「アメリカの都市を日本の都市で例えると etc」(明治時代の海外旅行記:『欧米書生旅行』)


こちらは明治時代の教育者である森次太郎が1901年(明治34年)から1905年(明治38年)までの留学中に欧米各国を訪れた時の旅行記(『欧米書生旅行』)で興味深かった記述や当時の社会の様子が窺える記述をまとめた記事です。


このサイトでは普段、文化の違いや価値観の違いをテーマに「海外の反応」の記事を作っていますが、明治時代の日本人の海外旅行記を題材に似たような記事が作れるのではないかと考え、現在実験的にこのような記事を作っています。

実験的な記事であり、現在問題点や改善点を洗い出している所なので是非忌憚のない意見を書き込んで頂ければと思います。

なお、引用箇所の一部には現代の基準だとあまり良くない表現がある場合もありますが、歴史的記述であることを尊重し一切手を加えていません。


参考文献:森次太郎 『欧米書生旅行』 1906年 博文館
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明治時代の海外旅行記で面白かったところのまとめ
https://www.youtube.com/playlist?list=PLuw-ZwMGqW3ZcmQICv8NxZpn0uiUzy1SM




●こちらはアメリカの都市を日本の都市で例えた記述です。
試に米國の都會(とかい)を日本の都會に比擬して見ればシカゴは米國第二の都會で内地商業の中心點(てん)ゆへ能(よ)く我が大阪に似て居る、ワシントンは政治の中心點を爲(な)しニユー、ヨークは外國貿易の中心で且つ米國第一の都會ゆへ(華盛頓+紐育)=(東京+橫濱)の方程式を作ることが出来る、其処でボストンは歴史的古跡の多い所より文化の中心點であつた所より京都と見立ることが出来る、人口の數(すう)も略(ほ)ぼ相似て居る。

森次太郎 『欧米書生旅行』 1906年 博文館 p.34

 シカゴが大阪で、ワシントンとニューヨークが東京と横浜というイメージは大体同じだったのですが、ボストンが京都というのは新鮮な指摘で興味深かったです。ボストンが古い都市というイメージはありましたが、どちらかというとボストン茶会事件のイメージがかなり強かったので攻撃的なイメージでした。
 ボストン茶会事件
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 ちなみに現在の京都府の人口は257万人で、ボストンの人口は71万人なので人口数だと現在はかなり違っているようです。
 京都府の人口:http://www.pref.kyoto.jp/tokei/monthly/suikeijinkou/suikeitop.html
 ボストンの人口:https://worldpopulationreview.com/us-cities/boston-population/

 「過去の都道府県の人口一覧」によれば1898年の京都府の人口は約100万人で、1900年頃のボストンの人口は上記のリンクによれば約56万人とのことなので、これ等の数字が正しい場合あまり人口数は似通っているとは言えませんが、京都の人口がこの100年間で急激に増加したことがよく分かります。

※コメント欄でボストン市との比較であれば京都市との比較なのでは?というご指摘を受けました。記述内には横浜も含まれているのでご指摘の通りだと思います。京都市の場合以下のリンクによると1901年の人口は375,841人で1906年の人口は395,981人でボストンの人口と近くなります。
http://demography.blog.fc2.com/blog-entry-366.html



●こちらは森次太郎がアメリカに行く時に乗った船についての記述です。
船は鎌倉丸で總噸數(総トン数)六千百二十三噸(トン)、随分豪氣なものである、

森次太郎 『欧米書生旅行』 1906年 博文館 p.2

 この鎌倉丸は日本郵船所有だった客船のようですが、昭和5年に就役した秩父丸(昭和14年に鎌倉丸に改名)の情報しか見つかりませんでした。もし詳しいことをご存知の方や写真を持っているという方は是非教えて下さい。

 森次太郎は随分この鎌倉丸の事を気に入ったようで、この後も本文中で「船は山の動くやうなものである」、「鎌倉丸の猛勢眞に壯絕快絕であつた」、「千石船に乗た心持と云ふが六千噸以上の船に乗た心持は太平なものであつた」といったように鎌倉丸の船旅の良さについて何度も言及しています。

 ※「千石船(弁才船)」は江戸時代を中心に使われていた大型の木造船です。
 関連:弁才船
 Ueno_junks

 ちなみに6000トンの船で調べたところ海上保安庁の巡視船の「みずほ」がそれに該当するそうです。
 関連:みずほ (巡視船・2代)
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※コメント欄で鎌倉丸と姉妹船の常陸丸の存在を教えて頂きました。
常陸丸
800px-HitachiMaru1898



●こちらは森次太郎がアメリカに到着して最初に耳にしたニュースについてです。
新世界の港に入(い)りて未だ上陸せざるに第一番に予等の耳を驚かせしは大統領マツキンレー氏の無政府黨(とう)スヰス人某のために狙撃せられしことであつたが

森次太郎 『欧米書生旅行』 1906年 博文館 p.12

 これはアメリカ合衆国第25代大統領ウィリアム・マッキンリーが無政府主義者のレオン・チョルゴッシュによって暗殺された事件についての記述です。マッキンリーが銃撃されたのは1901年9月5日午後4時7分とのことなので、森次太郎がこのニュースを耳にしたのはおそらく1901年9月6日の午前中頃だと思われます。
 関連:マッキンリー大統領暗殺事件

 本文中では銃撃したのはスイス人とされていますが、レオン・チョルゴッシュはミシガン州の生まれとのことなので事件発生から間もない段階ということもあり情報が錯綜していたということが読み取れます。ただ、森次太郎がこの旅行記を出したのは事件発生から大分経ってからなので、特に調べ直したりせず事件を聞いたときのことをそのまま書いたということなのかもしれません。
 レオン・チョルゴッシュ



●こちらは汽車でアメリカ人女性がよくしてくることについての記述です
一躰(いったい)西洋婦人は座る時に横尻で人を押(おし)まくる癖があるが可愛らしい尻ならまだしも醜婦(しゅうふ)の畚尻(ふごじり)で無作法に押されたりするのは厭なものである。

森次太郎 『欧米書生旅行』 1906年 博文館 p.32

 この記述を読んで最初に連想したのが大阪のおばちゃんのイメージでした。果たして明治時代の大阪府にも大阪のおばちゃんが存在したかどうかは定かではありませんが、一般的にこのようなことはされていなかったとは思いますので森次太郎の驚きも大きなものだったのだろうと思います。

 これはアメリカ合衆国での汽車での出来事ではありますが、森次太郎はここでアメリカの婦人とはせずにあえて西洋婦人としているのでひょっとしたらヨーロッパでも似たような経験をしたことがあるのかもしれません。



●こちらはナイアガラの滝について森次太郎がドイツ人女性から聞いたことについてです。
『カナダの方へ行きますと全く人氣が違つて居りますよ、橋一つですが妙なもので、亞米利加から歐羅巴に行つたやうな気がしますよ、カナダ側の方はアメリカ側のごとくソワソワして居らず静かでしてね、言葉も風俗も大分違うて居りますよ、』

森次太郎 『欧米書生旅行』 1906年 博文館 p.107

 このアメリカ合衆国側からのナイアガラの滝と、カナダ側からのナイアガラの滝では印象が違うということは海外掲示板で言われているのを見かけることがよくあります。

 以下のようなナイアガラの滝はアメリカ合衆国側とカナダ側どっちの方が良いのかという記事でも冒頭で「皆さんはナイアガラの滝はカナダ側の方が良いと聞いたことがあるのではないでしょうか」のような感じで書かれているように、カナダ側を推している人は多いです。
 https://www.world-of-waterfalls.com/niagara-falls-which-side-is-better/ 

 ※アメリカ合衆国側から見たナイアガラの滝
 キャプチャ
 https://www.youtube.com/watch?v=SsybdnAe7I0

 ※カナダ側から見たナイアガラの滝
 キャプチャ
 https://www.youtube.com/watch?v=OFzOvb41yuA



●こちらはナイアガラの滝での自殺についての記述です。
茲(ここ)に一つ可笑(おか)しき話はナイアガラ瀑布の下にてピストル自殺を為すものの少なからぬ事である、ピストルで死ぬ気なら御苦労にも態々(わざわざ)瀑布(ばくふ)まで出て来ずともよからうに瀑布まで出て来て飛び込もせずピストル往生をするとは何とも合點(がてん)の行かぬ話である、ピストルで仕損じたら瀑布に飛び込むとの入念であらうか。

