『アメリカ合衆国のカップ』と同じ定義で称される。

使用されるヨットは出場国で建造しなければならないため、参加各国の造船工学・建築工学・材料工学・流体力学・航空力学・気象学などの最先端技術や軍事からの応用技術が投入される等、参加国の威信を賭けた国別対抗レースとしての一面も持ち合わせている。またこれら最新ヨットにはオリンピックメダリストら多数のトップセーラーが乗り組むことあり、一般にヨットレース全般、或いはインショア(沿海)レースの最高峰として位置づけられており、別名「海のF1」とも称される。

アメリカスカップ



●こちらはニューヨークの株式取引所についての記述です。
重役裁判は最終の判決を下されたると同一の運命を仲買人に與(あた)ふるものにして社會(しゃかい)の制裁と商業道徳の旺盛なるにより法廷の判決よりも取引所役員會の判決は却て尊重せられ一回び商徳を破りて曲者たるの汚名を受るときは最早商業界に於ける死刑の宣告を下されたると一般、再び世人の齒(し)するものなきに至ればなり

是れ背約不義の徒を出すこと稀なる所以にして合衆國商業の發達進歩して止まざる一大原因なるべし

大谷嘉兵衛 『欧米漫遊日誌』 1900年 大谷嘉兵衛 p.50
※「齒(し)する」は「仲間として付き合う」という意味です。
関連:歯する(しする) の意味

 こちらは商業道徳を守らなかった人物に対する役員会の処分が法廷の判決よりも重く見られ、一度処分されると商人して生きていけなくなるので商売上の約束がきちんと守られているということに感銘を受けたという内容ですが、別の箇所で大谷嘉兵衛は当時の日本の商業道徳が良くなかったということに触れている記述があるので特にその点に着目していたのだろうと思います。

 てっきり当時の日本の商業界にも村八分のようなものが存在して似たようなことはされていたのではないかと思っていたのですが、この記述を読む限りではそうではなかったように見えます。あるいは似たようなことはされていたもののアメリカ合衆国ほど厳格なものではなかったということかもしれません。

 ※1900年頃のニューヨークの株式取引所
 image-asset



●こちらは当時のカナダ、ケベック州、モントリオールでのイギリス人とフランス人の諍いについての記述です。
本市は元佛國移民の開發したる處にして現時人口三十萬(まん)の大都會なるが其人口三分の二は佛國人に屬(ぞく)するを以て佛人の勢力甚熾(はなはださかん)にして英人との軋轢常に絕えず市長選擧(せんきょ)の如きは兩人種の最も爭ふ處となり今や英國の領土にして佛人の市長を戴くの奇觀を呈し英人派の遺憾やる方なく次選擧には必ず吾黨(わがとう)にて市長の椅子を占めざるべからずとて、前市長スミス氏の慷慨(こうがい)談を聞く

大谷嘉兵衛 『欧米漫遊日誌』 1900年 大谷嘉兵衛 p.87

 こちらは当時イギリス領だったケベック州、モントリオールの人口30万人のうち、2/3がフランス人だったため、イギリス人とフランス人の争いが絶えず、選挙となると非常に白熱し大谷嘉兵衛が訪れた時はフランス人が市長になっていたため前市長が次の選挙に向けて意気を上げていたという記述です。

 当時モントリオール市長だったのは「Raymond Préfontaine」という人物だったそうで、1898年から1902年までモントリオール市長をしています。
 関連:Raymond Préfontaine
 関連:List of mayors of Montreal

 記述内に出てきた「スミス氏」というのは正式名称を「Richard Wilson-Smith」というらしく1896年から1898年まで市長をしています。
 関連:Richard Wilson-Smith
 
 調べていてちょっと面白かったのが当時市長をしていた「Raymond Préfontaine」がケベック州のロンゲール生まれで、前市長の「Richard Wilson-Smith」は北アイルランド生まれで26歳の時にケベック州モントリオールに移住したということでした。

 現代でも海外掲示板を見ているとケベック州がフランス的であることはよくネタにされていますが、こういう記述を読んでいるとその歴史が直に感じられるようで面白いです。

1 世間の悪しき風潮や社会の不正などを、怒り嘆くこと。「社会の矛盾を―する」「悲憤―」

2 意気が盛んなこと。また、そのさま。

慷慨(こうがい) の意味



●こちらはアメリカで鉄道車両が個人所有できることについてです。
自用車は名の如く私人の自用即ち家族的旅行用に充る特別私有の客車にして獨(ひと)り米國に於てのみ行はるる最も安慰と贅澤(ぜいたく)を極むるものにして富豪の御料車とも云ふべし此車を所有するものは平常に在ては其保管を鐵道會社(てつどうがいしゃ)に依頼し置き旅行の時は普通の列車に連結せしめ米加兩大陸苟(いやしく)も鐵道線路の通する場所には何れにも旅行するを得るの便法を設くること是なり、

大谷嘉兵衛 『欧米漫遊日誌』 1900年 大谷嘉兵衛 pp.90-91

 グーグルで調べてみたところ、日本では列車の車両を個人で所有するというサービスは見られないようでしたが、アメリカ合衆国では専用のウィキペディアのページが存在しているほどでした。
 関連:Private railroad car
 
 上記の記事によれば車両の個人所有のサービスが始まったのは1850年頃からで個人の娯楽や旅行のために使用されている他、政治家が小さな町で短時間演説する「地方演説鉄道ツアー(Whistle stop train tour)」のためにも使用されていたと書かれていました。
 関連:Whistle stop train tour

 政治家が選挙活動で使用する乗り物といえば選挙カーという固定概念があったので、鉄道を使用して選挙活動をするというのは大変興味深いものでした。レーガン元大統領も1984年にこの「Whistle stop train tour」をしていて、オバマ前大統領も就任式に向かう途中でしていたそうです。アメリカ合衆国以外だとイギリスでチャールズ皇太子が2010年にしていたと記載されていました。

 ※1900年の選挙でのセオドア・ルーズベルト
 Teddy_Roosevelt_at_Kansas_City

 ※1984年の選挙活動でのロナルド・レーガン
 Reagan_train_tour

 ※1992年の選挙活動でのジョージ・H・W・ブッシュ
 President_Bush

 ※2009年、大統領就任式に向かう途中で「Whistle stop train tour」をするオバマ前大統領。
 Joe+Biden+Jill+Biden+Barack+Obama+Holds+Whistle