森次太郎 『欧米書生旅行』 1906年 博文館 p.110

 最後の森次太郎による「ピストルで仕損じたら瀑布に飛び込むとの入念であらうか。」という考察が冷静過ぎて、不謹慎ですが少しクスッと笑ってしてしまいました。

 以下のウィキペディアの記事によれば1850年から2011年までの間にナイアガラの滝の下で約5000の遺体が見つかっていて、毎年20-30人が自殺しているそうです。投身自殺の大半はカナダ側からで55-70パーセント程度の割合とのことでした。
 List of objects that have gone over Niagara Falls

 ピストル自殺の部分はある意味興味深い記述だったのでより詳しいことを調べたいとも思ったのですが、詳しく調べてしまうとNSFW(仕事中に閲覧するには注意が必要)な画像が出てくる予感がしたので断念しました。



●こちらはポーランド人から日露戦争勝利を祝われたことについての記述です。
彼等は日本の戰勝を非常に喜びつつ彼等自身のポーリツシであることを白狀した、予は面白半分に『君達は露西亞人であるゆへ予の敵でないか』といふたら彼等は『ポーリツシは露國人でも露國政府の敵である、日本の勝利を心より喜ぶ』といひ又(ま)た『波蘭土(ポーランド)人の戰場にあるものは鐵砲(てっぽう)を日本軍に向けて放たず空を射て居るのである、日本軍の大將黑木は波蘭土の英雄クロウスキーの末裔である』など眞面目に信じて居て話すのが可笑しい

森次太郎 『欧米書生旅行』 1906年 博文館 p.135

 日露戦争以降の旅行記ではこのように外国人から戦勝を祝われたという記述は頻繁に見かけますが、特に目立つのが東ヨーロッパの国の人からの祝辞です。ポーランドの場合は分割されてから1917年にロシア革命が起こり、1918年にドイツ帝国が崩壊してようやく独立を果たすことになりますが、日露戦争の影響が大きかったことが窺えるという点で興味深い記述でした。

 この記述にあるポーランドの英雄「クロウスキー」が誰の事なのか調べたのですが判然としませんでした。もし御存知の方がいらっしゃれば教えてください。

※コメント欄でポーランド王国の宰相Mikołaj Kurowskiのことではないかとご指摘を頂きました。
https://en.wikipedia.org/wiki/Miko%C5%82aj_Kurowski



●こちらは英米のちょっとした違いについての記述です。
網棚の棒の掲示に『この棚は輕(かる)いものを載せる爲に設けてあるのです、重い物を載せてはなりません』と十五語を用ひて居た、予は是(これ)が米國のなら、五字が七字で書く所であらうと思ひ、コンナ小さい點にも英米の差があるかとチヨツト可笑しかつた。

森次太郎 『欧米書生旅行』 1906年 博文館 p.152

 こういう何気ない違いというのは見落としがちではありますが、こういうところに着目することが出来た森次太郎は各国をよく観察しながら旅行をしていたのではないでしょうか。

 実際の原文がどのような感じであったのかということが分かりませんが、仮にこの訳が直訳だった場合かなり丁寧な書き方をしていると思いますので、そういうところは警察官が非常に丁重なことで有名だった当時のイギリスのイメージに合致していると思います。



●こちらは当時のアメリカ人の外国人に対する見方についての記述です。
米國人は外人と見れば一も二もなく輕侮(けいぶ)の情を以て迎える風がある、是も無理ならぬことで米國に入(い)り込む外人は多くは下等の人間計(ばか)りである故に自然に外人を賤しむの驕傲心(きょうごうしん)を生ずるのであらう、

森次太郎 『欧米書生旅行』 1906年 博文館 p.231

 移民の多くが「下等の人間計り」というのはなかなか強い表現ですが、当時のアメリカ合衆国の社会の様子の一端が窺える記述です。

 元々当時アメリカ合衆国に移住しようという人の多くはアメリカ合衆国で一旗揚げようという人やジャガイモ飢饉のように自国での生活が成り立たなくなったという層が中心だったと思われますので自然な事だったのだと思われます。
 関連:ジャガイモ飢饉

 果たして外国人を「輕侮の情を以て迎える風がある」というのがどれほど一般的な風潮だったのかは定かではありませんが、現代の人間では当時の雰囲気を実際に体験することは出来ませんので当時の雰囲気を把握する上で参考になる記述でした。



●こちらは森次太郎がイメージしていたフランスと実際のフランスの違いについての記述です。
正直に白狀すれば予は佛國(ふつこく)を輕んじて居たのである、人口は減少しつつある、殖民地は衰微して居る、製造工業は英米及び近來隆々(りゅうりゅう)たる獨逸に及ばざるのみならず天然の富源(ふげん)が少ない、人氣は輕薄にして政治的變動(へんどう)は猫の眼の變ずる如く、革命又た革命は佛国の持病と云ふても差支えない有様であるゆへ、佛國の全盛は百數十年前の夢であつて今世紀の終りには今日の西班牙(スペイン)位のものに零落するであらふと多寡(たか)を括つて居たのである、

然(しか)るに汽笛一聲(いっせい)ロンドンを發(はっ)して佛國に入り、足パリの地を踏み、眼パリの實際(じっさい)を見ると、街衢(がいく)の清麗なると建築物の廣壯(こうそう)なること眞(しん)に天下の盛觀(せいかん)にして驚かざるを得なんだ、

森次太郎 『欧米書生旅行』 1906年 博文館 p.248

 こちらも現代の人間では分からない当時の人だからこそ感じることが出来たフランスのイメージで面白い内容でした。歴史書籍を読んでいても何となく当時の各国の状況はイメージできますが、こういう風に具体的にイメージできるのはその時代に生きていた人の特権だと思います。

 逆に言えばこういうところに注意を払っていると後世の人の参考になるということもよく分かり大変為になりました。



●こちらはアメリカと英仏での水の違いについての記述です。
予は下戸ゆへ水ばかり呑(の)んで居るのじやがアメリカから來ては英佛共に氷を使はぬゆへ水が暖かなのは面黒かつた、

森次太郎 『欧米書生旅行』 1906年 博文館 p.270

 現代でも海外掲示板を見ているとヨーロッパ旅行をしたアメリカ人が飲み物に氷が入っていないことに文句を言い、それに対してヨーロッパの国の人が自分の国ではアメリカとは違い飲み放題ではないのだから氷が入っていると味が薄くなってしまうと反論している様子をよく見かけます。こういう時代によって変わっていない部分というのは大変興味深いです。
 関連:Why do Europeans laugh at Americans’ use of ice in drinks?

 もう一つ面白かったのは「面黒い」という表現です。これが「面白い」の反対で「つまらない」という意味になるという知識自体はありましたが、実際に当時の人が使っている様子を見るのは面白かったですし言葉が時代によって変わることも改めてしみじみと感じました。

※こちらコメント欄でこの「面黒い」は「面白い」の意味で使われているのではないかというご指摘を受けました。



●こちらは森次太郎が聞いたイギリス人から見たフランスの銅像の特徴についての記述です。
ハウスマン通りとメツシーヌ通りの交叉(こうさ)する辻にシエーキスピーアの銅像がある、或る英人が之を評して『形はよく出来て居るがドウシテモ佛蘭西(フランス)的である威嚴(いげん)も權力(けんりょく)も表はれて居らぬ天成の詩人も輕業師の如きものに見らるる』と云ふて居るが莊重でないのと威嚴がないのとは佛人の大缺點(だいけってん)であらふ。

森次太郎 『欧米書生旅行』 1906年 博文館 p.278

 人が作り上げるものには何らかの特徴が出るのは必然ですが、このように作品に国民性が現われているというのは極めて興味深いものであり、イギリス人が考える「佛蘭西的」の意味も具体的に書かれていて大変面白かったです。

 実際このシェイクスピアの銅像はどういうものなのか見てみたかったので現代でも残っているかどうかグーグルストリートビューで以下の辺りを探してみたのですが残念ながら見つかりませんでした。

キャプチャ
http://urx.red/R8Lj

 ただ更に調べたところ古い写真にそのシェイクスピアの銅像が写っているものを幾つか見つけることが出来ました。皆さんの参考になれば幸いです。

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関連記事
「君たちの国における『シェイクスピア』は誰なのか教えて欲しい」海外のまとめ



●こちらは日本の巡査についての記述です。
街上に出て親切に通行人の世話をすると思うて居たに、この頃は巡査の風(ふう)が少し悪くなつて居る、

森次太郎 『欧米書生旅行』 1906年 博文館 p.288

 先日の記事では当時の警察官は怖い存在だったのかもしれないという風に書いていましたが、この記述を読むと多少巡査の雰囲気は悪くなっていたものの親切に道案内をする存在と考えられていたようです。

 歴史的な記述というのは片方がAと言っていたらもう片方はBと言っていてバラバラの事が書いてあることが多いので頭を悩ませることが多いのですが、それと同時に、それらの記述から地域差や個人差、人による考え方の違いを考慮する作業は面白くもあります。




キャプチャ

※ロンドン、レスター・スクウェアのシェイクスピア像
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※大英図書のシェイクスピア像
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◆「日本とフランスでの芸術家の社会的地位の違い etc」(明治時代の海外旅行記:『欧米小観』)


こちらは明治時代の小説家である大橋乙羽が1900年(明治33年)に欧米各国を訪れた時の旅行記(『欧米小観』)で興味深かった記述や当時の社会の様子が窺える記述をまとめた記事です。


<大橋乙羽>

大橋 乙羽(おおはし おとわ、明治2年6月4日(1869年7月12日) - 明治34年(1901年)6月1日)は、日本の小説家、編集者。本名は又太郎、旧姓は渡部。羽前国米沢(現・山形県米沢市)生まれ。

硯友社に入り『こぼれ松葉』『露小袖』などを執筆。のち博文館主人大橋佐平の娘婿・養子となり、博文館に入社。樋口一葉を商業誌デビューさせたほか、尾崎紅葉、巌谷小波らを担当し、日本の近代文学における編集者の先駆けであった。著書に小説などをまとめた『花鳥集』『若菜籠』、紀行文集『千山万水』など。

大橋乙羽


このサイトでは普段、文化の違いや価値観の違いをテーマに「海外の反応」の記事を作っていますが、明治時代の日本人の海外旅行記を題材に似たような記事が作れるのではないかと考え、現在実験的にこのような記事を作っています。

実験的な記事であり、現在問題点や改善点を洗い出している所なので是非忌憚のない意見を書き込んで頂ければと思います。

なお、引用箇所の一部には現代の基準だとあまり良くない表現がある場合もありますが、歴史的記述であることを尊重し一切手を加えていません。

※コメント欄での助言を受け、「海外の反応」記事と区別するため記事タイトル冒頭に「◆」を実験的に付けています。


参考文献:大橋乙羽 『欧米小観』 1901年 博文館
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【宣伝】暇劇の同人誌(『幕末・明治期の西洋人が見た日本(絵画篇)』)が完成しました。
【宣伝】暇劇の同人誌第二弾(『幕末・明治期の西洋人が見た日本(入浴文化篇)』)が完成しました。

※YouTubeにも動画としてアップしました(https://youtu.be/INr2oGSsVTE)
[PR] 暇は無味無臭の劇薬のYouTubeチャンネル:https://bit.ly/2Z9Rsek

明治時代の海外旅行記で面白かったところのまとめ
https://www.youtube.com/playlist?list=PLuw-ZwMGqW3ZcmQICv8NxZpn0uiUzy1SM




●こちらは欧米の浴室に温度計があることについての記述です。
殊に注意深き浴場には、湯の中に寒暖計を備へて、冷熱を計つてあるが如きは、實(じつ)に其用意の周到に驚かざるを得ないのだ。

大橋乙羽 『欧米小観』 1901年 博文館 p.8

 こちらは大橋乙羽が日本と欧米の浴場を比較している箇所での記述ですが、この「浴場」は日本と欧米で同じものではなく、日本の場合は公衆浴場を指して「浴場」として、欧米の場合は個人用の浴槽を指して「浴場」としています。

 西洋の風呂に温度計が備わっていることは大橋乙羽だけではなく、当時欧米を訪れた他の日本人も言及していたことなので珍しくない事だったのだと思います。例えば竹内逸は「浴室風景」の中で次のように触れています。

湯槽の傍に寒暖計が置いてある。風呂へ這入るのに寒暖計のお世話になるのはチト可怪しい。

竹内逸 『浴室風景』 1935年 岡倉書房 p.6

 現代の日本であれば銭湯や温泉で温度計が使用されて居る事は普通の事ですし、家庭の風呂であっても自動温度調節機能が備わっているようなタイプですと湯温が表示されていることはよくあることなので珍しい事でもありませんが、それでも当時の日本人が西洋の個人浴槽に温度計が備え付けられていることに驚いた気持ちは結構分かるのではないかと思います。

 当時の西洋の湯船の画像をググって見たところ、以下のような画像が見つかりました。こちらは1910年頃のものです。
 bathroom-1910



●こちらは当時の日本における外国人の見方についての記述です。
見よ、日本第一と云ひ、東洋第一と誇れる帝國ホテルに使はれてゐる、彼の料理人より給仕人等に至るまでが、悉く外國人を目して、今も猶(なお)毛唐と云ひ、碧眼紅髭の奴と呼んで、輕蔑の眼を以て遇するが如きは、實に其心事が解せられぬ程不心得なことと思ふ、此等は實に小人國的の小感情の頗(すこぶ)る卑しむべきものである、

大橋乙羽 『欧米小観』 1901年 博文館 p.11

 大橋乙羽が実際に帝国ホテルの内情に詳しかったかのかは分からないので、この記述のみで当時の帝国ホテルが本当にそうだったのかということは分かりませんが、仮にこれが本当であったとしたら帝国ホテルですらこのような状態ということですので、当時の日本での外国人蔑視の感情はかなり根深いものだったのだと思われます。

 差別的な感情というのは勿論読んでいて気持ちの良いものではありませんが、あくまでも学術的探究という立場に立ってみればそこには赤裸々な感情が詰み込まれているので当時の社会状況を把握するためにはとても興味深いものであると思います。



●こちらは当時の日本人が外国人観光客をぼったくっているという記述です。
我國では外人が箱根の湖水に舟遊(しゅうゆう)を試みんとしても、外人と見れば一艚(そう)の舟を貸すにさへ、莫大の暴利を貪るではないか、斯如(かくのごとき)有様であるので外人は一度でそれに懲りて、二度と我國人を顧みぬといふやうなことになるのだ、

大橋乙羽 『欧米小観』 1901年 博文館 p.13

 現代の日本では外国人観光客に対して、外国人であるからという理由で法外な料金を請求することはまず無いと思いますが、当時の日本は割とその辺りの感覚が緩かったようで似たようなことを当時の日本人が憤慨しながら批判しているのをよく見かけます。

 これは国際的な取引の場合でもそうだったようで、例えば大谷嘉兵衛はニューヨークにあるマゼソン商会支店の支配人であるモンガモリー氏と面会した時次のように言われています。

氏曰く日本商人と生糸を直接に取引するは今猶甚だ困難なり、何となれば約束を重んぜず見本と現物との間に相違を生ずる杯商業上の信用を軽視すればなり

大谷嘉兵衛 『欧米漫遊日誌』 1900年 大谷嘉兵衛 p.46

 ちなみに杉村楚人冠は「大英遊記」の中でなぜ当時の日本人が外国人に法外な料金を請求するようになったかということについて次のように触れています。

維新後間もなく日本に来た外國人が、日本の物價の比較的安かつたに乗じて、随分大びら切つて、出さなくて済む金を惜氣もなく出したものだが、之が先例になつて、今でも外人相手の商賣は、成るべく高く賣りつけやうとするので、今日の外人は、今更先人の作った惡例に苦められ切つて居る。

杉村楚人冠 『大英遊記』 1908年 有楽社 p.252

 もしそのまま日本人が外国人相手にこのような取引をし続けていたのであれば、今日の日本は随分違ったものになっていたかと思いますが、当時の日本人がそのような意識を改善する必要を世間に訴え、実際に改善していった先人の努力には大変なものがあったと思います。殊に国民的な意識というのはなかなか変えにくいものですのでその思いも一層強くなります。



●こちらはユダヤ人が金を握っていることについての記述です。
何処の国でも貧乏な国が外国の資本を入れやうとするには、先(ま)づ欧羅巴人が蛇蝎のやうに嫌つて居る猶太(ゆだや)人の金を借りなければならぬのです、

ツマリ猶太人は日本で謂へばアイスクリーム――高利貸の部類である、

大橋乙羽 『欧米小観』 1901年 博文館 pp.28-29

 ユダヤ人が資本家であり、ヨーロッパ人がユダヤ人を嫌っているということはさほど目新しいものではないと思いますが、続く「アイスクリーム――高利貸」という部分が興味深かったです。

 初見では一体何のことかさっぱり分からなかったので、グーグル先生を頼ったところ一発で答えを教えてもらえました。どうやら「アイスクリーム」の日本語訳である「氷菓子」から転じて「高利貸」となったようです。「お」と「う」の違いはさておき、言われてみれば一目瞭然で当時の言葉遊びに触れることが出来て面白かったです。

 4年後、貫一は冷酷無比な「アイス」となって再登場します。さて「アイス」とはなんでしょう?