 日本でもこのようなサービスがされていないか調べてみたところ、「肥薩おれんじ鉄道」や「秋田内陸縦貫鉄道」で車両の貸し出しサービスを行なっていました。こちらは上記のような個人が所有するものではないのですがレンタカーのように車両を借りることが出来るというのは面白かったです。

 9時~16時の間で定期列車の運行に支障のない範囲でお客様のご要望に沿った運行を行います。

◆車両貸切料 61,000円(税込) 車両1両/2時間以内
◆テーブル貸出料 5,000円(税込) テーブル設置料含む
◆延長料金 10,000円(税込)/30分

※ご乗車日の前日から起算して7日前にあたる日のお取消しよりキャンセル料を頂戴いたします。 

列車レンタル / 肥薩おれんじ鉄道


キャプチャ

貸切列車 | 秋田内陸縦貫鉄道



●こちらは大谷嘉兵衛がフィラデルフィアのオフィスビルで見た気送管についての記述です。
殊に驚くべきは此建築内に於ける郵便物の發送に空氣壓搾機(あっさくき)を用ひ數町(すうちょう)を距(へだて)る郵便本局との間に鉄管を敷設し僅々(きんきん)一分時間にて互に書狀を送受するの裝置あること是なり、

大谷嘉兵衛 『欧米漫遊日誌』 1900年 大谷嘉兵衛 p.128

 こちらは郵便物を筒状の容器の中に詰めて管の中に入れ、圧縮空気を利用して輸送するシステムです。現代だとこの気送管システムはほとんど残っていないのですが、1800年代後半から1950年代頃まで使用されていたそうです。
 関連:Pneumatic tube mail in New York City

 tube-operator

 明治時代にアメリカ合衆国を旅行した日本人でこの気送管システムについて言及する人は結構多いのですが、日本で初めて導入されたのは1909年とのことなので当時の日本人から見たら初めて見る最新技術だったのだと思います。

 欧米では1866年にフランスのパリで導入されたのが初めての事例で、アメリカ合衆国だと1893年にフィラデルフィアに導入されたのが最初の事例で、ニューヨークに導入されたのは1897年からとのことなので当時のアメリカ合衆国においても最新のシステムだったようです。

 ただ、この気送管システムは輸送費用がかなり高く、1マイル当たり17000ドルもレンタル料がかかることもあったようで、より大量の荷物を配達することが出来る自動車に切り替わって行く事になったと説明されていました。



●こちらはアメリカ合衆国とイギリスでの手荷物の預り証についての記述です。
發車時間迫り混雑の場合手荷物積殘(つみのこ)りとなること往々之有りと雖も荷物の紛失するが如きことは絕てなしと云ふ米國の鐵道に於ては手荷物に對する預り切符を交附するを以て斯(かか)る場合にも頗る安便なれども英國に在てはチックを交附せず荷物は停車場に放出して列車に乘込むことなれば聊(いささ)か不安の咸(かん)なきにあらずと雖も畢竟(ひっきょう)間違なき爲めに預り切符を發せざるものならん果して然らば英人の正直なるには咸服せざるを得ずと雖も又改良して切符を渡すことを爲さざるも英人の特質たる舊慣變更(きゅうかんへんこう)を欲せざる故なるべし

大谷嘉兵衛 『欧米漫遊日誌』 1900年 大谷嘉兵衛 pp.138-139

 他の国の鉄道では手荷物の預り証が渡されるのに対して、イギリスではそれが渡されていないという内容ですが、明治時代の旅行記を読んでいるとイギリスを訪れた人の多くがこのことに言及していますが、その大半の感想がこの大谷嘉兵衛のように預り証が無いのに荷物が無くなったりしないことに感服しているか、イギリス人が昔ながらのやり方を一向に変えようとしないことに言及するかのどちらかです。

 現代のイギリスでは、少なくとも自分の経験では荷物の預り証は発行してもらえたという風に記憶していますので「舊慣變更を欲せざる」イギリスと雖も時代の変化には逆らえなかったということだと思いますが、駅や電車だと昔ながらの状態を残している所は散見され(特に地下鉄のホームなど)、そこに真新しい看板などがある所などはレトロな雰囲気に現代っぽさが入り混じった不思議な感覚を味わうことが出来た記憶があります。



●こちらはオランダ、アムステルダムの市場についての記述です。
開市に定日あり、市民の階級により區別(くべつ)す

即ち火曜日は上流社會の市日とし水曜日を中流とし、木曜日を下等階級の定日となす

大谷嘉兵衛 『欧米漫遊日誌』 1900年 大谷嘉兵衛 p.161

 現代的な感覚だと階級によって市場を利用する曜日が違っているというのは総叩きにあいそうなものですが、当時の旅行記を読んでいるとこれはオランダだけでされていたものではなく、他の国などでも階級によって利用している道路が違っているという記述を見かけることがあるので割と一般的なことだったのだと思います。

 この市場について言うと火曜日が上流階級、水曜日が中流階級、木曜日が下層階級とのことで、おそらく市場に毎日商品は補充されていたとは思うのですが、まるで上流階級から市場の良い商品を取っていくような感じの曜日設定でそのあたりはなかなか興味深いものでした。




キャプチャ

pneu_tubes_1
ソース:Series of Tubes: Pneumatic Tube Networks Then & Now
    Pneumatic Mail, Part 1


「米国での社会的地位は金で決まる etc」(明治時代の海外旅行記:『欧米巡遊雑記』)


 こちらは明治時代の検察官である仲小路廉が明治32年(1899年)にアメリカ合衆国を視察した時の視察/旅行記(『欧米新旅行』)で、興味深かった記述や当時の社会の様子が窺える記述をまとめた記事です。

 なお、引用箇所の一部には現代の基準だとあまり良くない表現がある場合もありますが、歴史的記述であることを尊重し一切手を加えていません。


<仲小路廉>

仲小路 廉(なかしょうじ れん、慶応2年7月3日(1866年8月12日)- 1924年(大正13年)1月17日)は、日本の検察官、司法・逓信・内務官僚、貴族院勅選議員、枢密顧問官。

仲小路廉


仲小路廉 『欧米巡遊雑記 米国之部』 1900年 長谷川友次郎
関連記事
【宣伝】暇劇の同人誌(『幕末・明治期の西洋人が見た日本(絵画篇)』)が完成しました。
【宣伝】暇劇の同人誌第二弾(『幕末・明治期の西洋人が見た日本(入浴文化篇)』)が完成しました。