 アイス→アイスクリーム→氷菓子→高利貸し

 まるで連想ゲームですね。高利で貸す金貸しは江戸時代から「高利貸し」と言われていましたが、明治時代に学生が「しゃれ」で作った俗語の「アイス」が広まったのです。

【日本語メモ】「アイス」になった金色夜叉・間貫一 2020.3.1

 上記のようにどうやら「金色夜叉」の中にこの「アイスクリーム」は出てくるそうです。男女の愛憎劇のような物語は少し苦手で未完ということもあり「金色夜叉」には手を出していなかったのですが今回の事で興味が出てきたのでさっそく読んでみようと思います。



●こちらは日本とフランスの芸術家の社会的地位の違いについての記述です。
所で日本で謂へばまア文學家や美術家と云ふ者は、ドチラかと云ふと今日の所では、社會(しゃかい)の上地位に置かれて居らぬのであるが、向ふの宴會へ往て見ると、全權公使又は大臣などが、寧ろ美術大家や文學大家の下の席に着いて居つて、吾々の實際(じっさい)見た所の、腕が一本しかない片腕の美術大家が、文部大臣閣下(是は日本でいふ)の上に席を取つて、傲然(ごうぜん)として……或は悠然として談笑を闘はし居ると云ふ有様で、私は實に面白く感じたのである、

大橋乙羽 『欧米小観』 1901年 博文館 pp.34-35

 こちらは当時の日本とフランスでの芸術家の地位の違いの一端が垣間見える興味深い記述でした。記述内の片腕の美術家というのは個人を特定できる重要な情報だと思ったので色々調べてみたのですが誰の事なのか判明しませんでした。もし、心当たりがあるという方がいらっしゃれば是非ご指摘ください。



●こちらはベルギーについての記述です。
あの國は大國と大國の閒に挾まつて居る國で、地圖(ちず)の上から見ても極く小さい國である、倂ながら其國民は非常に勤勉なものであつて、忍耐力が强い、譬(たと)へば岩崎と三井の間に挟まれて住つて居る者ならば、矢張(やはり)其善い事を眞似やうとするかの如く、國は小さいながらも大國に於(おい)てすら、自由に動かし得ない器械も、法律も、所謂(いわゆる)協同一致の力で、自由に運轉(うんてん)をして、此國では良成績を得て得る、

大橋乙羽 『欧米小観』 1901年 博文館 p.36

 こちらの記述を読むと当時のベルギーは挙国一致という感じがして意外でした。海外掲示板などを眺めているとベルギーの話題が出るときは基本的にフラマン人とワロン人に分かれて言い争いをしているか、無政府状態が一年以上も続いたということばかりなので一致団結というイメージからは結構遠かったです。私はベルギーには行ったことはないのですが意外と今でもそうなのでしょうか。

 記述内の「岩崎と三井」は「三菱と三井」とした方が現代的には分かりやすいと思うのですが、こういうところにも当時と現代の日本の違いを感じることが出来て面白かったです。



●こちらは大橋乙羽がドイツのベルリンで見かけた馬車についての記述です。
馬車には時間を計算する一つの器械が据付けてあつて、其車の廻轉(かいてん)毎に、線が動くので、例へば十分乗れば幾銭、三十分乗れば幾銭と云ふやうに、直ぐに居ながらにして定價が此器械に現はれて来るが、

大橋乙羽 『欧米小観』 1901年 博文館 p.40

 これはまさに現代のタクシーの前身とも言うべき存在で大変興味深かったです。距離ではなく時間での支払いとは書いていますが、停車(?)しているときはこのメーターは動かないと思いますので実質的には距離での支払いだったのではないでしょうか。

 なお、1900年頃のドイツのベルリンの馬車でググったところ以下のような写真が見つかりました。

 43405652car

 berlin-vers-1900

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●ことらはスイスの気風についての記述です。
此國は昔から他國の侵害を受けぬ國であるが、倂ながら尙武の氣風と云ふものは、一般に往き亘つて、其男なり女なりの風俗上、恰(あたか)も甲冑でも着て居るかと思ふ程、武装に近い扮装(いでたち)をして居るのである。

大橋乙羽 『欧米小観』 1901年 博文館 p.43

 スイスが古来より傭兵稼業で名を馳せていることは世界史でも有名ですが、そうした尚武の気風が国民性にも反映されているという面白い記述だと思います。

 1900年頃のスイスの写真でググってみましたが、「武装に近い扮装」のような写真は残念ながら見つかりませんでした。

 grindelwald-switzerland-early-1900s-DXTYWY



●こちらはイギリスの巡査についての記述です。
辻々には巡査が立番をして居つて、如何に馬車が數十百臺(だい)踵を接して相續(あいつづ)いて居つても、一度巡査が手を擧(あ)げるときは、數百兩の車なり或(あるい)は人なりが、巡査の命令に從つて、さうして進退自在なることは實(じつ)に吾々他國人の珍しく羨ましく咸ずるのである、兎に角人間としたならば、眞の文明的紳士と肩書を付けられ得る國は、此英吉利であらうと私は考へる。

大橋乙羽 『欧米小観』 1901年 博文館 p.52

 この記述からは当時の日本人はあまり警察官の指示に従っていなかったという感じですが、当時の日本の警察官といえば薩摩出身者が多く「おい、こら」のように高圧的だったというイメージが強かったので結構意外でした。

 田川大吉郎も1907年の「婦人の修養」の中で以下のように言及しているので、当時の警察官は怖いイメージだったと思うのですが、ひょっとしたら警察官が怖いのとその警察官の指示に従うのは別の問題だったということかも知れません。

お巡査(まわり)さんは人民に親しき筈の者なり、

お巡査さんを全く怖きもの、畏(おそ)ろしきものとして、避けさせ、隠れさする傾向あり、結果あり、お巡査さんの此世に在る本義を誤ること多し。

田川大吉郎 『婦人の修養』 1907年 金港堂 p.163



●こちらはオランダが綺麗であるということについての記述です。
其民は、極の潔癖で、紳士豪商の邸宅などは、實に奇麗なものである。尤も警察でも、淸潔といふ事には、非常に注意して、硝子(がらす)窓に少(ち)つとでも、埃(ごみ)など溜まつてゐるやうものなら、直ぐ罰せられるといふ程である。

大橋乙羽 『欧米小観』 1901年 博文館 p.79

 オランダが綺麗好きであるというのは当時よく見かける見解です。明治時代に来日した西洋人はよく日本は清潔で日本人は綺麗好きであると言っているのですが、その際よくオランダのように清潔といった感じで比較されることが多いです。

 例えばツュンベリーは「江戸参府随行記」の中で以下のように言及しています。

その国のきれいさと快適さにおいて、かつてこんなにも気持ち良い旅ができたのはオランダ以外にはなかった。

C・P・ツュンベリー 『江戸参府随行記』 1994年 平凡社 p.129

 また、清潔にしていないと警察から罰金が科されるというのは現代のシンガポールのようです。



●こちらはドイツの軍人についての記述です。
軍人の幅の利けることは、非常にして、文官の如きは、殆ど喪家の犬、夜會にも此人無ければ、宴席に花の無いと等しく、少尉がお妃の手を採つて、舞踏を演(や)れば、皇帝はただその舞踏の妙であることを望まるるばかり、畢竟(ひっきょう)今日の太平は、軍人の功であるとは云ふものの、餘(あま)り僭上の厚遇(もてかた)である。それで今では貴婦人の翫弄物(おもちゃ)のやうになつて、軍服の下に、婦人の腰に用ふるコルセツトを嵌めて、顔に薄化粧の士官が、滔々(とうとう)伯林(ベルリン)の貔貅(ひきゅう)を支配してゐるとは、とても面白い國風である。

大橋乙羽 『欧米小観』 1901年 博文館 p.87

 当時ドイツを訪れた日本人がよくその旅行記の中で書き残していることがこのドイツの軍人重視の傾向についてです。先日の記事でも触れたようなドイツには決闘による顔の傷を名誉の勲章としていたという風潮からも尚武の気風を感じとることが出来ます。

関連記事
「日本とフランスの接客の違い etc」(明治時代の海外旅行記:『欧米紀遊二万三千哩』)
フランスの決闘と比較して面白いのはドイツの決闘である。ドイツ人は非常に虛榮心が强くつて空威張りをすることが好きだ。

この決闘はフランスに於けるが如く生死の決闘ではなくて、何れか自慢の鼻を折ればよいのである。そこで切合ひをするのであるが、その切り合ひたるや、眼をかくし、咽をかくして命には障りがないようにしておいて、何れかの頬さきにかすり傷が出来ればそれで満足するのである。これは重に學生間に行はれるので、この刀傷は教育を受けたといふ印になるのである。

五来欣造 『仏蘭西及仏蘭西人』 1915年 富山房 pp.18-19

 なお、本文中にある「貔貅(ひきゅう)」というのは伝説上の生き物の事で、勇ましい兵士の例えにも使われるそうです。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%94%E8%B2%85



●こちらはウィーンの人の気質についての記述です。
大躰(だいたい)を云へば人間は惰弱で、節儉(せっけん)の念が無くて、氣がサツパリしてゐて、所謂(いわゆる)宵越の錢は遣(つか)はねえといふ處(ところ)、江戸ツ兒に似て居ます。

大橋乙羽 『欧米小観』 1901年 博文館 p.93

 オーストリアには行ったことがないので芸術の国というイメージくらいしかないので、当時のウィーン人の気質が江戸っ子に似ているというのは意外で興味深かったです。

 以下は1900年頃のウィーンの写真です。
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キャプチャ


「日本とフランスでの芸術家の社会的地位の違い etc」(明治時代の海外旅行記:『欧米小観』)


こちらは明治時代の小説家である大橋乙羽が1900年(明治33年)に欧米各国を訪れた時の旅行記(『欧米小観』)で興味深かった記述や当時の社会の様子が窺える記述をまとめた記事です。


<大橋乙羽>

大橋 乙羽(おおはし おとわ、明治2年6月4日(1869年7月12日) - 明治34年(1901年)6月1日)は、日本の小説家、編集者。本名は又太郎、旧姓は渡部。羽前国米沢(現・山形県米沢市)生まれ。

硯友社に入り『こぼれ松葉』『露小袖』などを執筆。のち博文館主人大橋佐平の娘婿・養子となり、博文館に入社。樋口一葉を商業誌デビューさせたほか、尾崎紅葉、巌谷小波らを担当し、日本の近代文学における編集者の先駆けであった。著書に小説などをまとめた『花鳥集』『若菜籠』、紀行文集『千山万水』など。

大橋乙羽


このサイトでは普段、文化の違いや価値観の違いをテーマに「海外の反応」の記事を作っていますが、明治時代の日本人の海外旅行記を題材に似たような記事が作れるのではないかと考え、現在実験的にこのような記事を作っています。

実験的な記事であり、現在問題点や改善点を洗い出している所なので是非忌憚のない意見を書き込んで頂ければと思います。

なお、引用箇所の一部には現代の基準だとあまり良くない表現がある場合もありますが、歴史的記述であることを尊重し一切手を加えていません。


参考文献:大橋乙羽 『欧米小観』 1901年 博文館
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【宣伝】暇劇の同人誌(『幕末・明治期の西洋人が見た日本(絵画篇)』)が完成しました。
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※YouTubeにも動画としてアップしました(https://youtu.be/INr2oGSsVTE)
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明治時代の海外旅行記で面白かったところのまとめ
https://www.youtube.com/playlist?list=PLuw-ZwMGqW3ZcmQICv8NxZpn0uiUzy1SM




●こちらは欧米の浴室に温度計があることについての記述です。
殊に注意深き浴場には、湯の中に寒暖計を備へて、冷熱を計つてあるが如きは、實(じつ)に其用意の周到に驚かざるを得ないのだ。

大橋乙羽 『欧米小観』 1901年 博文館 p.8

 こちらは大橋乙羽が日本と欧米の浴場を比較している箇所での記述ですが、この「浴場」は日本と欧米で同じものではなく、日本の場合は公衆浴場を指して「浴場」として、欧米の場合は個人用の浴槽を指して「浴場」としています。

 西洋の風呂に温度計が備わっていることは大橋乙羽だけではなく、当時欧米を訪れた他の日本人も言及していたことなので珍しくない事だったのだと思います。例えば竹内逸は「浴室風景」の中で次のように触れています。

湯槽の傍に寒暖計が置いてある。風呂へ這入るのに寒暖計のお世話になるのはチト可怪しい。

竹内逸 『浴室風景』 1935年 岡倉書房 p.6

 現代の日本であれば銭湯や温泉で温度計が使用されて居る事は普通の事ですし、家庭の風呂であっても自動温度調節機能が備わっているようなタイプですと湯温が表示されていることはよくあることなので珍しい事でもありませんが、それでも当時の日本人が西洋の個人浴槽に温度計が備え付けられていることに驚いた気持ちは結構分かるのではないかと思います。

 当時の西洋の湯船の画像をググって見たところ、以下のような画像が見つかりました。こちらは1910年頃のものです。
 bathroom-1910



●こちらは当時の日本における外国人の見方についての記述です。
見よ、日本第一と云ひ、東洋第一と誇れる帝國ホテルに使はれてゐる、彼の料理人より給仕人等に至るまでが、悉く外國人を目して、今も猶(なお)毛唐と云ひ、碧眼紅髭の奴と呼んで、輕蔑の眼を以て遇するが如きは、實に其心事が解せられぬ程不心得なことと思ふ、此等は實に小人國的の小感情の頗(すこぶ)る卑しむべきものである、

大橋乙羽 『欧米小観』 1901年 博文館 p.11

 大橋乙羽が実際に帝国ホテルの内情に詳しかったかのかは分からないので、この記述のみで当時の帝国ホテルが本当にそうだったのかということは分かりませんが、仮にこれが本当であったとしたら帝国ホテルですらこのような状態ということですので、当時の日本での外国人蔑視の感情はかなり根深いものだったのだと思われます。

 差別的な感情というのは勿論読んでいて気持ちの良いものではありませんが、あくまでも学術的探究という立場に立ってみればそこには赤裸々な感情が詰み込まれているので当時の社会状況を把握するためにはとても興味深いものであると思います。



●こちらは当時の日本人が外国人観光客をぼったくっているという記述です。
我國では外人が箱根の湖水に舟遊(しゅうゆう)を試みんとしても、外人と見れば一艚(そう)の舟を貸すにさへ、莫大の暴利を貪るではないか、斯如(かくのごとき)有様であるので外人は一度でそれに懲りて、二度と我國人を顧みぬといふやうなことになるのだ、

大橋乙羽 『欧米小観』 1901年 博文館 p.13

 現代の日本では外国人観光客に対して、外国人であるからという理由で法外な料金を請求することはまず無いと思いますが、当時の日本は割とその辺りの感覚が緩かったようで似たようなことを当時の日本人が憤慨しながら批判しているのをよく見かけます。

 これは国際的な取引の場合でもそうだったようで、例えば大谷嘉兵衛はニューヨークにあるマゼソン商会支店の支配人であるモンガモリー氏と面会した時次のように言われています。

氏曰く日本商人と生糸を直接に取引するは今猶甚だ困難なり、何となれば約束を重んぜず見本と現物との間に相違を生ずる杯商業上の信用を軽視すればなり

大谷嘉兵衛 『欧米漫遊日誌』 1900年 大谷嘉兵衛 p.46

 ちなみに杉村楚人冠は「大英遊記」の中でなぜ当時の日本人が外国人に法外な料金を請求するようになったかということについて次のように触れています。

維新後間もなく日本に来た外國人が、日本の物價の比較的安かつたに乗じて、随分大びら切つて、出さなくて済む金を惜氣もなく出したものだが、之が先例になつて、今でも外人相手の商賣は、成るべく高く賣りつけやうとするので、今日の外人は、今更先人の作った惡例に苦められ切つて居る。

杉村楚人冠 『大英遊記』 1908年 有楽社 p.252

 もしそのまま日本人が外国人相手にこのような取引をし続けていたのであれば、今日の日本は随分違ったものになっていたかと思いますが、当時の日本人がそのような意識を改善する必要を世間に訴え、実際に改善していった先人の努力には大変なものがあったと思います。殊に国民的な意識というのはなかなか変えにくいものですのでその思いも一層強くなります。



●こちらはユダヤ人が金を握っていることについての記述です。
何処の国でも貧乏な国が外国の資本を入れやうとするには、先(ま)づ欧羅巴人が蛇蝎のやうに嫌つて居る猶太(ゆだや)人の金を借りなければならぬのです、

ツマリ猶太人は日本で謂へばアイスクリーム――高利貸の部類である、

大橋乙羽 『欧米小観』 1901年 博文館 pp.28-29

 ユダヤ人が資本家であり、ヨーロッパ人がユダヤ人を嫌っているということはさほど目新しいものではないと思いますが、続く「アイスクリーム――高利貸」という部分が興味深かったです。

 初見では一体何のことかさっぱり分からなかったので、グーグル先生を頼ったところ一発で答えを教えてもらえました。どうやら「アイスクリーム」の日本語訳である「氷菓子」から転じて「高利貸」となったようです。「お」と「う」の違いはさておき、言われてみれば一目瞭然で当時の言葉遊びに触れることが出来て面白かったです。

 4年後、貫一は冷酷無比な「アイス」となって再登場します。さて「アイス」とはなんでしょう?