[PR] 暇は無味無臭の劇薬のYouTubeチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UC_yC7ccaessdpgHzsoPD7Yw

明治時代の海外旅行記で面白かったところのまとめ
https://www.youtube.com/playlist?list=PLuw-ZwMGqW3ZcmQICv8NxZpn0uiUzy1SM




●こちらはアメリカでの社会的地位についての記述です。
『米國人が單に金錢に愛惜(あいせき)する人民にして終世の目的は金錢に在り崇拜尊仰する所黄金に在(あ)り人に尊卑の區別(くべつ)なく金錢の多寡を以て交友を區別するに足る可く社會(しゃかい)上の地位を品別するに足る可(べ)く彼等が王侯貴族として崇拜する所は一團(いちだん)の黄金にして名譽(めいよ)の燒點(しょうてん)は光り眩き黄金の集まる所に在り』と云へる此數言(このすうげん)は確かに現在に於(おい)ても尙(な)ほ米國に於(おけ)る社會事情の一端を明晰に言ひ表はしたる所なるべし、

一般の官吏は公然之を指して公の奴僕と爲し、國務大臣は勿論萬乘(ばんじょう)の君に比すべき大統領も單に「大統領君」たるに過ぎず

※分かりやすくするために上記記述に『』を付け足しています。

仲小路廉 『欧米巡遊雑記 米国之部』 1900年 長谷川友次郎 p.53

 こちらはイギリス人の「スマイルス氏」という人物が書いた本の中に書かれていたアメリカ人評を仲小路廉が思い出している箇所での記述です。この記述だけだと少し分かりにくいのですが「と云へる此數言」までの『』で括った部分が彼なりに解釈して引用している箇所になります。

 勿論金銭以外でも社会的に高く評価される要素があることを仲小路廉は他の箇所で指摘してはいますが、社会的地位が金を持っているかどうかで決まるというのは実にアメリカ合衆国らしく、いっそ清々しささえ感じた記述でした。

 何を以て社会的地位が高いとするかはその文化圏の人々の共通合意によって形成されるものですので、その文化圏に対する理解を深めるアプローチの一つとして有用だと思います。

 例えば日本において社会的地位の高さを形成するものは何かという問いはなかなか興味深い研究テーマになりそうです。



●こちらは仲小路廉がアメリカに向かう時に乗った船についてです。
亞米利加丸は同日正午十二時橫濱(よこはま)を解纜(かいらん)し、

仲小路廉 『欧米巡遊雑記 米国之部』 1900年 長谷川友次郎 p.11
※「解纜」は「出航する」という意味です。

 仲小路廉がアメリカ合衆国に視察に行く時に乗った「亞米利加丸」ですが、この船は1898年に就航した快速豪華客船で総トン数は6000トン余りとのことだったので先日紹介した森次太郎が乗った鎌倉丸(総トン数:6123トン)と大体同じくらいの規模ということになります。
 関連:亜米利加丸

 ※「亜米利加丸」
 America_Maru1898

 p_americamaru

関連記事
「アメリカの都市を日本の都市で例えると etc」(明治時代の海外旅行記:『欧米書生旅行』)
船は鎌倉丸で總噸數(総トン数)六千百二十三噸(トン)、随分豪氣なものである、

森次太郎 『欧米書生旅行』 1906年 博文館 p.2

 写真を見た限りではかなり立派な船という印象を受けました。初めて太平洋を渡った咸臨丸が勝海舟や福沢諭吉を乗せてアメリカに行ったのが1860年の事なので、それから40年ほどで亜米利加丸や鎌倉丸などでアメリカに行けるようになったということからも当時の発展の著しさが感じられます。

 詳しくは後述になりますが仲小路廉もこの船に乗っている最中に日本が発展したということを感じた体験について触れている箇所がありました。



●こちらは仲小路廉が船旅で苦労したことについての記述です。
薄暗き「キヤビン」内にて「フラフラ」痛む頭を押へ、「コツコツ」鞄を引き繰り返し底の方より衣服や「シヤツ」を引きずり出し、先づ一通り揃ひたる積りにて、例の如く「シヤツ」を引き被り襟を付け、紐を掛けて見れば這(こ)は如何(いか)に一つ釦(ボタン)が不足なるより更に又鞄を開き、中を掻き囘(ま)はし、漸(ようやく)にして搜し當(あた)れば、又外に不足の物を見出す抔(など)、始終如斯(かくのごとき)苦を爲すには實(じつ)に堪へ難き所にして、之れには流石の一行も染み染み閉口したる所なりき、

仲小路廉 『欧米巡遊雑記 米国之部』 1900年 長谷川友次郎 p.15

 客室が暗くて物を探すのが大変だったという記述ですが、現代だと客室の照明は存在しているのが当たり前となっていますが、仲小路廉が船旅で特に大変だったことについてこの客室の照明が不十分だったということを挙げているのはちょっとした盲点であり興味深かったです。

 明治時代の旅行記を読んでいると、アメリカ合衆国までの船旅の箇所では客室についての記述があまりなく、どの旅行者も甲板で他の旅行者と交流していたといったようなことに触れているものが中心なのですが、旅行者の多くが何かと甲板にいたのはこういう客室が暗かったからという事情があったからかもしれないと感じました。

 1933年に出版された「四半世紀の電気と機械」によれば日本で電球製造の基礎が確立したのが明治38年(1905年)のことで、その頃はまだ暗い夜には提灯を使用していたという記述があるので、仲小路廉が旅行した明治32年(1899年)の頃は如何に快速豪華客船と言っても客室に電球が使用されるような状況ではなかったということなのだと思います。
(参考文献:電機学校編 『四半世紀の電気と機械』 1933年 電機学校 pp.50-51)



●こちらは仲小路廉が船旅で経験したことについての記述です。
兩々(りょうりょう)相近くに方(あた)り舷頭何れも、見るに懐しき國旗を掲げ、船客一同甲板に出て、距離僅かなる兩船のすれ違ふ際には、兩船の船客一度に帽を振り手巾(ハンカチ)を擧(あげ)て歡呼喝采す、其愉快なること眞に言語に絕へたるものあり、

仲小路廉 『欧米巡遊雑記 米国之部』 1900年 長谷川友次郎 p.17

 こちらは仲小路廉が乗ったアメリカ合衆国へ向かう亜米利加丸が、亜米利加丸の姉妹船で日本へ帰航する途中の日本丸とすれ違い、互いの乗客がお互いに帽子やハンカチを振ったという記述です。

 ※「日本丸」
 800px-TKK_Nippon_Maru_1898

 現代でも旅客船が互いにすれ違うときに互いの乗客が手を振ったりすることはよく見かける光景ですが、当時の旅行記を読んでいると船旅の一大イベントという感じで非常に盛り上がっていたということが文章から伝わってくることが多いです。

 この日本丸とすれ違った時、仲小路廉の近くにいた小宮氏は彼に向かって、10年前に船旅をしていてインド洋にいたとき、他の船とすれ違った際に外国人が互いに手を振り合っていた様子を見て、広大な海の上で自国の国旗を掲げた他の船とすれ違うのは羨ましいことだと思ったことを回顧しています。

 これに対して仲小路廉は今回日本の国旗を掲げた船とすれ違ったといっても一隻だけなので、10年後には広い海のあちこちで日本の船が航行している姿を見て今日のことを回顧したいものだということを言っています。

 出来事としては日本の船とすれ違ったというだけですが、その事からも仲小路廉や小宮氏が日本の発展を感じ、将来の日本の発展を願っているというのは当時の空気を感じることが出来て興味深い記述でした。

 現代だと海の上で日本の船とすれ違うのは大した出来事ではありませんが、この当たり前を仲小路廉や小宮氏が目にすることが出来たなら大いに喜ぶことだろうと思います。



●こちらは仲小路廉がアメリカで乗った列車についての記述です。
大陸橫斷(おうだん)の列車は、流石に豪富を以て天下に睥睨(へいげい)する米国人の造設に出たることとて、殊に「プルマンカー」とて彼の寢室付列車の如きに至ては、其構造と云ひ、萬般の設備、裝飾待遇に至る迄、其豪奢贅澤なることに至ては到底比するに適當なるものなく、予が今囘の行たる爾来(じらい)英国は勿論欧州大陸諸邦を巡遊するに方り、諸邦に於ける種々の列車に乗じたることあるも、其豪奢と華麗とに至ては到底此「プルマンカー」に若(し)くものはあらざりし、

仲小路廉 『欧米巡遊雑記 米国之部』 1900年 長谷川友次郎 p.24

 調べたところこの列車は「Pullman car」のようでした。仲小路廉は他にも本文中でこの列車の中には理髪店すらあることに驚いていますが、現代人から見ても寝台列車に理髪店があるというのは結構驚くことではないかと思います。
 関連:Pullman (car or coach)

 仲小路廉はこの列車の内装のことを非常に褒めていたので、「Pullman car」の内部が気になってググってみたのですが確かに豪華で見ているとちょっと乗りたくなってくるくらいでした。長距離移動の列車は最後尾に風景を楽しめる広いスペースになっていることが多いですが、以下にはそういう最後尾車両の写真もあり当時からそういうスペースがあったことは興味深かったです。

 5948274c52d82.image

 BeFunky-Collage-71

 ed50cf019

 Observation-car-on-a-deluxe-overland-limited-train

 c457d99f494386e60744448d81ab18f9

 history-education-pss-geography2-pullman-source

 5948274c090f7.image



●こちらは仲小路廉がニューヨークからボストンに向かう時に乗った汽船についての記述です。
六月三十日午後五時紐育(ニューヨーク)の埠頭より滊船「ピユリタン」に乗込みたり。

此僅かなる航路單に一夜を送る此(この)船舶に殆んど手の及ばん限り豪華を盡(つく)し、階上階下彩紋麗はしく、燃ゆる計(ばか)りの絨氈(じゅうたん)を敷き詰め、天井の裝飾四壁の彫琢(ちょうたく)、五彩煥發(かんぱつ)する所赫燿(かくよう)球を連ねたる電氣燈に映し、音樂室の壯麗、食堂の華美、「浮へる宮殿」とは眞に其名に背かすと云ふ可し、

仲小路廉 『欧米巡遊雑記 米国之部』 1900年 長谷川友次郎 pp.90-91

 こちらの船名は「Puritan」で、先程の寝台列車「Pullman car」と同じように仲小路廉はその内装の豪華さに感銘を受けていました。ググってみましたがこれも確かに豪華絢爛でクルーズ船と言われても納得してしまいそうなほどでした。

 当時の旅行記を読んでいるとアメリカ人は派手なものが好きだということがよく書かれていて、そのことは何となく理解できるので「ふんふん」という感じで読んでいるのですが、実際にその豪華さを写真で見てみると百聞は一見に如かずで、当時の日本人がそう言っていたのもよく理解出来ます。

 800px-Puritan_(steamship)

 Puritan_(steamship)_grand_saloon

 Puritan_(steamship)_gallery_saloon,_looking_aft

 Puritan_(steamship)_gallery_saloon

 Puritan_(steamship)_dining_room

 Puritan_(steamship)_quarter_deck



●こちらはボストン市民の気質についての記述です。
一般の士民極めて敦厚(とんこう)、風俗大いに惇撲(じゅんぼく)にして思想亦(また)從(したがっ)て高雅、予竊(ひそか)に思へらく紐育を商人とし華盛頓(ワシントン)を官吏に比すれば「ボストン」は夫れ學者なるかと、

予か同地に滞在中「ボストン」人の趣味は確かに紐育人と同一にあらさることを感したる一事は他なし、予か今囘の行中桑港(サンフランシスコ)、市俄高(シカゴ)は勿論就中紐育市等に於て屢々(しばしば)我日本の製造に係る陶器漆器を初め其他種々の物品を販売するものあり、然るに此等の物品たる概ね彼の金色燦然、紅黄紫白、「デコデコ」然たるものにして、世に西洋向き又は橫濱向き抔と稱し居るもののみなりしが、今囘「ボストン」に来り端なく
「コイストンスツリート」に於て開店せる山中骨董品に至り、初めて眞に我か優美を極め、雅味を極めたる種々の骨董品を陳列し販賣(はんばい)するを見受るに至りたり、