 アイス→アイスクリーム→氷菓子→高利貸し

 まるで連想ゲームですね。高利で貸す金貸しは江戸時代から「高利貸し」と言われていましたが、明治時代に学生が「しゃれ」で作った俗語の「アイス」が広まったのです。

【日本語メモ】「アイス」になった金色夜叉・間貫一 2020.3.1

 上記のようにどうやら「金色夜叉」の中にこの「アイスクリーム」は出てくるそうです。男女の愛憎劇のような物語は少し苦手で未完ということもあり「金色夜叉」には手を出していなかったのですが今回の事で興味が出てきたのでさっそく読んでみようと思います。



●こちらは日本とフランスの芸術家の社会的地位の違いについての記述です。
所で日本で謂へばまア文學家や美術家と云ふ者は、ドチラかと云ふと今日の所では、社會(しゃかい)の上地位に置かれて居らぬのであるが、向ふの宴會へ往て見ると、全權公使又は大臣などが、寧ろ美術大家や文學大家の下の席に着いて居つて、吾々の實際(じっさい)見た所の、腕が一本しかない片腕の美術大家が、文部大臣閣下(是は日本でいふ)の上に席を取つて、傲然(ごうぜん)として……或は悠然として談笑を闘はし居ると云ふ有様で、私は實に面白く感じたのである、

大橋乙羽 『欧米小観』 1901年 博文館 pp.34-35

 こちらは当時の日本とフランスでの芸術家の地位の違いの一端が垣間見える興味深い記述でした。記述内の片腕の美術家というのは個人を特定できる重要な情報だと思ったので色々調べてみたのですが誰の事なのか判明しませんでした。もし、心当たりがあるという方がいらっしゃれば是非ご指摘ください。



●こちらはベルギーについての記述です。
あの國は大國と大國の閒に挾まつて居る國で、地圖(ちず)の上から見ても極く小さい國である、倂ながら其國民は非常に勤勉なものであつて、忍耐力が强い、譬(たと)へば岩崎と三井の間に挟まれて住つて居る者ならば、矢張(やはり)其善い事を眞似やうとするかの如く、國は小さいながらも大國に於(おい)てすら、自由に動かし得ない器械も、法律も、所謂(いわゆる)協同一致の力で、自由に運轉(うんてん)をして、此國では良成績を得て得る、

大橋乙羽 『欧米小観』 1901年 博文館 p.36

 こちらの記述を読むと当時のベルギーは挙国一致という感じがして意外でした。海外掲示板などを眺めているとベルギーの話題が出るときは基本的にフラマン人とワロン人に分かれて言い争いをしているか、無政府状態が一年以上も続いたということばかりなので一致団結というイメージからは結構遠かったです。私はベルギーには行ったことはないのですが意外と今でもそうなのでしょうか。

 記述内の「岩崎と三井」は「三菱と三井」とした方が現代的には分かりやすいと思うのですが、こういうところにも当時と現代の日本の違いを感じることが出来て面白かったです。



●こちらは大橋乙羽がドイツのベルリンで見かけた馬車についての記述です。
馬車には時間を計算する一つの器械が据付けてあつて、其車の廻轉(かいてん)毎に、線が動くので、例へば十分乗れば幾銭、三十分乗れば幾銭と云ふやうに、直ぐに居ながらにして定價が此器械に現はれて来るが、

大橋乙羽 『欧米小観』 1901年 博文館 p.40

 これはまさに現代のタクシーの前身とも言うべき存在で大変興味深かったです。距離ではなく時間での支払いとは書いていますが、停車(?)しているときはこのメーターは動かないと思いますので実質的には距離での支払いだったのではないでしょうか。

 なお、1900年頃のドイツのベルリンの馬車でググったところ以下のような写真が見つかりました。

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●ことらはスイスの気風についての記述です。
此國は昔から他國の侵害を受けぬ國であるが、倂ながら尙武の氣風と云ふものは、一般に往き亘つて、其男なり女なりの風俗上、恰(あたか)も甲冑でも着て居るかと思ふ程、武装に近い扮装(いでたち)をして居るのである。

大橋乙羽 『欧米小観』 1901年 博文館 p.43

 スイスが古来より傭兵稼業で名を馳せていることは世界史でも有名ですが、そうした尚武の気風が国民性にも反映されているという面白い記述だと思います。

 1900年頃のスイスの写真でググってみましたが、「武装に近い扮装」のような写真は残念ながら見つかりませんでした。

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●こちらはイギリスの巡査についての記述です。
辻々には巡査が立番をして居つて、如何に馬車が數十百臺(だい)踵を接して相續(あいつづ)いて居つても、一度巡査が手を擧(あ)げるときは、數百兩の車なり或(あるい)は人なりが、巡査の命令に從つて、さうして進退自在なることは實(じつ)に吾々他國人の珍しく羨ましく咸ずるのである、兎に角人間としたならば、眞の文明的紳士と肩書を付けられ得る國は、此英吉利であらうと私は考へる。

大橋乙羽 『欧米小観』 1901年 博文館 p.52

 この記述からは当時の日本人はあまり警察官の指示に従っていなかったという感じですが、当時の日本の警察官といえば薩摩出身者が多く「おい、こら」のように高圧的だったというイメージが強かったので結構意外でした。

 田川大吉郎も1907年の「婦人の修養」の中で以下のように言及しているので、当時の警察官は怖いイメージだったと思うのですが、ひょっとしたら警察官が怖いのとその警察官の指示に従うのは別の問題だったということかも知れません。

お巡査(まわり)さんは人民に親しき筈の者なり、

お巡査さんを全く怖きもの、畏(おそ)ろしきものとして、避けさせ、隠れさする傾向あり、結果あり、お巡査さんの此世に在る本義を誤ること多し。

田川大吉郎 『婦人の修養』 1907年 金港堂 p.163



●こちらはオランダが綺麗であるということについての記述です。
其民は、極の潔癖で、紳士豪商の邸宅などは、實に奇麗なものである。尤も警察でも、淸潔といふ事には、非常に注意して、硝子(がらす)窓に少(ち)つとでも、埃(ごみ)など溜まつてゐるやうものなら、直ぐ罰せられるといふ程である。

大橋乙羽 『欧米小観』 1901年 博文館 p.79

 オランダが綺麗好きであるというのは当時よく見かける見解です。明治時代に来日した西洋人はよく日本は清潔で日本人は綺麗好きであると言っているのですが、その際よくオランダのように清潔といった感じで比較されることが多いです。

 例えばツュンベリーは「江戸参府随行記」の中で以下のように言及しています。

その国のきれいさと快適さにおいて、かつてこんなにも気持ち良い旅ができたのはオランダ以外にはなかった。

C・P・ツュンベリー 『江戸参府随行記』 1994年 平凡社 p.129

 また、清潔にしていないと警察から罰金が科されるというのは現代のシンガポールのようです。



●こちらはドイツの軍人についての記述です。
軍人の幅の利けることは、非常にして、文官の如きは、殆ど喪家の犬、夜會にも此人無ければ、宴席に花の無いと等しく、少尉がお妃の手を採つて、舞踏を演(や)れば、皇帝はただその舞踏の妙であることを望まるるばかり、畢竟(ひっきょう)今日の太平は、軍人の功であるとは云ふものの、餘(あま)り僭上の厚遇(もてかた)である。それで今では貴婦人の翫弄物(おもちゃ)のやうになつて、軍服の下に、婦人の腰に用ふるコルセツトを嵌めて、顔に薄化粧の士官が、滔々(とうとう)伯林(ベルリン)の貔貅(ひきゅう)を支配してゐるとは、とても面白い國風である。