仲小路廉 『欧米巡遊雑記 米国之部』 1900年 長谷川友次郎 pp.93-94

 ボストン市民が学者風な気質で、サンフランシスコやシカゴでは日本人が外国用に製造した派手な陶磁器が販売されている一方、ボストンではちゃんと日本人好みの陶磁器が販売されているというのは地域性の違いがとても分かりやすく描写されている興味深い記述でした。

 先日の森次太郎の「欧米書生旅行」の中でもボストンは歴史的名所があり文化の中心点であることから京都に似ているという言及がありましたが、単に雰囲気が似ているというだけではないということがよく分かる記述なのではないかと思います。

 ちなみに仲小路廉はボストン滞在中、日本美術品を多数収集しているボストン美術館にも訪れており、ちょうど美術館の管理者をしていたモースに館内を案内され、美術品収集の苦労話なども聞いたことについても本文中で触れられています。

 明治時代に来日した外国人の書籍を読み漁っていた頃、当然モースの著作もその中に入っていましたが、その大変参考になる内容には感銘を受けていたのでここでモースの話を読むことが出来たのは嬉しい驚きでした。

ボストン美術館 (英: Museum of Fine Arts, Boston、略称はMFA) は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストン市にある、全米有数の規模を持つ美術館。

ボストン美術館は、仏画、絵巻物、浮世絵、刀剣など日本美術の優品を多数所蔵し、日本との関係が深いことでも知られる。20世紀の初めには、岡倉天心が在職しており、敷地内には彼の名を冠した小さな日本庭園「天心園」が設けられている。

gettyimages-1055145390-1024x1024
※1900年頃のボストン美術館

ボストン美術館


エドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse、1838年6月18日 - 1925年12月20日)は、アメリカの動物学者。標本採集に来日し、請われて東京大学のお雇い教授を2年務め、大学の社会的・国際的姿勢の確立に尽力した。大森貝塚を発掘し、日本の人類学、考古学の基礎をつくった。日本に初めて、ダーウィンの進化論を体系的に紹介した。

Morse_Edward_Sylvester_1838-1925

エドワード・S・モース



●こちらはアメリカに留学している日本人学生についての記述です。
彼等語つて曰く、此金錢に豐富なる米國、決して我貴重なる金錢を費消する所にあらずして寧ろ數時(すうとき)を賭し身を役して金錢を得るの所たり、予輩常に敵に糧に據(よ)るの故智に從ひ、學習の目的は必ず此地に於て遂行せんも、日本の金錢は一金たりとも此地に於て費消せさる決心なり云々、兎に角其意氣壯なりと云ふ可し、

仲小路廉 『欧米巡遊雑記 米国之部』 1900年 長谷川友次郎 p.103

 これは海外渡航費と数か月分の滞在費だけを持ってアメリカ合衆国に渡った日本人学生達が現地で仕事をして学費を稼ぎ、勉強に励んでいたという箇所の記述です。

 日本のお金は一銭たりともアメリカでは使わないという発言に当時の日本人留学生の強い覚悟を感じました。ただ、仲小路廉によればアメリカ合衆国には誘惑が多く、日本人学生の一部には散財している者もいるとのことでしたが、日本よりも遥かに誘惑の多かったであろうアメリカ合衆国で散財していた学生が一部しかいなかったというのは凄いことだと感じています。

 記述内の「敵に糧に據るの故智」ですが、これはおそらく孫子の中でも有名な「取用於國。因糧於敵。故軍食可足也。(武器は自国で調達し、食料は敵国で奪う。その為兵糧には困らない)」の箇所のことだと思います。
(参考文献:尾池義雄 『孫子』 1910年 昭文堂 p.54)




キャプチャ

76

77

9

40


<関連記事>

 JR東日本の豪華寝台列車「トランスイート四季島」が5月1日、東京の北の玄関口・上野駅から3泊4日の旅程で東北・北海道などを周遊する旅の運行を始める。1人あたり最高95万円を払う乗客は1編成34人だけで、「豪華列車が停車する」というPR効果をてこにした沿線の観光振興の起爆剤としての狙いがある。下車駅ごとに、名所や名産品を堪能できる特別なプログラムが用意され、列車の到着を待ちわびる関係者も少なくない。

豪華寝台列車 四季島、待ってるよ きょう運行開始 沿線期待VIP待遇 2017年5月1日

「フランス人の不思議な国民性 etc」(明治時代の海外旅行記:『欧米新旅行』)


 こちらは三上久満三が明治30年前後から10年ほど欧米各国に滞在した時の滞在記/旅行記(『欧米新旅行』)で、興味深かった記述や当時の社会の様子が窺える記述をまとめた記事です。

 なお、引用箇所の一部には現代の基準だとあまり良くない表現がある場合もありますが、歴史的記述であることを尊重し一切手を加えていません。


※著者の三上久満三という人物について詳しいことは分かりませんでした。また彼はまず日本からアメリカ合衆国に渡っているのですが、その年月日を記載していないので具体的に何年頃行ったのかは不明です。ただ、彼は本文中でアメリカ合衆国に渡ったばかりの頃を述懐するに際し「拾年前桑港の人口は三拾一萬幾らで」としています。

 以下のサイトによれば1890年のサンフランシスコの人口は298,997人で、1900年では342,782人に増加しているので、1890年代前半にアメリカ合衆国に渡ったのではないかと思われます。
 http://www.bayareacensus.ca.gov/counties/SanFranciscoCounty40.htm
 https://worldpopulationreview.com/us-cities/san-francisco-population/

 また、以下のサイトによればこの頃のサンフランシスコの人口増加率は1-2%程度であり、1890年の298,997人から毎年1.3%人口が増加していたと仮定すれば1900年には340,221人になり値が近似しますので、この場合1893年(明治26年)に人口が310,810人になっている計算になります。
 https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_San_Francisco


参考文献:三上久満三 『欧米新旅行』 1908年 精華堂書店
関連記事
【宣伝】暇劇の同人誌(『幕末・明治期の西洋人が見た日本(絵画篇)』)が完成しました。
【宣伝】暇劇の同人誌第二弾(『幕末・明治期の西洋人が見た日本(入浴文化篇)』)が完成しました。

※YouTubeにも動画としてアップしました(https://youtu.be/0__dSXu_Li4)
[PR] 暇は無味無臭の劇薬のYouTubeチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UC_yC7ccaessdpgHzsoPD7Yw

明治時代の海外旅行記で面白かったところのまとめ
https://www.youtube.com/playlist?list=PLuw-ZwMGqW3ZcmQICv8NxZpn0uiUzy1SM




●こちらは三上久満三が不思議に思ったフランス人の国民性についての記述です。
不思議なのは佛蘭西(ふらんす)人の官吏軍人崇拜である古來最も過激な民權(みんけん)論の行はるるのは佛蘭西であつて、夫がために幾度か帝政の政府の轉覆(てんぷく)して現に共和國になつて居るのである。官公立の建築物には麗々と自由、平等、博愛の三句が標王してある。理論から云ふと佛蘭西は米國以上の平民國でなければならん。

所が實際(じっさい)は階級思想が頗(すこぶ)る盛んで、商工業者は自ら卑下して、官吏や軍人を無暗に尊敬する。随而(したがって)官吏軍人が一般商工業者に對する態度は頗る横柄である。

三上久満三 『欧米新旅行』 1908年 精華堂書店 p.126

 フランスといえばフランス革命に代表されるように民衆の力が強いというイメージがあったので三上久満三の驚きには共感するところが多かったです。現代でもフランスといえばストライキやデモをすることで有名で以下のように海外掲示板でもネタにされるほどですので、その辺りは変わっていないとは思うのですがこの「官吏軍人崇拜」という所が今でも残っているのか気になりました。

 unnamed
 「勤務初日にストライキ」

 ちなみに三上久満三はこの「官吏軍人崇拜」という特徴は「是は强(あなが)ち佛蘭西人ばかりでなく、羅甸(らてん)種族共通の性癖である様に思はれる。」と他のラテン諸国で共通している事であると他の箇所で言及しています。

 ※こちらは1890年頃のパリの動画です。
 キャプチャ
 https://www.youtube.com/watch?v=fo_eZuOTBNc



●こちらはニューイングランドの人の気質についての記述です。
人情風俗頗る優美高尙で、日常の生活は英國の夫れに酷似して居る、初對面(しょたいめん)の時は寧ろ無愛想であるが、久(ひさし)ふして渝(かわ)らず、内に誠意を藏(かく)して、輕々しく外部に表はさぬと云ふ樣な微細な點(てん)迄も英國人に似て居る。

三上久満三 『欧米新旅行』 1908年 精華堂書店 pp.2-3

 現在ではアメリカ合衆国では北部と南部、東海岸と西海岸で大まかに区切ることが多いのですが、この頃の旅行記を読んでいると東海岸と西海岸の比較が目立つような印象があります。おそらく旅行として西海岸から東海岸もしくはその逆に横断して移動することが多く、北部と南部で縦断することが比較的少なかったことによるのではないかと思います。

 当時のサンフランシスコといえばゴールドラッシュで労働者が大挙して押し寄せたことで発展した街であり、三上久満三もそれによって東部と比較すると「市民の品位は高尙でない」と記述しているので結構荒っぽい雰囲気だったのではないかとイメージしています。

 以下の記事を読むとカリフォルニアでは企業家精神が旺盛でそれを受け入れる土壌があり、積極的で東海岸の慎重な所とは違いがあるといったようなことが書かれていて、当時の雰囲気が今もある程度残っているのではないかという感じがして興味深かったです。
 10 Differences Between the East Coast and the West Coast

 1890年頃のサンフランシスコでググったら以下のような写真が見つかりました。
 9a49d637ffb58

 6155320332_011b81d7c7_z

 d64b237f0fa3db37170e293e5f89e689

 こちらは1900年のサンフランシスコの動画です。
 キャプチャ
 https://www.youtube.com/watch?v=IJfTa5SjDCY



●こちらはサンフランシスコでの日本人排斥についての記述です。
日本人を見てジヤツプと叫び、石を投ずるなどは奇らしくない。

祖先以来數代(すうだい)此國に住せる眞(しん)の米國人が滿腹(まんふく)の好意を以て日本人を歡迎(かんげい)するに際(あたり)り、独(ドイツ)墺(オーストリア)、以(イタリア)乃至は愛蘭土(アイルランド)などより移住して來りて未だ拾(じゅう)年も經過せざる勞働者輩が日本人排斥などとは怪しからぬ事であるとは、余が屢(しばしば)有力なる市民より聞く嘆息であつた。

三上久満三 『欧米新旅行』 1908年 精華堂書店 p.6

 こちらの記述を読んでいて先日の記事で紹介した戸川秋骨の日本人排斥についての記述を思い出しました。戸川秋骨も三上久満三と同じように当時のサンフランシスコで日本人排斥をしていたのは、元から居たアメリカ人ではなくアメリカに新しくやってきた移住者であるということをアメリカ人から何度も聞いたと書き残していますので、当時の日本人排斥の状況を把握する上で大変興味深い記述でした。

関連記事
「日本とフランスの接客の違い etc」(明治時代の海外旅行記:『欧米紀遊二万三千哩』)
米大陸に滞在中この方遇ふ人毎に、桑港の日本人排斥に付て、言ひ譯を聞かされたには、嬉いといふよりは困つた位であつた。否なかれ等の言葉は言譯といふよりもむしろ憤慨であつた。東部の米人は誰れもかれも版で捺したやうに、桑港市民の行動を非難し、米人は決してアンナ不都合な働をするものではない、アレはみな外國からの移住民が、日本人のために自分等の職を奪はれる恐れから叫び出した事である。かれ等の行動は米國の面汚である。國辱であると云ふのである。

余は又桑港日本人の不都合も想像して居るから、これ等の人々に對し、吾が同胞も宜しくないのであると言つても、かれ等はそんな事には耳も傾けぬ。

戸川秋骨 『欧米紀遊二万三千哩』 1908年 服部書店 p.144-145



●こちらはコロラド州、プエブロ市の景観についての記述です
予は川あり其中央を流れ神の都を潤すとある舊約聖書の字句を思ひ出さざるを得なかつた。

三上久満三 『欧米新旅行』 1908年 精華堂書店 p.13

 プエブロ市の景観については特に興味を惹かれるようなことはなかったのですが、この時三上久満三が旧約聖書の記述を「思ひ出さざるを得なかつた」と書き記しているのは大変興味深かったです。

 私では「川あり其中央を流れ神の都を潤す」という聖書の記述を連想することが出来なかったので調べてみたのですが、以下の創世記第二章第十節のことを指しているのではないかと思われます。