大橋乙羽 『欧米小観』 1901年 博文館 p.87

 当時ドイツを訪れた日本人がよくその旅行記の中で書き残していることがこのドイツの軍人重視の傾向についてです。先日の記事でも触れたようなドイツには決闘による顔の傷を名誉の勲章としていたという風潮からも尚武の気風を感じとることが出来ます。

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「日本とフランスの接客の違い etc」(明治時代の海外旅行記:『欧米紀遊二万三千哩』)
フランスの決闘と比較して面白いのはドイツの決闘である。ドイツ人は非常に虛榮心が强くつて空威張りをすることが好きだ。

この決闘はフランスに於けるが如く生死の決闘ではなくて、何れか自慢の鼻を折ればよいのである。そこで切合ひをするのであるが、その切り合ひたるや、眼をかくし、咽をかくして命には障りがないようにしておいて、何れかの頬さきにかすり傷が出来ればそれで満足するのである。これは重に學生間に行はれるので、この刀傷は教育を受けたといふ印になるのである。

五来欣造 『仏蘭西及仏蘭西人』 1915年 富山房 pp.18-19

 なお、本文中にある「貔貅(ひきゅう)」というのは伝説上の生き物の事で、勇ましい兵士の例えにも使われるそうです。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%94%E8%B2%85



●こちらはウィーンの人の気質についての記述です。
大躰(だいたい)を云へば人間は惰弱で、節儉(せっけん)の念が無くて、氣がサツパリしてゐて、所謂(いわゆる)宵越の錢は遣(つか)はねえといふ處(ところ)、江戸ツ兒に似て居ます。

大橋乙羽 『欧米小観』 1901年 博文館 p.93

 オーストリアには行ったことがないので芸術の国というイメージくらいしかないので、当時のウィーン人の気質が江戸っ子に似ているというのは意外で興味深かったです。

 以下は1900年頃のウィーンの写真です。
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「日本とフランスの接客の違い etc」(明治時代の海外旅行記:『欧米紀遊二万三千哩』)


こちらは明治時代の随筆家である戸川秋骨が1907年(明治40年)に欧米各国を訪れた時の旅行記(『欧米紀遊二万三千哩』)で興味深かった記述や当時の社会の様子が窺える記述をまとめた記事です。


私は文化の違いや価値観の違いが好きなので、普段からこのサイトの「海外の反応」でそういったテーマを取り上げることが多いのですが、明治時代の日本人の海外旅行記を題材に似たような記事が作れるのではないかと考え実験的にこのような記事を作ってみました。

実験的な記事なので、是非忌憚のない意見を書き込んで頂ければと思います。

なお、引用箇所の一部には現代の基準だとあまり良くない表現がある場合もありますが、歴史的記述であることを尊重し一切手を加えていません。


参考文献:戸川秋骨 『欧米紀遊二万三千哩』 1908年 服部書店
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【宣伝】暇劇の同人誌第二弾(『幕末・明治期の西洋人が見た日本(入浴文化篇)』)が完成しました。

※YouTubeにも動画としてアップしました(https://youtu.be/63Ag7jWcfG8)
[PR] 暇は無味無臭の劇薬のYouTubeチャンネル:https://bit.ly/2Z9Rsek

明治時代の海外旅行記で面白かったところのまとめ
https://www.youtube.com/playlist?list=PLuw-ZwMGqW3ZcmQICv8NxZpn0uiUzy1SM




●こちらは日本を出発する時に湧く感情についての記述です。
聞く處に依ると、日本を出立する場合には多く故國に對する眷戀の情と別離の咸とに充たされ、有髯男子でありながら屢々落涙に及ぶものさへあるといふことである。然るに余の心にはそんな美しい情が起らぬ。

戸川秋骨 『欧米紀遊二万三千哩』 1908年 服部書店 p.1

 戸川秋骨は日本を出発する時、日本を離れる寂しさよりも外国に向かうワクワクの方が大きかったと言ったようなことを述べていますが、彼が上記の箇所で多くの日本人が「別離の咸」に満たされ、男性ですら「落涙」するとしているのはなかなか興味深い箇所でした。

 当時明治時代の日本を訪れた外国人の多くは日本人が感情を外に出さない(特に涙を流さない)ことを挙って指摘していますが、その日本人の男性ですら人前で涙を流してしまうほどだったということからもその感情の強さが窺えました。(尤も日本人は表で感情を出さないだけで裏では泣いたりしていることは明治時代の日本人の著作でよく言及されていることです)

 戸川秋骨は日本を出発する際特に寂しくなかったことを挙げて「自分ほど愛国心の乏しいものはないであらう」と言っていますが、彼はこの後、姉川丸(※1)が救助活動をしている様子について「露西亜から分捕つた船で亜米利加船の乗客を救助する。こんな鼻の高いことはない。」という感想を残している点を見ても愛国心がないというわけではないようです。

※1:姉川丸は元々はロシアの「アンガラ」という仮装巡洋艦(後に病院船)であり、日露戦争において日本が手に入れ1906年から通報艦として活躍していた船です。
姉川 (通報艦)
anegawa



●こちらは靴磨きについての記述です。
余が日本を出る時には、未だ東京には這麼(こんな)職業は餘り見なかつたと思ふ。足を同胞の前に突付けて、靴を磨かせるのは、生まれて初めてで餘り好い心持は爲(し)ない。併しこの咸も暫時の事で後には慣れて何とも意(おも)はぬ様になつた。

戸川秋骨 『欧米紀遊二万三千哩』 1908年 服部書店 p.36

 当時の日本ではまだ靴磨きが一般的ではなかったという様子が分かる記述で、靴磨きの歴史が垣間見えました。



●こちらはサンフランシスコ地震の復興についての記述です。
若し余の記憶する處に誤りなくば、桑港の地震は四月の末であつたと思ふ。則ちすでに今十月の十日、やがて半年になる。然るに市街の光景は何たる狀であるか、道路は灰と泥との海である。壊れたる家屋の有様は丁度昨日焼けたばかりの火事場のやうで、まだ少しも手が付けられてない様だ。

全市盡く壊滅して灰と泥とに蔽はれて居る。慘狀といへば慘狀であるが、文明を誇る民の都としてはあまり秩序がなくまた意気地がなさ過ぎる。こんな事は到底氣早の江戸ッ子の堪え得る處ではない。江戸ッ子に限らず日本人の忍び得る處ではない、此れが日本ならば市の當局者は大攻撃を受る處であらう。

戸川秋骨 『欧米紀遊二万三千哩』 1908年 服部書店 pp.63-64

 この「桑港の地震」とは1906年4月18日早朝に起きた地震(M7.8程度)です。
 サンフランシスコ地震

 戸川秋骨はサンフランシスコの地震の惨状が半年経っても残ったままであることを訝しんでいますが、当時日本を訪れた西洋人が口を揃えて言っていたことの一つが、日本は震災後の復興が早いということについてです。

 いくつかの例を挙げると以下のような感じで言及されています。

地震によつて生じた災禍にも拘はらず、日本人の特性たる反發力が表はれてゐた。その特性はよく彼等の精力を證するものであつた。(中略)パウアタン號が出發する迄には約三百軒の新しい家屋が殆ど又は全く出來上がつてゐた。

フランシス・L・ホークス 『ペルリ提督日本遠征記 (四)』 1994年 岩波書店


地震ですぐに壊れるがすぐに建てなおされる。

エセル・ハワード 『明治日本見聞録 英国家庭教師婦人の回想』 1999年 講談社 p22


日本人の大工がふたたび家を建てなおす速さには、驚いた。

横浜開港資料館編 『ホームズ船長の冒険 開港前後のイギリス商社』 1993年 有隣堂 p.60

 日本人である戸川秋骨はこのように日本の地震の復興の早さに慣れ親しんでいたために、サンフランシスコ地震の被害が半年経っても手付かずであることを不思議に思ったのだと思われます。

 ちなみにサンフランシスコは地震が頻繁に起きることで知られていて、海外掲示板を覗いていると以下のような感じでよくネタにされるのを見かけます。

 in-response
 「アメリカ合衆国の地震の首都(サンフランシスコ)で震災保険に入ってないとかヤバいことになるよ」



●こちらは戸川秋骨がホテルで取材を受けた際の記述です。
話の間に「君は定めし東郷提督の名を聞て居るでせう」と今思へば馬鹿馬鹿しい質問をして見ると記者は得意になり「エーエー此の邊では東郷提督かワシントンかといふ位です――私も幾枚提督の寫眞を持つて居るか知れません」と云ひ例に依つて日本軍人の勇敢を賞揚する。