10 また一つの川がエデンから流れ出て園を潤し、そこから分れて四つの川となった。

創世記(口語訳)

 現代の一般的な日本人がどこかの風景を見て旧約聖書や新約聖書の記述を連想するということはまず無いと思うので、三上久満三が当然のようにそれを連想したという記述は興味深いものでした。

 本文を読む限り彼はキリスト教に理解はあるもののキリスト教徒ではないようなので聖書をそれほど読み込むということはなかったと思うのですが、当時アメリカ合衆国を訪れる人で旅行記を書く人は大体上流階級の人ばかりなので聖書の知識は当然のものだったのかもしれません。



●こちらはロンドン、パリ、ベルリン、ニューヨークそれぞれの交通機関についての記述です。
倫敦(ロンドン)の主なる交通機關は俗にムユーブと稱(しょう)する地下鐵道(てつどう)であつて、街上には自働車と馬車而巳(のみ)で、市街が狭く、不規則で、雑閙(ざっとう)するので軌道を敷設することが出來ない電車は場末(ばすえ)に而巳限られて居る。巴理(パリ)には地下鐵道はあるが高架鐵道がない。是に反して伯林(ベルリン)には高架鐵道と電車而巳で地下鐵道はホンの一部にしかない。ニューヨークに至ては高架鐵道も、地下鐵道も、電車も、汽車も市街の縱横に貫通して居る。

歐州の都會でも馬車は必要の交通機關であるが、紐育(ニューヨーク)では贅澤(ぜいたく)物と見做(みな)されて居る。

三上久満三 『欧米新旅行』 1908年 精華堂書店 pp.24-25

 各国で交通網の発展が違っていることがよく分かる興味深い記述だと思います。先日の記事で戸川秋骨がイギリスに電車がない事を不思議がっていたことを紹介しましたが、上記によればロンドンは地下鉄が中心で電車は街の中心部に無いとの事なのでおそらくそこまで足を延ばしていなかったのだと思われます。

 欧州では馬車は必要な交通機関であるという記述がありますが、先に紹介した1890年頃のパリの動画でも馬車が数多く往来していることからその様子が窺えます。一方で以下の1900年頃のニューヨークの動画では確かに自動車が中心になっているので、当時のニューヨークから見たらヨーロッパというのは牧歌的な感じがしたのかもしれません。

 キャプチャ
 https://www.youtube.com/watch?v=QlBinV6pFM8

関連記事
「日本とフランスの接客の違い etc」(明治時代の海外旅行記:『欧米紀遊二万三千哩』)
ジロジロ街上を見ながら歩て居るが一つ不思議な事がある。あるのではない。ない事が不思議なのである。ないといふのは電車である。

此の大都會の交通機關が偏に吾が人力車なる馬車とオムニバスとに依つて居るとは如何にも古風な趣がある。英國の保守的な事は此の一事にて察しられる。

戸川秋骨 『欧米紀遊二万三千哩』 1908年 服部書店 p.179

 こちらは1900年頃のロンドンの地下鉄などの写真です。
 800px-Central_London_Railway_locomotive

 kings-cross-railway-station-london-early-1900s-PTJDFY



●こちらはドイツ、イギリス、フランス、アメリカそれぞれの大学の特徴についての記述です。
獨逸(ドイツ)の大學(だいがく)は學術の硏究所であつて、人格とか品格とか云ふことは大學の關(かかわ)り知らぬ所である。

是に反して英國の大學――主としてケンブリツチ、オクスホルド兩(りょう)大學を云ふ――は其目的とする所國士を養成するにあつて、學問の研究と同時に、大に徳義の修養に意を用ゐるのである。

佛蘭西の大學は官吏養成所であると云はれて居るが夫(そ)れは佛蘭西人が自由平等博愛を口癖にするに關らず、妙に官吏軍人となるを以て光榮とするの惡風があつて。大學出身者の多くが官吏となるより起こつたことで、大學の目的は獨逸と同じく學術の硏究にありと云(いう)て差支えがない。

其處(そこ)で米國の大學は以上の何(いず)れに屬(ぞく)すべきかと云ふに、其系統上から云へば固(もと)より英國的であるが、近來大(おおい)に獨逸學風の影響を受けて英獨折中の姿をなして居る。

三上久満三 『欧米新旅行』 1908年 精華堂書店 pp.28-29

 各国の大学にそれぞれ特徴があるというこの記述は国民性の一端を窺うこともできるという点で大変興味深かったです。現代の日本では大学が就職予備校化しているということはよく指摘されていることですが、現代の各国の大学はどのような特徴があるのか気になるところです。

 制度的な違いというのは調べればある程度は把握することが出来るものですが、学風や大学に対するイメージというのはその国に実際に住んでいる人ではないとなかなか感じ取れないことだと思いますのでもし詳しい方がいらっしゃれば是非教えて頂きたいです。

 海外掲示板でこんな感じの話題がないか少し調べてみたのですが、残念ながらそういった感じの話題がされているのは見つかりませんでした。



●こちらはアメリカの男子生徒が女子生徒と一緒に教育を受けることを嫌うことについての記述です。
不思議なことは何處にても男學生が混同敎育を非常に嫌ふことである。
併(しか)し夫(そ)れは敢(あえ)て深い理論のある譯(わけ)ではない、全く男子本位の身勝手から出て居るのである。
第一の理由は混同敎育の學校は概して程度が低いと世間から認められるのを嫌ふのである。
第二の理由は米國の風習として假令(たとえ)學生でも婦人に對しては社交場の禮儀(れいぎ)を守らねばならぬことになつて居る故、夫れを面倒臭く思ふのである。
第三の理由は婦人は虛榮心が盛んで遠見がないので、無暗矢鱈に勉强して、只だ成績の良からんことばかりを勉める。
男子が夫れと競争するのも馬鹿らしい、さりとて何時も何時も婦人に負けて居るのは氣が利かないと思ふのである。

三上久満三 『欧米新旅行』 1908年 精華堂書店 pp.36-37

 こちらの記述は女性視点で見ればあまり愉快とは言えない内容だと思われますが、それだけに当時の男子学生の飾り気のない本心を垣間見ることが出来て興味深かったです。

 当時の旅行記を読んでいるとアメリカ合衆国のレディファーストはヨーロッパ各国と比較してもかなり社会に浸透していて、ともすればヨーロッパ人から馬鹿にされるほどだったという記述すら見かけるほどですが、こういった社会的儀礼は当時のアメリカ人男性にとってはある程度ストレスになっていたのかもしれません。



●こちらはアメリカ社会での労働観についての記述です。
社會一般の氣風が勞働を餘(あま)り賤しめない

三上久満三 『欧米新旅行』 1908年 精華堂書店 p.43

 アメリカ社会が労働を尊びヨーロッパ社会がそれを賤しめるというのは、カトリックやプロテスタントの労働観の違いや、アメリカへの移民の中核をなしていた層の一部がプロテスタントであったことからほとんど自明の事ではあるので、当初この記述はヨーロッパとアメリカを比較したものだと思っていたのですが三上久満三は別の箇所で以下のように日本とも比較していたのが興味深かったです。

英國でも、歐州大陸でも日本でも勞働は貴重なものとされて居ない。却て祖先傳來の財産を擁して安閑として暮らすのが上品なことになつて居て、勞働と云ふことは賤しいこととされて居るのでありますが、

(中略)

米国人は労働すると云ふことを少しも恥辱とは咸じないのであります。

三上久満三 『欧米新旅行』 1908年 精華堂書店 pp.74-76

 三上久満三はこの「労働」を「肉体労働」を中心に指して言っているようなのでその点についての検討も必要だと思いますが、明治時代に来日した西洋人の多くは日本人が非常によく働くということを書き残しているのでそのイメージで固まってしまっていた部分があったのですが、「勞働と云ふことは賤しいこととされて居る」という記述は別の視点からのもので興味深い内容でした。

 「肉体労働」を蔑視するというのは現代日本でも一部見られる現象ではあるので、それに賛同は出来なくともそういう風潮を理解出来る人は多いと思うのですが、「労働」自体を蔑視するのは現代日本だと「働いたら負けだと思っている」といった例のネットネタのような感じで「ニート乙ww」みたいな感じになりそうです。



●こちらは当時の日本人が好んで学んでいた科目についての記述です。
是まで日本人の好んで學習する科目は經濟學、社會學、英文學、法律、哲學と云ふ順序であつたが、近頃は電氣工學、建築學、機械學、齒科(しか)醫學(いがく)抔(など)を修めるものが非常に殖へて、無形學をやるものは漸次(ぜんじ)減少の傾向がある、寧ろ喜ぶべき現象と云はねばならぬ。

三上久満三 『欧米新旅行』 1908年 精華堂書店 pp.55-56

 学問が重視されるのかということはその国や時代背景に大きく影響されるので、この当時の日本人が好んで学んでいた科目が移り変わったという記述は大変興味深い内容でした。

 現代日本では所謂偏差値の高い学部といえば文系だと法学部、理系だと医学部といったところだと思いますが、この当たり前の認識が数百年後には変わっているかも知れないと考えるとそのような社会はどのような社会なのだろうかとある種のワクワクすら感じます。

 少し古い記事になるのですが、以下の記事はこういった国によって重視されている学問が多少ながらうかがえるもので当時とても楽しみながら翻訳したことを覚えています。似たような話題を海外掲示板で見かけたら是非また取り上げてみたいです。

関連記事
「ブラジルでは専攻科目で商学の評価が低い。外国は?」海外の反応



●こちらは大西洋を航行する船会社の質についての記述です。
就中最も優れて居るのは獨逸の船であつて、大抵の汽船は此間の航海に九日を費やすのであるが、獨航は六日乃至一週間で達するのである。

客の待遇に就ては何れの會社(かいしゃ)も非常の注意を払つて居るのであるが、到底獨逸船の痒き所に手の届く様な具合には行かないと云ふ話である。

三上久満三 『欧米新旅行』 1908年 精華堂書店 p.93

 ヨーロッパで海洋国家といえばイギリスで、ドイツは陸上国家というイメージが強かったのでそれだけに当時の大西洋航海でドイツの船会社のレベルが高かったというのは大変意外で興味深かったです。

 尤も、三上久満三はこれを実体験したわけではなく伝聞での評判なようなのである程度割り引いて考える必要があるかと思いますが、そのような評価が伝わっていたという事実は無視できないかと思います。

 現代のクルーズ会社も国によって特色はあると思いますが、残念ながらそれを比較できるほどクルーズ旅行をしたことがないので、いつかこのような比較が出来るようになってみたいです。

 ちなみに1900年頃のドイツの大西洋オーシャンライナーとしては「SS Deutschland」という船がありました。ただこちらの船は乗客には不人気だったようです。
 SS Deutschland (1900)

ドイッチュラント(独: SS Deutschland)は、ハンブルク・アメリカ・ライン(略称 HAPAG/ハパグ)が所有していた客船。2度の改名を経て25年間使用され続けた。

進水    1900年

予定通り大西洋横断を5日弱で成し遂げ、客船カイザー・ヴィルヘルム・デア・グロッセからブルーリボン賞を奪った。

ドイッチュラントは高速ではあったが、決して快適とは言えなかったため乗客には不人気だった。一番の理由は激しい振動があり乗り心地が悪かったことにある。

800px-SS_Deutschland_(1900)

ドイッチュラント (客船・2代)



●こちらはイタリア、ナポリについての記述です。
南部以太利(イタリア)の大都會であるが、市街の不潔なことは驚くの外はない。市街は塵芥(じんあい)と馬糞とで滿ちて居る。市中至る所に乞食が居て、甚だしきは料理屋で食事をして居る時にパンを呉(く)れと云つてやつて来る。人情は輕薄で虛僞多く旅人を欺いて金を取る工面ばかりして居る。余は物質的にも、精神的にも歐米に於(おい)て此様な下等な都會を見たことがない。

三上久満三 『欧米新旅行』 1908年 精華堂書店 p.156

 ナポリに対して随分な酷評ですが、私も一度ナポリを訪れた時その治安の悪さ等にはかなり衝撃を受けた経験があります。イタリアが北部と南部では違うということはよく言われることではありますが、それにしたって違い過ぎなのではないかというのが初めて訪れた時の正直な感想でした。

 これが百年以上経っても特に変わっていないという所は興味深い所でもあり、残念な所でもありました。

 ※こちらはナポリ駅周辺の動画です。
 キャプチャ
 https://www.youtube.com/watch?v=H11JeTdPwCQ




キャプチャ

関連
キャプチャ
大西洋横断クルーズ