戸川秋骨 『欧米紀遊二万三千哩』 1908年 服部書店 pp.73-74

 この新聞記者は日本人に取材しているのでお世辞を言っている部分も多々あるのではないかと思いますが、それを差し引いても当時の世界で東郷提督がどういう存在であったかの一端を感じとることが出来る記述で興味深かったです。

 現代では旅行先で新聞記者から取材を受けるということはまず考えられないと思いますが、当時は割とよくあったようで他の明治時代の日本人の旅行記を読んでいても旅行先のホテルで取材を受けてそれが新聞の記事になったという記述はちょくちょく見かけます。



●こちらはアメリカ人の歩行速度についての記述です。
街路を行く人は皆駆走(かけあし)であるが、猶其顔面を觀ると近火で駆着けるか、若くは親の病氣が危篤で醫者(いしゃ)に駆着けるかと云ふ体である。

戸川秋骨 『欧米紀遊二万三千哩』 1908年 服部書店 p.92



●こちらは戸川秋骨が初めて自動車に乗った際の記述です。

自動車なる物に乗るのは此れが最初(はじめて)である。

馬車に乗つた時豪(え)らくなつた咸を有(も)つたが、自動車の方が更に豪らくなつた如(よう)な咸を與へる。風を切つて勢よく進行する處は痛快である。

戸川秋骨 『欧米紀遊二万三千哩 』 1908年 服部書店 p.110



やがて車は快き坦道を相變らず急速力で走る。此時紳士は余を顧て「此邊は自動車を走らせる其速力に一定の制限があつて、此程快(はや)くは走れないのであるが、今日は君達が居るので巡査も許して居る、多分日本の大使でも乗つて居ると意つて居るのであらう」と中々巧な御世辭を浴せ懸ける

戸川秋骨 『欧米紀遊二万三千哩』 1908年 服部書店 p.111

 ①の引用からは子供のような無邪気さを感じて微笑ましい記述でした。

 ②の引用からは当時はまだ道路交通法がそれほど整備されていなかった様子が感じとれました。「此邊は自動車を走らせる其速力に一定の制限があつて」ということはつまり速度制限が基本的には存在していなかったという可能性がありますし、警察官の許可で速度制限が無視できるようになるというのも現代から見るとなかなか凄い対応です。

 ちなみに1907年の自動車でググってみたところ以下のような画像が見つかりました。こういう車で速度制限無しというのは下手なジェットコースターよりもスリリングな体験が出来そうです。

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●こちらはエレベーターとエスカレーターについての記述です。
此のエレヴエートルほど人間を器械視し荷物視したものは恐らくあるまい、多人数を一處に箱のなかに入れて、グイと綱を引つ張ると、スーツと上つて行く、便利と言へば便利であるが、面白くない事夥しい。
尤も器械的なのにも面白いのがある、市中の高架電車の停車場にのぼる梯子段にはそれが自働的に動いて、人が其最低の一段にのると足を動かさずして自然と上にせり上げられるのがある。此れ等は人間を荷物視して居るかも知れぬが、ぶしやうものには――余も其一人として――至極都合の良いものである。

戸川秋骨 『欧米紀遊二万三千哩』 1908年 服部書店 p.124

 エレベーターやエスカレーターは人間を荷物のようにしているという見方は、これらを初めて見た人ならではの感想で大変興味深いものでした。現代人だと物心ついたときから慣れ親しんでいるためにこいった物の見方はなかなか出来ないと思います。

 このような見方からすれば現代の満員列車はさしずめ貨物列車といったところでしょうか。



●こちらは当時のアメリカでの日本人排斥についての記述です。
米大陸に滞在中この方遇ふ人毎に、桑港の日本人排斥に付て、言ひ譯を聞かされたには、嬉いといふよりは困つた位であつた。否なかれ等の言葉は言譯といふよりもむしろ憤慨であつた。東部の米人は誰れもかれも版で捺したやうに、桑港市民の行動を非難し、米人は決してアンナ不都合な働をするものではない、アレはみな外國からの移住民が、日本人のために自分等の職を奪はれる恐れから叫び出した事である。かれ等の行動は米國の面汚である。國辱であると云ふのである。

余は又桑港日本人の不都合も想像して居るから、これ等の人々に對し、吾が同胞も宜しくないのであると言つても、かれ等はそんな事には耳も傾けぬ。

戸川秋骨 『欧米紀遊二万三千哩』 1908年 服部書店 p.144-145

 当時のアメリカでの日本人排斥については見聞した人によってその感想は様々で上記の引用だけで論じることは難しいですが、当時のアメリカ社会の一端を窺うことが出来る興味深い記述であると思います。



●こちらはドイツ人の特徴についてです。
頬に長い傷のあるのは明らかに獨逸人たる事を表明して居る。

戸川秋骨 『欧米紀遊二万三千哩』 1908年 服部書店 p.145

 この記述だけだと何故頬に傷があるとドイツ人なのかということは分からないのですが、当時のドイツでは決闘で顔に傷がつくことを名誉の勲章にしていたという背景があります。尤も、この決闘は実際に命の奪い合いをするというものではなく、あくまで形式的なもので顔に傷をつけるためにされていたという記述すら見かけたりします。

 以下例としてドイツの決闘と顔の傷について言及がある記述を紹介します。

フランスの決闘と比較して面白いのはドイツの決闘である。ドイツ人は非常に虛榮心が强くつて空威張りをすることが好きだ。

この決闘はフランスに於けるが如く生死の決闘ではなくて、何れか自慢の鼻を折ればよいのである。そこで切合ひをするのであるが、その切り合ひたるや、眼をかくし、咽をかくして命には障りがないようにしておいて、何れかの頬さきにかすり傷が出来ればそれで満足するのである。これは重に學生間に行はれるので、この刀傷は教育を受けたといふ印になるのである。

五来欣造 『仏蘭西及仏蘭西人』 1915年 富山房 pp.18-19



●こちらはイギリスの保守性についての記述です。
ジロジロ街上を見ながら歩て居るが一つ不思議な事がある。あるのではない。ない事が不思議なのである。ないといふのは電車である。

此の大都會の交通機關が偏に吾が人力車なる馬車とオムニバスとに依つて居るとは如何にも古風な趣がある。英國の保守的な事は此の一事にて察しられる。

戸川秋骨 『欧米紀遊二万三千哩』 1908年 服部書店 p.179



●こちらは日本とフランスでの接客の違いについての記述です。
食堂に這入る前に帽子を渡すと「難有ふ」(メルシイ)と云ふ。歸(かえ)りにそれを受取る時にも復(ま)た「誠に難有ふ」(ビアン、メルシイ)と言ふ。此れでは逆ではないか。預つて貰ふ方から禮(れい)を言ふ可(べ)きであるに此方の言ふ事は何時も對手(むこう)から言うて了ふ。變な婆さんである。併し此變な事は世界一般が行つて居る事である、買物を爲(す)ると賣(う)つて貰つた方から禮を云ふ可きであるのに賣つた方が禮を言ふ。

戸川秋骨 『欧米紀遊二万三千哩』 1908年 服部書店 pp.245-246

 帽子の受け渡しについては、客側がお礼を言うという考えは現代でも結構理解できるものだとは思いますが続く記述で買い物客がお礼を言うべきであり、店員側がお礼を言うのは不自然というのは現代とは違いがあり大変興味深い記述でした。

 勿論現代でも買い物の場面でお客側がお礼を言うのは自然な範疇だと思いますが、店員側がお礼を言う方がより自然なのではないかと思います。そのことを「此變な事」と言っている点に現代と当時の日本の商売観の違いを感じました。

 この記述だけではなく当時の日本人の間では買い手側より売り手側の方が立場が強いという意識があると感じるような記述はちょくちょく見かけます。



●こちらはアメリカの料理の多さについての記述です。
米国の一人前と云ふのは二人前の事である、――少くとも余は左様解釋した――

戸川秋骨 『欧米紀遊二万三千哩』 1908年 服部書店 p.391

 この時、戸川秋骨はステーキを頼んでいるのですが「我が西洋料理店で出すのの約五倍はあらうか。」と記述しています。アメリカには何度か行ったことがありますが、流石に五倍の大きさのステーキは経験したことはないものの、料理の量が日本と比べると少なくとも二倍から三倍はあるという体験はよくしたことがあるので、とても同意できる記述でした。





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